謹賀新年

『「仮面浪人説話集」(生方聖己とされる)』 完全版

⚫ 前書き

これは、生方聖己という男が書き残したとされる、作者がこれまでの人生で遭遇したエピソードを集めた説話集である。編者はこれを自伝だと思っているのだが、作者曰く、これは説話集であるらしい。とてもクセが強い。

本書には、どうやら前編があるようだ。
これは早稲田大学ア式蹴球部の部員ブログになるのだが、以下の前編を読んだ上で本書を読み進めることを大いに勧める。しかし、とてもとても文章が長い。
本書の厄介なところは、長い長い前編を読まないと話の内容がイマイチ理解できないところだ。
しかし、これが非常に面白い。

尚、作者は他人の理解の範囲を大きく超える独特の世界観を有しており、本書には内容を理解するのが非常に難解な箇所が散見された。そのため、編者が現代語訳をしたり注釈を入れたりすることで、読者が読みやすいように工夫をした。それでも尚理解に苦しむ箇所があれば、そこから先は作者本人に問い合わせていただきたい。

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⚫ 2000年後の君へ

2020年1月6日午前5時27分。
ようやく約半分書き終わったこの時点で一番初めに戻ってきた理由は、この先この永い文を読み進めていく上での注釈を記すためだ。
では、始める。

まず一番大事なことは、この話が始まるきっかけとなった、”受験“というモノ?コト?存在?のちっぽけさを常に心の片隅に、いや、念頭に置きながら進める事である。やはり”受験“を中心にこの話が進んでいくことをやめることができない。ただ、”受験“という人工物はそこらへんのはさみやえんぴつ、モデルガンと何ら変わりはなく、ましてや太陽、月、川底に沈む石や土、生物などの自然物にはかないっこないということ、これらのことを深く理解しなくてはいけない。

そして、この文を読む際は必ずとまでは言わないが、できる限り「自分ならこの部分をどう考えるだろうか」や「自分がもしこの場面に直面したらどうなるだろうか?」などを考えることをやめないでほしい。(別にそこまで強く思っていない。そもそもこの永い間、常に新たな考えを与えられる文を創っていない。)
最後に、できるだけ最後まで読み切ってほしいが、飽きたら途中でさっさとやめ、寝るなり食うなりもっと有意義なことに時間を使ってほしい。言わなくてもそうするだろうが、念押しだ。(これもあまり強く思っていない)

以上

【説話】・・・話。物語。特に、語り伝えられた神話・伝説・民話など。



⚫ 臥薪嘗胆

おはよう。11 月13日。冬休み中にこの間のブログの続きを書くことになっていたのだが、いくら何字でも書けると言ったものの、本当にまた書く機会が来ると思ってなかったので、少し焦っている(開始早々“焦る”という陳腐な言葉を使ってしまっている時点で、今日の頭は冴えていない)。あぁどうしよーかな。特に思いつかないな。まあ今日は書き始めただけよしでいいか。1つ気づいたのは、語彙が欠如しかけている。今日の進展はこれに気づいただけか。先が思いやられる。



