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「親を忘れる日、それは事故の起きる日である。今日一日、親に生かされて有り難い私で在りたい。念願は人格を決定す。継続は力なり。」 1年・平川功

親を忘れる日、それは事故の起きる日である。今日一日[イチジツ]、親に生かされて、有り難い私でありたい。念願は人格を決定す。継続は力なり。

これは僕が3年前まで通っていた作陽高校、旭寮の朝の点呼のときに復唱する言葉たちである。



「お願いします。もう一度だけチャレンジさせてください。」
電話で泣きながら言った。日比谷駅のホームは自分の泣き声が響いていた。僕はもう一浪したいと泣きながら祖父に嘆願していた。一浪して結果が出なかったのは自分のせい。だけど、ここで諦めてしまうと自分が自分でなくなる。合格することで完成する自分が、未完成のままで進んでいく感じがした。人生が。
ここで祖父に言われた。
「サッカーで結果出なかったやつをどうやって信じれるねん?」
そう。自分はサッカーで作陽高校に進学したが、結果が出なかった。


高1のとき、白緑戦(紅白戦の意)で入ったキーパーのプレーが監督の目に止まり、キーパーやってみないか?と推薦で、センターバックからゴールキーパーに転身した。センターバックでこれからやっていけるか不安だったため、希望の光が見えた気がした。しかし僕は甘く考えていた。次の日からいきなりゲームに入り、基礎も知識もない状態で練習をした。
3年生からは暴言、2年生からは暴言、同期からも暴言。そして究極の縦社会。
しんどかった。また、毎年秋には作陽カップという、選手権に入れなかったメンバーだけで行う学年総動員のカップ戦があった。そこでのキーパーは毎試合ジャンケンで選ばれる。ジャンケンで負けたチームには最後まで残った自分がつき、そのチームは皆口揃えて「最悪や、負けた」と言っていた。試合はまだ始まっていないのに。
毎日学校を辞めたかった。毎日母親に電話して泣いていた。「こんなはずじゃなかった」と。
そんな孤軍奮闘の時期が続いたが、1年の冬に行ったスペイン遠征で、自分はBチームだったが、Aチームよりも勝ち進んだ。そんなとき、コーチが「Aのキーパーが平川やったらBよりも勝ち進んだのにな」と言ってくれたのを覚えている。嬉しかった。仲間も「お前ほんまに上手なったな」と言ってくれた。必死でした自主練が報われた気がした。何回も読み直し擦り切れたキーパー講座の本も誇らしく見えた。

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Aチームよりも勝ち進んだスペイン遠征

そうして高2の夏の練習試合で相手FWとぶつかり、顔面陥没骨折という大きな怪我をし、左頬を手術してからこれから自分は何になりたいのかというのを意識し始めた。
自分が所属していたコースは指定校が無く、自力でいくしかないということもあって、勉強するため他のみんなより先に休部という形にしてもらい、サッカーから退いた。
結果は不合格。落ちたら浪人する。そう決めていた。ここまで勉強できるようになったのだからもう1年勉強すれば受かるだろう。そう思っていた。

一浪の末、合格。したのは滑り止めだけだった。センター試験が終わった頃くらいからメンタルがイカれた。不合格という言葉が僕の目の前で彷徨っていた。結果、志望校の勉強もままならず、滑り止めだけしか受からなかった。ショックだった。でもショックなのは前から分かっていたことなのに。勉強しなければ受からない。当然のことなのに。

そして、受験料を全て出してくれた祖父に結果を電話で報告する。電話すると決めて先延ばししてから1週間が経っていた。そんなとき作陽の同期で一浪して筑波に受かった友達からご飯に行こうと誘われた。その後、「ボヘミアン・ラプソディ」を観に行った。フレディ・マーキュリーを見てテンション上がった僕は、決心して祖父に電話した。しかし、温度差が激し過ぎた。
僕は言った。もう一度浪人させてくれ、と。
こんな結果で終わってしまえば、自分はこの傷を一生抱えて生きていかなければならないと。
しかし、祖父は頑なに許してくれず、受かった大学に通えと言われた。もう1年浪人は無理だ、と。親にも言ったが、断られるばかりだった。浪人は1年だけの約束だった、と。
そこで初めて自分は強い意思を固め、「なら、仮面浪人する」と決めた。仮面浪人の意味もわからない祖父に事情を説明すると、「無理に決まっている。もう勝手にしろ。」と言われた。もう1年頑張るには何かを捨ててもいい。いや、捨てる覚悟でやらなければならない。そこで、成人式、帰省、遊びを捨てると決めた。
しかし、自分には仮面浪人で受かる保証はなかった。ましてや仮面浪人で受かる人は1割を切ると言われている。その1割もいない中に、一浪でダメだった俺が入れるのか不安だった。でもやるしかなかった。このまま終わりたくなかったから。でもまだ迷っていた。もう勉強から逃げたかった。自由になりたかった。
だから、大学に入ってから決めることにした。


