見出し画像

「『マネージャー 藤間英吉』 全部話します」 1年・藤間英吉

こんにちは。早稲田大学ア式蹴球部1年マネージャーの藤間英吉(とうまえいきち)です。

気がつけば、夏が終わり、秋がやってきました。ア式蹴球部に来て、もうすぐ4ヶ月が経ちますが、良くも悪くも悩みの多い日が続いています。そのせいか、時の流れが早く感じます。
高校生の頃は、悩みがあったときに家の近くにある「吾妻山」に走って登って、美しい景色を眺めながらよくリラックスをしていました。今住んでいる寮がある西東京市の田無にはそういう場所がないので、今までのようなリラックスができなくなったのが残念です。唯一の救いは、田無が実家と同じくらい田舎のところですかね。

さて、今回の部員ブログですが、「なんでずっと続けてきた選手を辞めてマネージャーをやっているのか」「実際、やってみてどうなのか」全部話そうと思います。最後には今の思いについても触れてみようかと思っています。
本当に全部話すので長いです。興味のある方はぜひ読んでください。


では、本編へ。

多分、全ての始まりは高2の冬に志望校を決めたときだったと思います。
「大学どこ行こうかなー」って悩んでいたとき。特別にやりたいこととか、行きたい大学がなかったから、志望校調査の興味のある学部みたいなやつで、消去法で残ったスポーツ系の学部に行くことにした。スポーツなら好きだし、将来スポーツに関わって働くのも悪くない。最初はこのくらいの気持ちだった。どうせならと思い、スポーツ学部系で一番偏差値が高いと言われている早稲田大学のスポーツ科学部を目指すことに。周りのみんなの第一志望も早稲田が多かったから、ちょうどいいかなと思って。このときはなんとなくだった。
でも実際、スポーツ関係ってなんだ。どんな仕事があるのか分からなかった。プロになるわけでもないし、トレーナーとかコーチをやりたいわけでもない。気になって「早稲田 スポ科 就職先」と調べてみることに。すると、ひとつ目にとまるものがあった。


「株式会社横浜Fマリノス」

そうか、その道があったのか。このとき初めて「Jリーグで働く」という選択肢をみつけた。今までスタジアムに行って、観る立場であったが、今度は観る人を楽しませる立場になる。
Jリーグとマリノスが大好きだった私にとって、この発見は素直に嬉しかった。そして、強く思った。「Jリーグで働きたい。できるのであれば、大好きなマリノスというクラブで」と。
      
こんな感じで志望校と夢が決まりました。

そして、高3の春頃だったと思う。「大学に入ったら何をしようかなー」って考え始めた。自分の性格上、サークルは向いてないって分かっていたけど、暇になるのは嫌だった。何かに本気で取り組みたかった。
じゃあ、選手としてサッカー続ければ? そう思う人がいるかもしれませんので選手を辞めようと思った理由、一応書いときます。
答えはひとつ。試合が嫌いだったから。練習とかリフティングは好きだったけど、試合だけが嫌いだった。走るのは好きだったから疲れるのが嫌だったわけじゃない。ただ、高校生くらいから、試合中に「早く終わらないかなー」って考えることが多くなった。なぜだかは分からない。このまま選手としてサッカーをやっていたら、サッカー嫌いになるなって思った。
だから、選手は続けないって考えたのは結構早い時期だったし、抵抗はなかった。
ただ、今までと同じくらいサッカーに本気で関わりたいっていうのは変わらなかった。そこで初めて浮かんだのがマネージャー。でも、マネージャーって普通女子がやるものだから…。男でもできるのかな?
そう思って、第一志望だった早稲田の体育会のサッカー部を調べてみることに。 
そして、早稲田大学ア式蹴球部のホームページを見て男子がマネージャーをやっているのを知った。しかも、1学年に3人もいる(今の3年生)。男でもマネージャーできるのか。早速どんな仕事があるのか気になって、業務内容を調べてみた。

「練習サポート」「チームの組織運営」「早慶戦の企画運営」

将来やりたいこととぴったりだった。予想をはるかに上回るマネージャーの活動範囲。チームをマネジメントして、トップレベルの選手を間近でサポートできる。
結構やりがいあるかも。ここでなら本気になれるかも。単純にそう思った。