⚫ 完全に理解するにはあと10億年は足りないであろう宇宙の中の数ある銀河系の中の天の川銀河の中の太陽系の中の地球という惑星に存在する”人間“という原子の集合体

眠くない。12月14日、午前3時12分。Dailymotionでリーガルハイを見ている。

古御門先生 「どんな関係であれ人間はいがみ合う生き物だ。」
生方聖己  「解る。」

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この時間まで何か机に向かい作業しているというのは長らくない気がする。
今日は2019年12月14日。今気づいたのだが(本当に)、2018年12月14日、つまるところ去年の今日は、自分が日体大サッカー部を辞めることを皆に告げた日である。
このことに気づく約3分の間の脳内・・・【今日は12月14日か。どうせなら明後日の16日ならよかったな。16日なら去年の今日辞めた日だから上手くそこから話を繋げられたのに・・・・・・・・・・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ・・トゥーン・・・・・・・・・・・・・・・・・・ちょっと待てよ。あれ。そういえば去年の今日はお茶の水の駿台校舎で1ヶ月後に控えたセンター試験前最後のセンタープレ模試を受けていたな。思ったより寝すぎて1限目の日本史に遅れた“あの”模試。受験を始めて以来、一度も落ちることなく伸びていた結果(本当)が初めて落ちた“あの模試”。隣の席の金髪浪人生の貧乏ゆすりに睨みを利かせていた“あの模試”。“あの”をつける程、特に思い入れがある訳でもないあの模試。あれは2018年12月の16日であったわ。んでもって模試の前日は確か、“本の家”(青葉台にある図書館)にこもって明日に来たるべき模試に備えて勉強していたな。あれ、辞めたの15日だっけ?ま、14日でいいか。とりあえず16日は確実に “あの模試”を受けていたわ。(前回のブログにも 16 日に辞めたと書いてしまっていた)】

ということで、前の部員ブログの続き、要するに、自分が日体大を辞めてからセンターを受けるまでの約1ヶ月間&センターが成功してしまってから早稲田大学スポーツ科学部一般入試を迎えるまでの3週間の、本当にあった地獄の日々(前回のブログで長くなりすぎるために省いた日々)について話そうと思う。


【「12/20 に追記」・・・そういえば 12 月 16 日は大河ドラマ「西郷どん」の最終回だった。 西南戦争最後のシーン、実際はどうであったか知らないが、ドラマながら薩摩武士の意地を 感じ、紀尾井坂で大久保卿が暗殺された際にはこの上ない悔しさを感じた。ドラマながら。】

といきたいところであったが、気づけば朝の4時50分。自分はこれからグラウンドに向かわなくてはいけない。というのも、今シーズンラストの練習試合、鹿島アントラーズ戦の荷物の詰め込みを皆としなくてはいけない。なので、次にパソコンを開くときにあの時の話を書こう。
いやぁ、にしても相手はアントラーズか。勿論、自分はまだまだ出られるはずはないのだが、怪我人ということもあり、審判として行くことになった。

早稲田ア式では、このように、J1・J2 のチームと練習試合をすることがちょいちょいの頻度であるのだが(先程も述べたように、出場することはまだできない)、このような機会がある度に自分は、“本当にこの組織に入れて良かった”と思い、それと同時に、入部を認めてくれた、今は引退された4年生、先輩方に感謝の念を抱く。それはこの先もずっと抱く。


家を出る。



⚫ 心無し

12月16日22時。ブログを書こうと、wordを開くも全く何も思いつかず。せっかくのセンタープレ1周年記念が台無しだ。



⚫ ラ・ロシェフコー

眠い。それもかなり。12月17日、午前2時18分。 今日こそは、と思い開くも、眠気 には勝てない。そもそもなぜ戦わなくてはいけないのか、いつから戦うことを強いられていたのだろうか。

ロシェフコー「人間は、もしお互いに騙されあっていなければ、とうてい長い間社会をつくって生き続けられないであろう。」
地球人A「当たり前だ。」
地球人B「」

A:B=1:9
面白い。



⚫ Strange person

12月19日。2018年の。自分は何をしていたのだろうか。
2018年1月19日に開催されるセンター試験1ヶ月を切った去年の今日、自分は何をしていたのだろうか。何をしていたのだろうか。何をしていたのだろうか・・・。何を・・・?