そうして、入学した日本大学法学部。
笑えなかった。
入り混じった感情で混乱していた。
ガイダンスの日。僕は遅刻していった。舐め腐っていた。
「ガイダンスなんか遅刻していってええやろ」。でも、同じ感情をもつやつが僕の席の隣にもいた。彼も同じ不本意入学だった。そして彼も遅刻してきたらしかった。僕はこれから仮面浪人することを伝えると、彼は素直に応援してくれた。そこでやっと意志が固まった。

でも、一緒に勉強する仲間が欲しかったので、Twitterで仮面浪人を探した。DMを送ってそいつと図書館の前で会って、話した。彼も僕と同じ、浪人して日大法学部に入り、仮面浪人して早稲田を目指す子だった。それから僕と彼の1年間は始まった。朝早く起きて、1限が始まるまで水道橋のマクドで勉強。それから授業に行き、空き時間、図書館にこもる。昼食はほとんど1人。22時の閉館まで図書館にこもるという生活だった。僕は一人暮らしで仮面浪人だったので相当キツかった。親の仕送りで生活をしているので少しでも生活費を節約するためできるだけ自炊した。

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21時を指す日大のキャンパスの時計

仮面浪人というものはモチベーションを保つのが大変で、勉強がめちゃくちゃできる日もあれば、「もうこのままこの大学でいい」、と一日中、学校にもいかずベッドの上で寝ていたときもたくさんあった。自分が決断したことがあまりにもキツかった。現実逃避するために、寝た。寝て全てを忘れたかった。でもどこかで自分でエンジンをかけなければならず、急に我に帰り、「また落ちる」と不安になり、半泣きになりながら勉強した。その日は、寝てサボった分まで取り戻さなければならず、オールだって何回もした。
そうして、長い春を抜け、夏が来た。またこの夏を経験するのかと思いながら勉強勉強勉強。電車で単語帳を開く高3があまりにも幼く見えた。しかし自分が老けただけ。俺はいつまで同じ道を何回も何回も辿っているのだ。結局なにも進歩していないじゃないか。そう自暴自棄になり、勉強から離れ、またサボった自分を悔やみ、また勉強する。そんなことの繰り返し。
友達は必修のクラスでしか作らなかった。大学の授業中に受験勉強するには、どうしても周りの人間が邪魔だった。でも初めからみんなに「俺は仮面浪人です」と言ったら引かれると思ったので、最初は1人だけに「実はやっぱりまだ諦めきれへんくて、もう一回だけ頑張りたいねん。応援してや。」とうまく言った。するとそいつも引かずに応援してくれ、それからその口述を使い、自分は仮面浪人だと言って何人も理解者をつくり、授業中に受験勉強してもバレないように自分の前にそいつらを座らせて壁を作らせて、僕は1人黙々と勉強していた。大学の教授も上手く使った。先ほどの口述を使い、過去問で分からないところがあれば授業後に質問するというシステムをつくった。

そんなこんな経て季節は秋に変わり、冬に変わった、受験が近づくにつれメンタルは崩壊しかけていた。
「このままこの大学でもええやん」
また奴が襲ってきたのだ。朝起きれなければその日は死亡。勉強も何もせず、テレビかYouTubeを見ていた。その間、必死に親や祖父母が働いてくれているにも関わらず。そして、我に返り、また自分自身をけなし、悔やむ。