だいたいの将来が描けた。
「早稲田大学スポーツ科学部に入学して、ア式蹴球部でマネージャーをやって、マリノスで働く」

画像1


と、ここまでは完全な理想論。全てが上手くいった時の話でした。なぜなら、大前提として受験を乗り越える必要があったからです。

ここで少し、受験の話をします。

自分が第一志望としていたのは早稲田大学スポーツ科学部。早稲田にいきたいというよりはスポーツ系の学部にいきたかったので、第二志望は法政大学スポーツ健康学部・中央大学の商学部(スポーツ関係じゃないが、Jリーグと繋がってるらしいと聞いたため)、第三志望は立命館大学のスポーツ健康科学部。志望校と夢が決まって、勉強に対するモチベーションが上がった高3の春から真剣に勉強しよう!としたつもりだった。
結論から言うと無理だった。部活が終わってから塾で勉強することができなかった。疲れて眠い。寝るくらいだったらやっても意味ない。文武両道を諦めた私は、引退するまで部活専念という変なスローガンを掲げた。多分というより、普通に勉強から逃げていた。結局最後の大会はベンチにすら入れなかったし。
そんなことをしていたら、あっという間に引退がきた。引退したのが9月末だったので、合宿と遠征でちょっと忙しかった夏休みは、勉強はほぼというより、なんにもしていない。唯一頑張ってた数学も、9月初めにできなさすぎて使うことをやめた(その代わりに新しく政治・経済を0の状態から始めた。初めての模試の点数は27/100点、、、)。
そんな感じで、10月1日から勉強開始。誰よりも頑張ってたつもりだったけど、勉強時間は周りに比べ遥かに少なかった。夜も12時に寝るって決めていたし。

こんな状態でも合格する自信があった(ここから先は自慢になります、ご了承ください)。

授業中は内職しないっていう変なプライドがあって、使わなくなった数学の授業を真面目に受けても
、
受験で使わない日本史の定期テスト(12月くらい)で学年7位をとっても、
マリノスの優勝決定戦(12月7日)を観に行って、その余韻で1週間くらい勉強に集中できなくても、
最後の模試まで、第一志望から第三志望まで全部E判定しか見たことがなくても、
センター試験の英語が132点でも(スポーツ科学部でも早稲田行く人は180点くらいとるらしい、信じられない)、
早稲田のスポーツ科学部の【センター試験+一般】に必要な政治・経済のセンター試験の点数が82点でも(ボーダーは毎年90点以上らしい、よく受かったな)、
早稲田の一般試験の小論文で、最低が601字以上なのに、603字しか書かなくても、
受かる自信があった。受かる自信しかなかった。

それは、誰よりも大学に入ってやりたいことが明確だったから。ただ早稲田に入りたいんじゃなかったから。誰よりも合格したいって思いは強かったはず。早い段階から理想を描いていたことが役に立ったのかもしれません。

そして、2月22日、無事合格。受かる自信があったとはいえ、さすがに驚いた。自分より周りが驚いていた。塾の先生は他大学の合格報告したときでさえ信じてくれなかったから。この日が人生で一番嬉しかったかなー。



受験終わったあとはしばらく好きなことをしたかった。Jリーグをたくさん観に行くとかやりたかったけど、ちょうどコロナウイルスの関係で試合が中止になって暇になった。暇だったからそろそろ大学でやること決めようと思った。
前に書いたとおり、ア式蹴球部でマネージャーをやりたいと思っていたから、連絡を入れようとはしたものの、部活を始めたら実家から通うのが不可能であることと、新しい環境にいざ行くってなると不安だったから結構悩んでいた。実際のところ、メールを送るまでの覚悟がなかったのかも。
そんなとき、俺がマネージャーに興味があると知っていた山田怜於(1年GK、自己推薦入試で一足先に社会科学部に合格し、ア式の活動に参加していた同期。高校では2年間同じクラスだった。現在は同じ寮の隣の隣の隣の部屋にいる。)が佐藤慧一(1年マネージャー)に俺のLINEの連絡先を勝手にあげた。そして、LINEが届いた。気づいたら拓矢君(3年マネージャー、羽田拓矢)からもLINEが届いた。
あー、これはもうやるしかない。実際やりたかったけど勇気がなかっただけだった。そう思って3月中旬に見学に行き、前向きに考えていることを伝え、仮入部を始めることになった。
もちろん、実家からは通うことができないので親と相談し、寮に入ることを決め、居心地がよく、愛着のあった実家・二宮町(神奈川県)を離れることにした。
コロナウイルスの関係で、練習がしばらく中止になっていたため仮入部を始めたのは6月16日。寮にはその2日前に入った。


この仮入部の始まりから9月に入部するまでの間、2つの問題に直面した。


1つめはホームシック。家を出る前はそんなことにはならないって強がっていたのに。案の定なってしまった。とにかく寂しい。朝起きても、部活から帰ってきても部屋には誰もいない。自粛期間でずっと家にいてほぼ毎日兄と遊んでいたせいか、独りが辛かった。加えて寮のご飯の量が多い(今は余裕で食べられます)。とりあえず、「家に帰りたいなー」ってずっと思っていた。
最初の1.2週間はホームシックにやられた(今では独りの時間が多いことに満足していて、むしろ家に帰るのが面倒くさいくらいです。)。
この問題は時間が解決してくれてた。