3日前のプレ模試の酷い(そこまでひどくもないが、この時期に初めて点を落とすのはいかがなものか、という点から“酷い”という言葉を導いた)結果に大焦りを感じ、さらにギアを上げて(*1)受験のための勉強に取り組んでいただろうか?
もしくはその結果を経て、焦りを超えて大絶望を感じ、何においても手付かずの状態になり、受験が、周りの懐疑的な思いをはね除けて親という名の2人の“人間”に強制的に味方をさせても、午後練の出現により思うように勉強時間を確保できなくなっても、寝坊を3回して部停になっても、出場したIリーグでミスりまくって落ち込んで青葉餃子に行っても、イナズマイレブンGOにのめり込んでも、“ある実験によれば、ある程度の睡眠不足は人間の精神機能には影響を及ぼすが、身体機能に対しては大きな影響が見られなかった”という記事をどこかで見て、ならばと思い自分を被験者に仕立て、1時間半睡眠(ノンレム睡眠オンリー)で次の日の練習に挑み、 午後練の走りで、足がもげるのではなかろうか?と思わされる程の強烈な痛みを伴う両足の攣りを経験した後、今度は逆に恐ろしいほどに健康的な睡眠を摂って、勉強時間を失い自分の下した決断を酷く責めようとも、自分ならまあなんだかんだ受かるだろうと強き思いを持ち続けて挑んできた受験が、最悪の結果に終わった場合のことをひたすら思っていたのだろうか?(確か前回の模試と比べ、全体で30点くらい下がったので、よく考えたら“酷い”という言葉は導かれて然るべきであるな)

(*1)受験のための勉強・・・受験勉強は所詮受験勉強でしかないという事を強調するため。受験勉強というものがどれだけちっぽけなものかを作者が非常によく理解していることが解る。ただそれと同時に得意不得意の存在もよく理解している。 そこを考慮に入れずに指摘する者は、所謂ナンセンスである。

違う。絶対に違う。去年の今日、何をしていたかなど事細かく覚えている訳ではないが、絶対に違う。予想だが、まず第一に自分はその時、1日の全ての時間を勉強に当てられることに何とも言えない感動を覚えていた。1日ってこんなに長いのか、と思っていたに違いない。

部活もなければ、洗濯もしなくていい。ましてや、ご飯も出てくる。なんてこった。 そしてまた、ここにたどり着くまでの約1年間を追想していた。自分は、“浪人”という立場に身を移してから常日頃、「本当に1年後は来るのだろうか?」と思っていた。確かに今まで18年間何事もなく、毎年毎年新年を迎えていた。だがこの1年間は、当たり前のことを言って申し訳ないけれど、余りにも長く感じていた。

ただ、本当に来たのである!!!わーい。

この、“本当に1年後が来た!”ということに対しても、とてつもない感動を覚えていたであろう。
模試に関しても特に気にしてはいなかった。よく巷で言われる「センタープレは少しだけ難しく作られている。なのでいつもより低くても何ら気にすることはない」という伝説(わりかし事実)が理由で気にしなかったのでは全くない。というのも、その模試を受け始めてすぐにセンターとだいたい同じレベルだということは理解したし、何しろ、夏休みくらいから本腰を入れて勉強を始めた現役生ならまだしも、1年間という有り余る猶予をもらい、センターよりはるかに難易度の高い一般試験を迎える多くの浪人生にとって、そんな戯言が通用してはならないということも重々理解していた。
自分が気にしなかった理由。それは、1ヶ月後のセンター試験で3教科全てにおいて過去最高点を取り、センター利用で滑り止めを全て押さえて、最悪のパターンである“全落ち二浪”を回避し、2月14日にある早稲田大学スポーツ科学部一般入試センター併用方式(センターの日本史+一般の英語・国語)だけに集中して、日本史では100点を取り、より心の余裕を持ちながら最終調整に移っている自分が、その道筋が、はっきりとした形で予想できたからだ。そのことについて詳しく 知りたい人は、後ほど【詳細と計画】に書いておくので、知りたかったら見てほしい。

ただ唯一1つだけ、自分の成功を贅沢なまでにイメージ出来ていたセンター1ヶ月前の自分にとって、たった1つだけ、これだけははっきりと覚えているのだが、本当の本当に1つだけの懸念材料。悠(田部井)風に言わせてもらうと、“違和感”ってやつがあったのだ。 それは、“受験生特有の、人間を失う瞬間”が未だに訪れていなかったことである。受験生皆が その瞬間が訪れるかは自分には知り得る事は不可能なのでやっぱり訂正させてもらうと、 “モード受験生俺”に憑依した際に必ず訪れてきた“モード受験生俺特有の、人間を失う瞬間” が未だに訪れていなかったことである。 【出典】(佐藤雅彦「モードが違う」による)