季節は冬。
「こんなはずじゃなかった」
この言葉は何度思ったことだろう。大学の授業のクラスのメンバーも、自分が仮面浪人だと知らない人たちは僕のことを不気味に思っていた。そいつらに僕が仮面浪人であることの噂が流れると、「無理だろ」と影で噂をした。いよいよ、サポートしてくれていた、こっちよりだった友達の1人も「仮面浪人とか無理でしょ」と言い出した。図書館で勉強していると、指を差されヒソヒソ話される始末。
しかし、そんな中でも希望の兆しが見え始めていた。1年前より自分の学力がより上がっていて、1年前のその時期よりも過去問の点数が良かったのだ。
「これで今年は受かる」
そう確信していた、のも束の間。
僕は誰とも喋らず迎えた誕生日で20歳になっていた。20歳となると、二浪の人は成人式行くか行かないか問題の壁が立ちはだかる。中学の同期は自分が今何をしているのかさえ知らない。そんな人たちに自分が仮面浪人だと知って欲しくなかった。でもそれさえノリで乗り切れば行きたかった。家族も、一生に1回だからと、楽しみにしていた。
自分の揺るがないプライドと、行って遊びたいという欲望。
しかし、行かなかった悲壮感よりも行って遊んでしまったときの罪悪感の方が怖かった。
なにより今、自分はメンタルがギリギリの状態で勉強を続けることができている。この状態で、自分が抱えている状況と全く違う人達がいっぱいいる環境に行ってしまうと、自分が自分じゃなくなりそうで、行ってしまうと、自分の中で何かが壊れそうで。壊れてしまうと勉強ができなくなる。怖かった。
だから僕は行かないという決断をした。欠席する理由は、インフルエンザにかかったからと言った。「自分には関係ない。成人式は捨てたはずや。」と何回も自分に言い聞かせ勉強していた。周りの二浪の友達は成人式に行っていた。
そのとき地元の友達から成人式の写真が送られてきた。その写真を見て自習室で涙が出た。
自分は何をやっているのだろう。なんでこんな人生を送っているのだろう。人生やり直したい。
何回もそう思った。

入試が終わるまでの日々は相当過酷なものだった。
朝はやっぱり早稲田に行くために勉強するという気合いの入った自分と、夜はもう日大でいいやという自分。
1日で何回も感情がコロコロ変わる。
気が狂いそうだった。

仮面浪人というものは一見、救いの場があるように見えて実はない。なぜなら、自分は「仮面浪人という人間」として日本大学に通っていたからだ。だから、来年は「普通の1人の大学生」として通うことは到底できなかった。友達も「仮面浪人という人間」として僕はその友達を選んでいた。気合うかどうかなんて関係なかった。ただただ勉強しやすいように作っただけの友達。
閉館まで自習室を使い、家に帰るため駅のホームで電車がくるのを待つまでの時間。
いつも涙が出ていた。
「落ちたらどうしよう」
そんなことばっかり考えていた。暇さえあればその考えが襲ってくる。何か集中でき、夢中になるものがなければ、すぐそこに負の感情が待ち受けていた。
一方で、そこまで大学に拘っている自分に嫌気がさしていた。頑張ったけどダメで、残りの受かった大学に行って、頑張っている人って、「カッコイイな」とか思っていた。嫌な自分を受け入れて、前向いて頑張っているって、「すごいな」なんて思っていた。

入試当日の朝も、負の感情との闘いがあった。
僕は文化構想学部に行きたかった。もちろん、それまで過去問で合格点をとり、対策をしていた。しかし、その日の朝その日行かないという決意をした。僕は早稲田に行くのが最低な条件。
だから、その最低を最高の力で手に入れることが大事だと思った。自分の中でスポーツ科学部が一番やりやすくて、一番過去問も解いていた。なので、その日はスポ科の勉強をした方が効率がいいんじゃないかという決断になった。
もちろん、今はその決断を後悔している。
そうして、僕は入試当日までギリギリの闘いをし、ようやく早稲田に入学できた今。
同じ二浪を闘った友達達は、誰一人早慶に受からなかった。

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気が狂いそうな自分を気にもとめず、素っ気なく輝いていた太陽


今はやりたいことができている。
新入生紹介をただ写真と文面だけではなく、動画にしてその人個人個人にあった紹介をしているのもやりたかったことのひとつ。もちろん、構成や編集もまだまだ納得いっていない。
マネージャーとしてア式に入部してこれからもやりたいことがたくさんある。僕は昔から芸人さんが大好きだ。今、吉本で芸歴2年目の友達もいる。その友達には何回も一緒にコンビを組もうと誘われた。芸人さんは本当に素晴らしい職業だと思う。才能があっても売れない、逆に才能がなかっても何かの突拍子で売れることもある。そんな不思議な世界。