肝心なのは2つめ。本気で辞めようかと思ったくらい悩んだ大問題。それは、選手との壁を感じてしまったこと。7月末から8月末にかけて。特に8月の1ヶ月は悩みに悩みまくった。
まず、「熱量の差」。選手は練習が始まって、時間が経つにつれてどんどん熱量をあげていく。それに比べ、マネージャーの自分は、練習のコートを作り、ボール拾いをして、水をボトルにいれる。だから全く熱量が上がらなかった。それが悔しかった。別に選手に戻ってサッカーがやりたくなったわけではない。ただ、同じグラウンドにいるのに、熱量の差に大きな差があるのが何でか分からないけど悔しかった。
そんなことを考えていると、「俺、ここにいていいのかな」って思い始めた。
選手はJユース上がりか、高校サッカーのトップレベルの選手ばかり。そして、経歴が特別にすごくなくてもみんなランテストを合格して、入部をしている。ただのマネージャーが同じ土俵に立って活動していいのかと。考えれば考えるほど、距離が遠くなっていった。どんどん居心地が悪くなっていった。そして、本気で辞めようと思った。寮の荷物をどうやって家に持って帰ろうかまで考えた。これが8月中旬くらい。

こんな悩みを解決してくれる大きな要因となったのは、8月末頃から始めた「審判活動」だった。選手が練習試合でやってるのを見て、マネージャーの俺がそこを変わってあげれば選手も少しは楽になるのでは。そう思って始めた。だから、最初の方は「やりたい」じゃなかった。だけど、気づいたら「やりたい」になっていた。それは、問題であった、熱量の差、選手との距離を一気に解決してくれたからだ。
まず、グラウンドの中を走ることができる。体を動かせることが嬉しかった。高校生の頃は嫌いだったグラウンドの中で。しかもちょうどいいキツさ。このキツさが俺の熱量を上げてくれた。そして、審判の体力トレーニングとして、練習の走りのメニューに参加できるようになった。モチベーションが上がった。

次に、選手と同じピッチに立つことで、同じ目線になれた気がした。判定のことで話したり、間近でプレーを見て選手を今まで以上によく知ることができた。同じ土俵に立てていることを実感した。遠いと感じていた選手との距離が一気に近くなった。だからこそ、審判をこれからもやりたい、続けたいと思った。どうせやるなら、やれるとこまでやろう。こんな理由でも恵太君(4年レフェリー、渡邊恵太)は俺が審判をやってみたいって言った日からしつこいくらいいろんなことを教えてくれる。笛の吹き方から、シグナルのやり方、練習試合の判定とポジショニングの解説、見た目を強く見せるための筋トレ、、、挙げたらきりがない。審判グッズも一緒に買いに行ってくれた。俺より恵太君の方が張り切ってる気がする(笑)。だからこそ、俺もそれに負けないように頑張ろうって本気になれます。感謝しています。これからも厳しくご指導お願いします。

画像2


少し話が脱線しました。申し訳ございません。

もちろん、問題が解決できた理由はこれだけじゃない。共感できるはずのない悩みに真剣に向き合ってくれた先輩方と同期がいたからだ。ある選手からこんな言葉をもらった。「いつもボトルがキンキンに冷えていて本当にすごいと思う」マネージャーとして当たり前のことをやってるだけなのに。そう思ったけど、選手から直接聞いたこの言葉はすごく心に響いた。グラウンドの中で選手をサポートする。それだけで、自分に存在価値が充分にある。そう考えることができた。

今は、もし審判をやっていなかったとしても、選手との壁は感じない自信があります。

こうして悩みが解決して心がスッキリした状態で9月8日、約2ヶ月半の仮入部期間を経て、入部することになりました。
9月は土日はほぼ毎週練習試合の審判。現役だった頃は経験できなかった45分ハーフも経験しました。部員になったこともあり、社会人リーグの運営にも携わることができました。忙しく、でもやりがいのあるそんなひと月でした。


思った以上に長くなってしまいましたが、こういう経緯があり、ア式蹴球部に来て4ヶ月目を迎える現在に至ります。

入部をしたこと、新しい活動に取り組み始めたこともあり、充実した日々を過ごしています。そのためか、最近は心に余裕ができた気がします。もちろん、悩みが何もないわけではありません。同学年に6人もいる学生スタッフの関係性に悩んだりするときもあります。

そんな中で、自分がこの組織で本当にやりたいことが見えてきた気がします。
それは、チームを底からマネジメントすること。試合を無事に成立させたり、OBや外部の人と連絡をとったりすること。地味な作業かもしれませんが、これが自分のやりたいこと。最近、少し関わってみて楽しいと感じています。そして、この部分で重要な存在になりたい。そう思っています。それでも、自分の一番の役目はグラウンドの中で選手をサポートすること。これだけは忘れません。
こんなことを言ってると、「マネージャーと審判どっちなの? 中途半端じゃない?」と言われることがあります。というより、実際に言われます。

ただのマネージャーです

チームのために、選手のために、自分のために、マネージャーの立場としてできることを全部やるだけです。どれも中途半端に終わらせるつもりはありません。全力でやりきります。
統一性がなくても、忙しくてもそれでいいんです。むしろそれがいいんです。

これが、私というマネージャーの在り方だから。


最後まで読んでいただきありがとうございました。

画像3


藤間英吉(とうまえいきち)
学年:1年
学部:スポーツ科学部
出身校:鎌倉高校


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?