簡単に説明するとその瞬間とは、“頭が真っ白になる瞬間”である。もっと言えば、自分は常日頃何か辛いこと、嫌なこと、悔しいこと、しんどいことがあるときに決まって自分に言い聞かせる言葉である、“人間必ずしもいつかは死ぬ(命のありがたみを理解した上での言葉選び)”が全く効果を発揮しない瞬間でもある。

その瞬間の強度は3段階に分けられる。
1・2 段階目レベル(頭は薄白く、“あの言葉”がまだ少しばかり通用する)はこの1ヶ月前という日を迎えるまでに少なくとも3回(そのうち1回は結構きわどかったが)は経験していたのだが、その度耐性がついていたので割と簡単に乗り越えられる。

そうじゃなくて鬼の3段階目。
これはかなり曲者であり、一度来てしまうとその後約24時間は自分の人間的活動は停止する。

どういう時にこの瞬間が訪れるかというと、例えば去年で言ったら、前のブログでも書いたが、てかめんどいので前のブログから引用すると、

【2週間前から明治の赤本を始めた。センターである程度とれていたので結構いけるのではないかと過信していた。本来は60分が制限時間の英語を90分かけ正答率が4割くらいだったときに初めて自分の愚かさに気づかされたものだ。その日は、どう考えても残りの日数ではこのレベルに達成できないということが判明してしまい一日中ベッドの上で天井を眺めていた。】

↑こんな時。
まあだから“不可能を知り絶望を超えた時”のことかな。ただ、第一志望に落ちて、負けたのが悔しくて許せなくて仮面浪人を決意した時点(この時も、さっきとは違う方面で”あの言葉“が通用しなかった)でその”瞬間“、それに現役時とは比べ物にならないであろうプレッシャーを受け、なんなら3段階では収まらず、自分でも経験したことのない、そして経験している自分を想像することなんてできるはずのない5段階目の”瞬間“をいずれ迎えることはわかっていたし、覚悟もできていた。

【“頭が真っ白になる瞬間”の強度の段階分け】
第1段階:少し思考レベルが低下する。
第2段階:かなり思考レベルが低下する。しかし、まだ正気を保つことができている。
第3段階:完全に思考レベルが停止する。自分の不可能を知り、絶望を超えた瞬間に訪れる。


問題はその“魔王”がいつ自分を迎えに来るか、であった。
そいつが出現する条件は、先程述べた①「不可能を認識し絶望を超える」に加え、②「本番まで1ヶ月を切る」というこの2つの条件が絶妙に重なったときであるということだ。

【魔王出現の条件】
①「不可能を認識し絶望を超える」=“頭が真っ白になる瞬間”の第3段階
②「本番まで1ヶ月を切る」

この時はもう既に1ヶ月を切っていたため、②の条件はクリア。そして本当なら①の条件も本来ならクリアしているはずであった。 センタープレ模試の結果を受けて。
そしてこの浪人期間中自分は、“授業をしない”と話題の某有名予備校(予備校と呼ばれることは不本意でしょうか)であるT塾の、現役時の受験が終わってすぐに最寄りの高崎校に駆け込んで無料で貰った参考書ルートに沿って勉強していて、そのルートは「日東駒専」→「MARCH」→「早慶ルート」と段階があったのだが、前回のブログでも述べたように、(*1)“午後練出現問題”や(*2)“夏場の練習場移動問題”、(*3)“Iリーグ大やらかし問題”などの影響もあり、当初計画していた予定より進度に大幅に遅れが出ていた。本来ならばセンター1ヶ月前には早慶ルートまでのすべての参考書を終わらせ、足りなかった所を補い、ゴリゴリに過去問を解いていたはずだったのだが、実際のところは確かこっちに帰ってきた時点で「MARCHルート」がようやく終わり、「早慶ルート」をほんの少しかじった程度であった。

