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「壮へ」 1年・小泉和

初めまして。

スポーツ科学部1年の小泉和といいます。

拙い文章ですが、読んでいただけると幸いです。

横浜サイエンスフロンティア高校出身です。
と言えば分かる人もちらほらいるかもしれないですね。

みんな不思議に思ったでしょう。

勉強面では聞いたことあるけど、サッカーでなんて聞いたことないぞ。ア式蹴球部に入部した? まじかよ。無名出身だけど、サッカーうまいんか? すごいやつなんじゃね?


-ここで少し雑談-

雑談
「横浜サイエンスフロンティア高校サッカー部について」

まず活動について、月水OFF、土日はどっちかが活動で片方はOFF(基本週4回活動)
夏休みは活動が20回という規定があり、合宿というものはない。

つまり、休みばかりであった。

横浜サイエンスフロンティア高校は勉強にフォーカスする高校であり、運動部はどの部活も栄えていなかった。自分が入部した当時は3年生が5人、2年生が10人くらいで、自分の代は仮入部含め9人であった。自分が2年に上がる前には自分の代はほとんどが辞め2人に。

2年の初めの方についに自分の代は1人になった。同期はいなくなった。

入ってきた後輩(新1年生)は10人程度。新3年生は5月初めに引退。11人カツカツで何試合も。

自分が3年生になる時、入ってきた1年生は10人程度。
自分が3年生になって7月31日に引退。
自分の代になってから勝った試合は、練習試合を含めても片手で数えられるくらい。

弱小高校の中の弱小高校だった。


雑談終わり。


めっちゃ弱いじゃん。でも入部するって考えただけでもすごいんじゃね?
皆さんいろいろな期待や感情を膨らませた人も居るかもしれません。

確かに、普通の人なら無名中の無名で弱小高校から早稲田大学のア式蹴球部に入部するなんて考える人はあんまりいないと思います。

こんな自分がア式でサッカーをするわけ、今日はここについて自分の過去を踏まえながらゆったりと話していこうと思います。


―小学生編―

小学校1年生の時、保育園の仲が良かった友達たちがサッカーをやるという理由で、地元の大曾根スポーツクラブというチームに入った。小学生時代、自分はサッカーを本気でやっておらず、特に低学年の時は練習終わりに友達と遊ぶことばかり考えていた。

高学年になると遊びの中にサッカーが増えていき、次第にチームの仲間と地元の河川敷で自主練をするようになった。自主練といってもほぼ遊びの3vs3というもの。その3vs3は基本的にパスを出さない個人技に頼るものだった。ここで少しだけドリブルがうまくなった気がする。

1.2年はずっと下のカテゴリー。3.4年はチームを均等に分けたチームで試合に出させてもらっていたと思う。5.6年は下のカテゴリー、最後の大会だけAチームのベンチになった。

本当にどこにでもいるサッカー少年。でも決してうまくはなかった。

図5

(一番前の右から3番目の緑のスパイク)

Aチームの人たちは、中学では基本的にみんなクラブチームに入る流れであった。自分も最後はAチームだったという変なプライドからクラブチームに入る決意をした。
決意はしたものの、そううまくはいかず友達と同じチームのセレクションを何個か受けたが、実力が伴っておらず、友達は受かったが自分は落ちた、というものばかりだった。

その中で自分を拾ってくれたのが、中学に行くことになるCOJB(シーオージェービー)というチームである。


―中学生編―

時系列がごちゃごちゃであること予めご了承ください。

COJBというチーム。おそらく今までの人生でこの3年間は一番濃い時間であった。

図4

(15が自分、3が壮)

小学校は土日だけの活動だけであったが、中学からはクラブチームということもあり水曜日以外は基本的に活動があった。月曜日は体育館、火曜日はグラウンド、木曜日は日産スタジアムかサッカーのできる公園でボールを触らず走り、金曜日はグラウンド、土日は試合かグラウンドというスケジュールで引退まで約2年半活動した。夏休みは木曜日がグラウンドになる代わりに、火曜日と木曜日は午前練習からの河川敷で炎天下の中の2部練。たまに土日も入る(笑)。