何歳になっても諦めず夢を追い続けて頑張っている人ってかっこいいなと思う。僕は将来、テレビ局で働いて芸人さんと一緒に面白い番組を作りたい。
そして、もう一度テレビを盛り上げたい。
僕はテレビが大好きだ。特に最近改めてすごいなと思うのは、年末ではない普段やっている「ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!」。とにかく企画がめちゃくちゃ面白い。その企画もあの芸人たちでやるから面白い。

僕がなぜ放送研究会や、広告研究会に入らなかったのかとよく聞かれることがある。それは放研や広研だと人数が多く埋れてしまい、自分のやりたいことがやれない可能性が高いと思ったから。あとはサッカーを本気でやってる人と関わりたくて、大きな組織で何かを生み出すより、大きくない組織で何かを生み出した方が、インパクトがあっていいなと思ってから。

僕はこれからア式で番組をやりたいと思っている。もちろん、やれるならテレビが最高だが、そんな力はないのでYouTubeで。もちろんYouTube以外でもいい。
大学の体育会で、本格的に本気でYouTubeをやっているところはまだないと思う。またなぜ番組をやるのかについては、アイドル番組を見たときに思ったから。アイドルというのは顔だけではなくその人から滲み出る人間性だったりその人の魅力だったりで、ファンがついてくる。それはどの人間にも言えること。僕だって魅力はある(笑)。その魅力を伝えるためには何かコンテンツが必要だと思った。そのコンテンツを見てア式に魅力を感じ、試合に観に来てくれれば選手のモチベーションも高まるだろう。早慶戦もそう。「試合観に来て」と言ったって、選手やア式、試合に行くことに魅力を感じないと、サッカーに興味がない人は来てくれないだろう。その人のことを知っていて行くのと、知らないで行くのとでは大違い。だから内容もそんなにサッカーサッカーせず、にわかファンに向けたあまりサッカーとは関係のない内容で、いろんな人が番組を面白いという感情のフィルターを通して見れるように、あまり早稲田大学の中のア式蹴球部としてやらずに、ア式蹴球部としてやった方がいいんじゃないかと思う。だからそのコンテンツとして毎週やる本格的な面白い番組を作りたい。
あとはドキュメンタリーも作りたい。
リーグ戦から練習までずっと密着してみたら面白いものが撮れるかもしれない。
あとCMも作りたい。新入部員を募集するためのCM。ア式を知ってもらうためのCM。

体育会という組織をもっと題材的に広めていきたい。やりたいことはいっぱいある。
でも、こうやってやりたいことをやらせてもらえてるのは、早稲田に来るまでの過程があったから。日大に行って良かったと思う日が来るかもしれないし、二浪して良かったと思う日が来るかもしれない。いや、別に来なくてもいいかもしれない。
それが自分。ありのままを受け入れて目標を持って頑張っているのがカッコいい。
僕は失恋とかして泣いてる男は物凄いカッコいいと思う。言葉は悪いが、ニューハーフやゲイも物凄くかっこいいと思う。今でこそ少し多様性が認められているが、でもまだ世間一般では客観的に見れば生きにくいことばかりだろう。そんな、世の中を必死に対抗して生きてる感じがしてカッコいい。でも、このかっこいいを知ることができたのは、見い出せたのは僕自身がある程度だけ苦労して経験してきたからかもしれない。もちろん、もっとしんどいことを経験してる人はたくさんいると思うが。

僕は思う。
「苦労してきた人には魅力がある」と。
僕はもっと魅力ある人間になりたい。40代ぐらいのおじさんってかっこいいなって思う。
僕は、今はまだ仕事の面でミスが多く、組織でも迷惑をかけるばかり。しかし、自分が最高学年になるときには、魅力ある人間に少しでも近づきたい。

「長期的負けず嫌い」
高校の監督からスタッフ陣までいつも言っていた言葉。ただの負けず嫌いなんて幾らでもいる。でも、その負けず嫌いを一瞬の感情で終わらせずに、ずっと心の中に持ち、本気で頑張り続けることが大事だと。この言葉はこれからの人生においても必要なんじゃないかと思う。
浪人時代も長期的負けず嫌いになってたからこそ、諦めず二浪までして早稲田の体育会に入った。またその土台には親、家族の経済的な、全面的なサポートがあったからこそ。
もちろん、高校時代も。

親を忘れて事故が起きないために、いつまでもありがたい気持ちを忘れずに、念願を叶えるために人格を形成し、継続していきたい。


平川功(ひらかわこう)
学年:1年
学部:スポーツ科学部
出身校:岡山県作陽高校


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