(*1)午後練出現問題:仮面浪人時代に進学先として選んだ日体大では、サッカー部の練習は朝練だけだと聞いていたため、授業後の全ての時間を勉強に充てられると思っていた。しかしその矢先、練習が午前と午後の2部練に変わってしまった。
(*2)夏場の練習場移動問題:夏休み期間、日体大のグラウンドが芝の張り替えで使えなくなり、少し離れたグラウンドで練習をしていた。その移動時間が中途半端で、まとまった勉強時間の確保を阻害していた。
(*3)Iリーグ大やらかし問題:過酷な受験勉強と部活の両立ながら、サッカー面で成長を感じられてはいたが、やっとの事で出場するチャンスを掴んだIリーグでいきなり大ミスをかましてしまった。



そして、上記の”問題”たちに加えて1つ結構大きな問題が生じていた。
それは、“参考書、3周すれば必ず全部身につく方程式の決壊”である。

特に現代文という教科において。自分は基本的に参考書を必ず3周は取り組む。どんなに簡単な参考書もそうする。というのも、基本的に3周すればその参考書に載っていることの大半は理解して覚えることができたし、もし覚えきれないことが出てきてもかなり絞られて、その部分だけ紙に太くでっかい文字で書いて寝る前と起きた後に見ればすぐに覚えられる。

その“参考書3周方程式”が崩れ始めたのは9月〜10月。丁度「MARCHルート」に入って一番最初に出てくる現代文の参考書『「現代文読解力の開発講座」〈霜栄〉』をいつも通り3周取り組み終わった時点で何ひとつ身についていなかったことに気づいてしまった時からである。最初に言っておくと、最終的にその参考書は7〜8周した。そして、その参考書はお守りと化した。受験会場には必ずそいつを連れて行ったのだが、そいつと信頼関係を築き上げるのには相当苦労した。ちょっとそいつについて語らせてほしい。


【初対面】
完全に無視された。完全敗北であった。やはり一筋縄ではいかないようであった。ただま あ落とせない相手ではなかった。逆に今までが上手くいきすぎていただけだし、やはりこれこそ“受験”こいつを落としてこその漢。こいつを落とした際の見返りはでかい、わくわくする。まだあと2回も会うチャンスがある。じっくり落としていけばいいさ。

【2回目】
どうやらまだ心を開いてくれないようだ。今までの相手ならこの辺で7割がた落ちているのだが…。まあいい。そいつがちょっと他とタイプが違かった、それだけのことだ。 まあ次に一気に畳みかけて落としてやればよいか。俺の本気を見るがよい。

【3回目】
本当に申し訳ない。どうやら俺が悪かったようだ。甘かった。調子に乗っていたよ。もっと丁寧に取り扱うべきであったよ。ごめん。でもどうすれば?どうすればいいんだ。正直全くもって解決の糸口を見つけることができない。どうやったら君と友好条約を結べるのだろうか。いっそのこと1回距離を置こうか。いやだめだ。もう時間はない。でもどうすれば。うわあああああああああ!!!!


ちなみにこの3周目が終わった時点で10月半ばであったため、それだけでも結構焦った上に、“Iリーグ大やらかし問題”も運よく重なって、2段階目の“あの瞬間”(*前章を参照)が訪れていた。あの時はほんの少し超えて2.2段階目くらいであったため、ちょっといつもよりしんどくて、模試がてら休みを作って1週間程実家に帰って回復した。模試の結果が良かったことも回復をよく促進してくれた。
この瞬間の特徴として、”波のように押し寄せてくる焦り”というものが あるのだが、この時の波は津波級であった。あのIリーグで大やらかしした後、唯一の味方と言えば盛りすぎだが、その信頼していた”友(参考書)”にも嫌われ、気が滅いっていた。


その症状を理解してもらうのにとてもわかりやすい出来事がある。

あのミスから1週間か2週間後、次のIリーグ(帝京大学戦)があり、勿論スタメンは落ちたのだが一応メンバーには入ってアウェイの帝京大学に向かう途中。

まずは青葉台から大学最寄り駅の聖蹟桜ヶ丘までの電車。ここでは勿論いつものように単語をしていた(電車内だと声が出せず効率が悪いのと、ただ覚えるという作業は非常につまらないため、基本的に英単語はやらずに本文付きの現代文の単語をしていたのだが、この時はあまりにも英単語の進みが遅れていたため、仕方なく英単語ををしていた)。この時は焦りが強かったおかげか、いつもよりかなり高い集中を保つことに成功していたのを覚えている。