特に木曜日は本当に地獄、、、この走りがきつすぎて最初は20人近くいた選手が気づけば10人以下になっていた。木曜日は朝の学校登校からしんどい。走りはタイムに入るまで終わらない。平気で練習時間を超えるし、泣き出したりする選手もいた。
でも、今振り返ればいい思い出だし、あの走りは自分をかなり強くしたと自負している。

こんな自分の中学のサッカー生活、つらいがいつ終わるのだろう、と中1の時から考えていた自分がいた。

そして中学1年生の11月、一生忘れることのできない出来事が起こる。

寒い中、自分は泣きながら自転車を一生懸命に走らせた。同じチームの家が近い選手と河川敷で合流し、鶴見川沿いを走らせた。

自電車をこぎながら「泣くなよ」と友達に言われた。今でも鮮明に覚えている。「だって、だって、」と泣きながらネガティブな自分がいた。あの時、泣かないで、強く信じて、こらえていたら。何度後悔したことか。

自分たちが向かった先は、横浜労災病院。

「壮君が危ない状態にある」母にそう伝えられた。
(壮とは栗山壮という同期のメンバーである。)

その夜はチームみんなで病院に集まった。面会はできない。
応援メッセージを動画で伝え、みな家に帰った。

そして何日か経ち、
2014年11月27日、壮は静かに息をひきとった。
13歳だった。

当時13歳の自分には、「死」というものがよくわからなかった。

壮とのお別れの日、ひたすら泣いたのを覚えている。普段絶対に泣かないようなチームメイトも泣いていた。ただ泣くことしかできなかった。本当につい最近まで一緒にサッカーしていた仲間が突然消えた。実感が全くなかった。

そのお別れの日、サカナクションのAoiが流れていた。壮の親によると、壮が好きな曲だったらしい。この曲を聴くとあのお別れの日を鮮明に思い出す。

壮との覚えている最後の思い出は、木曜日の走り(ショート、ミドル、ロングといえばCOJBの人ならわかるかもしれない)の終わりのダウンをしている時だった。走っていたコースを壮と2人、「乳酸たまるから軽く走ろう」壮が自分に声をかけた。その時話した内容は長友の話。壮が長友のすごさ、長友が高校、大学とすごく努力していたことを話してくれた。そんな話の中、

「俺も長友みたいになりたいなー」

彼はそういった。冗談か本気かはわからない。彼は当時センターバックで夏の合宿の時もコーチからMVPをもらっていたほどの実力。試合中に彼が抜かれるのを見たことがない。監督がとても熱い人で、プロというものに自分も少しあこがれがあった。でも自分は下手くそだし、プロになりたいかという質問に軽くうなずく程度。それと同時に自分にはなれないんだろうなとも。そして、壮みたいにうまい選手はプロになれるんだろうな、とか思っていたと思う。

彼の思いも背負い、自分は練習を頑張った。でも今考えると自分を甘いなと思う。

「きついときにその人の本性は出る」

この言葉を知っている人も多くいるだろう。当時の自分もこれにとても当てはまる。頑張ろうとは思う。しかしCOJBの練習はきついものが多く、どこかで妥協していた。その妥協すら当時の自分は妥協とも認めずに、「壮のために」とかっこつけて、頑張っているように見せているだけだった。自分はえらい。こんなに頑張っている。と思い込んで。

そんなきつい中、親に自分は言った。

「サッカーやめようかな」

当時は結構真剣に考えていた。自分はうまくないし、このまま続けることに価値を見出せなかった。自分のせいで負ける試合。冗談でもチームメイトに「やまちがいると勝てない」(当時の自分のチームでのあだ名は「やまち」だった)といわれるのがつらかった。走りもきついし、中学の部活に入ったら少しは活躍できるかな、とか考えていた。

でも、やっぱりやめられなかった。他にも同期はやめていっていたし、やめる勇気がなかったわけじゃない。壮のことがすごく心に引っかかった。本当にすごく。彼は自分よりサッカーがうまく、練習していたし、人望も厚く、夢も偉大だし。そんな彼がこの世を去って、どうして、彼よりサッカーが下手で、練習も妥協して、やめたいとか言って。当時、彼より自分が死ぬべきだったんじゃないかと何度も泣いた。泣いて泣いて、また泣いて、でもやっぱここでやめたら壮に合わせる顔がない。3年最後の大会まで続けることにした。