そして、最寄り駅でもう1人のメンバー に入っていた1年の友達(ちなみにこの友達は今やボディビルに目覚め、第54回全日本学生ボディビル選手権大会男子フィジークの部第2位を獲得した佐藤君だ)と合流するのだが、本当に挨拶程度の会話を終わらせた瞬間に会話相手を単語帳に変更する。その友達は自分がどういう人間かある程度理解してくれていたため、温かく見守ってくれていたが、さすがにあの日の自分の焦りから生まれる集中具合には少しビビっていたかもしれない。

帝京大学八王子キャンパス行きのバスが着き、いつもならもうこの時点で「モードサッカー」に切り替えるのだが、どういう訳だかこの日は、「モード仮面浪人生」から切り替えることができなかった。その結果、バスを降りてからグラウンドにつくまで二宮金次郎スタイルで単語帳を見続けていた。さすがの佐藤君も苦笑い。自分は二宮金次郎スタイルの勉強は効率が悪く嫌いだったため、ほとんどすることはなかったのだが、これがどうやら2.2段階目の効果らしい。

それは控室に行っても変わらない。試合のアップが始まるその本当に直前まで単語帳と会話をしていた。

そしてグラウンドにてアップが始まるその瞬間、自分もさすがに切り替えた。 切り替えた、 、 、はずだったのだが・・・おかしい。腕を回しながらジョギングをする。一歩地面を踏み込むたびに生じる、先程脳の浅い位置に置いてきた英単語たち。ボールをキャッチする度に、そしてそのボールを返す度に生じる英単語たちを脳の奥に染み込ませようとひたすら脳内でつぶやき続ける。どうやら自分の自己防衛本能が無意識に働いたようだ。その動作を一通り終えた。よし、もう切り替えられるだろう。

そんなことある訳がない。

次に行うのは計画の練り直しだ。3周では落とせないやつが存在すると分かった今、大幅な計画変更が必要だ。なぜなら、3周に要する時間をもとに計算し、1年間のスケジュールを本番当日に完璧な状態を持っていくように構築していたから。「MARCHルート」でこの感じならば確実にこの先もっと難攻不落の参考書が出現することは残念だが認めざるを得ない。

それをハイボール(酒ではない)で宙を舞い、数少ない人が鳥に近づける瞬間を犠牲にして、身体の隅から隅、足先から指先まですべての器官を動員して、自分が持つ最大の思考力を使って組み立てる。人間が普段普通に生活をしていて横向きに飛ぶ瞬間があるだろうか?いやない。そんな貴重な時間ですら割かなければ、消費税増税計画に匹敵、いや、それ以上に素晴らしい計画を建てることは不可能である。そうしてある程度の未来を見据えることができたら、再び初期動作に戻る。キックのインパクトの瞬間と同時に逃げ出そうと する英単語たちをもう一度奥にしまい込んで仕上げは完了。試合に出るキーパーを送り出す。ベンチで皆で円陣を組む。

皆「よし、いこう!」
己「negligence は無視・怠慢。negligible は無視し得る・つまらない。ignore は無視する・知らないふりをする。ignorant は・・・・・・・・・」

油断も隙もありゃしない。
よし。1回落ち着くか。ふぅ。


そんな時だった。いつも以上に綺麗に美しく沈もうと試みている生命万物の原点“太陽”の黒点等からだろうか、なにやら黒い“シャドー“な集団がこちらに、 、 、

悪魔たちだ!!!

魔王の手下の。
遂に迎えが来たのか!
いや待て!!まだ早すぎるではないか!!
やばい、どんどん近づいてくる!逃げられない!
気づけば俺の隣に!

そうしてこうささやく。
悪魔たち「お前は一体何をしているんだ?」

「俺は何をしているんだろう。そうだ。何をしているんだ。ほら、皆に言われた通りになったじゃないか。何のためにわざわざサッカーを続けているんだ?なに11月近い今になって焦っているんだ。予定が狂う事なんていくらでも予想できただろうに。それも含めての予定じゃないのか?1 年もあったんだぞ?この時点でこんな考えに陥っている時点で俺はもう落ちたも当然じゃないか。計画を組みなおしても、そもそも4〜6周したからといって身に着けられるとは限らないじゃないか。このレベルが自分が持って生まれた限界ってことも十分あり得る。てか普通に考えてあと3ヶ月以内にこのルート全部終わらせること不可能じゃねーか。
俺はここまでなのか。自分の復讐はここで終わりなのか。終わりかぁ。そんなもんであったのか。部活を続けながら受験勉強、このレベルのことがこなせないようではどうしようもないな。まあそんなもんだったのだろう。あぁ、消えたい」


気づけば試合は終了していた。辺りは真っ暗になっていた。
どうやら、彼らは撤退してくれたようだ。悪魔になりたての天使だったのだろうか。暗闇にまだ慣れていない。どうやら救われたようだ。

その日はいち早く家に帰り、眠りについた。


帝京大学で不可思議な体験をした後、現実の本拠地である高崎(実家)に1週間程帰った。そして、ここで精神を正しい方向へ向かわせることに専念し、成功した。

成功要因は色々ある。模試の結果が良かったこと。1日中勉強に懸けられる時間が7日もあったことで後れをある程度取り戻すことができたこと。そして、4周目に入った“そいつが”心を開き始めたこと。あ、そうだ忘れていた。

【4回目】
どうかな?今回から自分なりにアプローチの方法を変えてみたんだけど。ハマっ
た!!!これだ!!こーゆーことだったんだね!!なんでもっと早く教えてくれなかったんだよ。まあいっか。今日から仲良くなれそうだ。あー長かった。

【5回目】
今日から君と僕は大親友!!!不戦の契りを結んだ!!!竹馬の友!!!
無二の友!!大好き!!

【6回目】
ぬぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!!

【7回目】
特になし。

てな感じのことが起きたのも、精神を正しい方向へ向かわせることに成功した要因の1つである。まあほんと危うく3段階目に突入するところであったが、ギリギリ免れることができた。やはり時期尚早だったようだ。今までの永い永い御伽噺を聞いたあなたは、これで本当に3段階目にいってないのか?と思うかもしれません。はい。いっていません。比べ物になりません。先程記載した”帝京大学での御話“、 確かになかなかなレベルだった。けれど何かに対して”取り組めている”、“考えられている”。“あの言葉”もまだほんの少しで効力を持っていた。違うのさ。3段階目は。生きながら地獄を体験できるのだ。感じられたらまだいいほうなのかもしれない。

そして話は戻りに戻り。だからこそいち早く迎えに来てほしかったのだ(魔王と地獄という混在具合には許してほしい)。こんなのが本番直前にこられたら自分の人生は早くも終焉を迎えるだろう。

ただ何回も言っているように、そんな甘くいかないのが宇宙の摂理。絶妙なタイミングで”その瞬間“を迎えてしまうのだ。

それについてはまた次。




興味がある人は読むべし
興味がなければ読まざるべし

⚫️ センタープレ模試の詳細と計画と余談

「英語」
この時は168点。今まで約9割はいっていたので焦ってもいい点数である。ただ、参考書の進み具合も特に問題もなかったし、まあちょっと調子が悪かっただけ。本気でセンター対策を始めれば敵ではないでしょう。簡単だし(“参考書、3周すれば必ず全部身につく方程式”が英語において決壊したことはなんだかんだ一度もなかった)。あとはシンプルに行ける気がした。ただそれだけである。


「国語」
この時一番ひどかったのがこの国語。確か110点くらいだった(笑) 。やはり3段階目が来ても全くおかしくなかった。時期も時期だし。まあこれが結構やばかった。どちらも全く手ごたえを感じることはできなかっ た。ここでは高校生必修の第3言語”古文“から話を広げていこうと思う。