8月下旬、なんの結果も残せないまま自分はCOJBを引退した。

9月の初めから地元の早稲田アカデミーに入り高校受験を始めた。親からは、ある程度頭の良い学校に行けと言われていたので、COJBの同期である山本雄士が通っていた慶應義塾高校を第一志望とし受験勉強を始めた。サッカーも強く文武両道な学校である。慶應は私立であり、公立高校も受験するという約束であったため、科目は増えるが自分の得意科目の点数が2倍であるという負担の少ない横浜サイエンスフロンティア高校を受けることにした。自分は慶應に受かるつもりで本気で勉強していた。毎日、学校で内職し、学校が終わると、塾に行き自習室が使えるまで勉強。かえっても朝4時まで勉強していた。当時は睡眠時間に無関心だった。

自分の頑張る姿に、親は自分が行きたいという講座に行かせてくれた。そのおかげで成績も徐々に伸び勉強が好きになった。宿題も多く、厳しかったが早稲田アカデミーは自分を勉強好きにしてくれた素晴らしい塾である。

しかし、結果は不合格。そして、高校で行くことになる横浜サイエンスフロンティア高校への進学が決まった。こんなに頑張っているんだし、受かるだろうと思っていた自分にはとても悔しかった。でもそれ以上につらかったことは塾の費用である。受験をしていた当時はこんなにお金がかかるなんて知らなかったし、それで落ちたことによる親への申し訳なさが半端じゃなかった。その時、自分は東大に行って親孝行しようと決めた。

受験が終わって、遊びながらも高校の数学と英語の先取りを始めた。高校に入る前に数ⅠAⅡBの学習を一通り終わらせ、英語も高校受験で使っていたものの音読や、単語帳を持ち歩いて勉強していた。そして高校に入学する。


―高校生編―

横浜サイエンスフロンティア高校を以下サイフロと略します。

図3

入学して早々、サッカー部が弱いことを知った。自分が1年から試合に出ていっぱい試合に勝って、勉強しながら文武両道を頑張ろうなどと思っていた。しかし、現実はそんなに甘くなかった。

高校生活初めての公式戦。インターハイの初戦、相手はア式の同期の山田怜於と藤間英吉の母校である鎌倉高校。自分は1年生ながら試合に絡ませてもらえた。しかし結果は散々。2桁も得点差が開いていた。

その試合で自分は何もできなかった。自分はここでならできると思っていたのに、何もできなかった。当時の自分は、かっこつけて「今日は調子が悪かった」とか言っていたと思う。

選手権も全く結果を残せずに3年生は引退。このころから同期が順にチームを去り始めた。自分は自分のことに精一杯。引き留めても帰ってこないだろうと、同期に真剣に向き合うのを避け、自分のことばかり考えていた。ついに自分以外はみんなやめていった。

当時2年の新キャプテンであった先輩は、自分のせいでチームがバラバラになり後輩がやめていったと自分を責めていたと思う。でもそんなことはない。すべて自分の責任だ。いまだからこそわかる。自分が真剣に向き合えば、自分の代が一人になることはなかった。自業自得だと。

サイフロは委員会、研究、勉強などと部活以外に多くの活動があり、特に冬の期間は16:00に帰りのホームルームが終わり、18:00には完全下校であった。ただでさえ練習時間が短いのに、自分がグラウンドに行くと自分しかいない。16:30くらいになったら誰かくるだろう、と1人アップをし、自主練をする日々だった。基本的には全員は集まらない。結局誰も来ず自分ひとりだけという日もあった。でも、言っても仕方がないのだ。みんな仕事があるのだから。

そんなことを1人で「あー、おれもここで散るのかな」と考える日々。みんながやめていくのも、どうせ来ないしな、とどうでもいいと考えていた。そんな日々が過ぎていく。

最初、1人になった時は別に大丈夫だろうと強がっていた。でも、だんだん寂しくなっていく。正直、最初からつらかったかもしれない。部活終わり、後輩は後輩同士で帰る中、自分は基本1人。遠征に行くときも帰る時も1人。たまに遠征帰りに恥ずかしさを隠しながら後輩についていき、一緒にご飯を食べた(おごりではない)。引退試合の日は1年生の集団についていき、ナンカレーを食べたのを今でも覚えている。引退試合は元同期も、クラスメイトも友達も誰も来なかった。母だけが来た。複雑な気持ちになりながら、帰りは後輩についていった(笑)。他の高校のサッカー部のみんなは最後に焼き肉とかいくのかなーとか考えながら。

自分は高校に入った時から大学でもサッカーをやるとは決めていたが、ずっと志望校には東大と書いていたので、東大のサッカー部に入るんだろうなと思っていた。自分が東大は違うなと思ったのは高2の途中だったと思う。自分は実験とかそういうのが好きだと思っていた。自分の高校では2年生の時に1年間かけて何かについて研究するという特徴がある。自分は車のボルテックスジェネレーターについて流体解析ソフトを用いて友達と共同研究した。確かに面白かったしいい経験になったと思う。それと同時に「こういうことを大学でも、そして大人になってもやるのかな」という変な違和感があった。

いろいろ自分で考えた。そろそろ大学を決めなくてはいけない。東大に行くのか。行くって言っても当時の実力では難しかっただろう。もう自分の進路を決めなければいけない。

果たして、将来何がしたいのか。
思いついたのはサッカー。

自分は、自分の高校が弱いということを言い訳にサッカーへの挑戦をあきらめていた。そして、壮のことを思い出した。また惨めな気持ちになった。生きている俺が挑戦をあきらめてどうする。

壮が叶えられなかった夢、俺なら叶えられるかな。

何となく、監督の前でうなずいていた中学の時。
友達に冗談でおれプロになるから、と言っていた高校の時。
小学校の時はうなずきもしなかった。

体育系学部に行きたい。強い大学でサッカーがしたい。
学業に厳しい親に伝えるのは勇気が必要だった。何度もけんかをして、衝突した。結局、理系の学部も受けることが条件になった。数Ⅲ、物理、化学も冬まで勉強した。結局、ぎりぎりで理系学部は受けなかった。お金がもったいないのと、第一志望への勉強時間を確保するため。

自分が壮の夢を叶えると決めてからは行動が早かった。知人の紹介で月、水、木は社会人フットサル。OFFの土日は社会人サッカーに参加した。基本的に毎日、マンションの下で1人でドリブル練習をしていた。しかし高校時代ドリブルはひたすらやっていたが、1vs1を全くしてこなかった自分は大学では全く通用しない。かなりショックだった。


そしていくつか日にちが経った。

ビジョンシートにも書いたが、自分の夢は単なるプロ志望じゃなくなった。

自分と同じ境遇の人に、夢や希望を与えること。

これはプロになった後でも人生をかけて一生目指すべきところと置いている。自分は弱小高校出身だ。この立場をあえて利用する。強豪校、強豪チーム出身の選手がプロになるのとはわけが違う。自分にしかできない挑戦だ。勝算はほぼない。でも、ゼロじゃない。

なんせ俺は生きている。

生きている奴にしかできないことをやらなくてどうする。壮は何もできないんだ。自分以上に馬鹿げた挑戦も、めちゃくちゃつらく苦しいことも経験できない。でも俺はできるんだ。

これからもア式の4年間、つらいこと、うまくいかないこと、悲しいこと、逃げ出したくなること、絶望する日だってあると思う。そういう日がたぶんほとんどだ。3月末から活動してもう10月、今までもめっちゃつらかった。でも俺ならできる。繰り返しになるけど俺は生きている。あと壮も俺の中にいる。

図2

(夏の合宿の時、一緒にホラー映画を見ている唯一のツーショット)


最後に壮へ送る。

俺は弱い。うまくいかない日、いつもつらい気持ちになる。つらすぎて言葉が出ない日もある。でも、壮がいたからここまで頑張れた。俺が本当にくじけそうなときは心の中で俺に勇気を与えてくれた。これからもつらいことばかりだろう。その時はまた頼む。俺も壮みたいに誰かに勇気、希望を与えられる選手になりたいな。今は下手すぎて、それを口にするのも恥ずかしい俺がいる。でも聞いてくれ、中学の時よりはうまくなったんだ。

このブログを書いていて思った。もう一度、壮とサッカーがしたい。
泣きそうになるからここまでにする。


ありがとう。

図1


小泉和(こいずみやまと)
学年:1年
学部:スポーツ科学部
前所属チーム:横浜サイエンスフロンティア高校

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