「古文は1カ月あればできるようになりますよ。」
古文に精通している人が放ちがちなこの言葉が完璧な嘘であるということを完全に理解するのには余り時間を要することはなかった(勿論、 他の誰でもない”自分“にとって、という条件付きで)。それは現役時のセンターが終わってから明治大学の一般試験が始まる2週間に初めて古文というも のを本気で見た時に理解した。全くもってこれは外国語に等しいことを理解した。同じ文字を使って創られた全く別の国の言葉。英語よりたちが悪い。
浪人開始を決意した際には、英語、国語同様コツコツやっていくことがすぐに決議された。そしてそれと同様に、古文を、国語というくくりから外し、新たに、配点の低い”第4の教科“として認めることも決議された。勿論、”自分”にとってね。だからこつこつやった。でも途中で気づいた。あまりにも古文を読解するセンスを自分は持ち合わせていない、ということに。
古文単語、古文常識ほど信頼できないものはない(特に物語)。 でもそれくらい作品の背景を知らなければ全く話にならないということを幾度も経験した(特に物語)。だから、とりあえずできるだけ多くの作品に触れるという足掻きを本番ギリギリまで行うことは浪人生ということもあってしようとは思ったが、センター古文はやけに難しいという事実も相まって、いざ本番で初見の問題が出てきたらある程度は諦める覚悟はできていた。

センター本番の目標は全部で9割。日本史10割、英語9.5割を取る予定だったので、国語は最悪7.5割までコケられるという算段だった。『「現代文読解力の開発講座」〈霜栄〉』と親友になることに成功したため、現代文で8.5〜9割取ることはほぼ確実。んで、いくら初見といっても50点中25点は取れるだろうと踏み、漢文はなぜだか知らないけど50点中45点は取れる気がしていた。ちなみに漢文は後回しにしすぎてこの時はかじってもいないというレベルであったが。なぜいける気がしたかというと、「漢文はすぐ点を取れる、古文をやった後だとすんなり入る」と多くの人が言っていたから(=同じ過ちを犯すタイプの人間)。だから漢文もひどい点数だった。

では肝心の現代文は?というと、これもこれで7割と、あまり、というより全然よくない。言ってることが違うじゃないかと思った?いや違うんだ。「センター本番の現代文と模試は全く答えの導き方が違う」。自分が知っている受験会に蔓延る巷の噂の中で数少ない事実として認められている一文だ(しつこいようだが、勿論認めたのは他でもない“自分”である)。
皆さんは今まで取り組んできた現代文のテスト(小説を含む)で間違えた箇所に対して、「現代文なんて自分がこれだと思ったものが正解ではないのか?そもそもこの問題をこの文の著者に解かせたら満点をとれるのか?」という疑問をいだいたことがあるだろうか?それがその問題に対してどれだけ時間をかけて深く考えようが、一瞬で終わらせようが関係ない。皆がどうかは知らないが、自分は浪人になって現代文という”教科“に取り組むまで飽きるほど思ってきた。自分の思考をなぜ他人(採点者)に評価されなくてはいけないのか。
始めた当初は、点という結果を得るために渋々自分の思考をあちらに合わせていたのだが、やっていてすぐに気づいたことは、現代文は、“現代文という名の事実探し教科”ということである。世間的に言えば、“客観的に物事を捉える”といったところだろうか。客観的とは、どんな誰が見ようと、例外なくそれはそれであるとい うこと。残念ながらこのことは、文化によって大きく左右されてしまうため、 今地球に存在する全人間に支持される客観的事実は存在しないと思われる。だからよく、自分は文系科目が苦手であると主張する人の「数学は絶対的な答えが存在する。国語は答えが曖昧である。」という意見を耳にするのだが、国語も一種数学的要素があることは否めない。周知の事実で言うまでもないが。そして、現代文を通して身に着けた事実を正しく把握する力は、“受験勉強”という枠を通り越して今の自分にも役に立っている。 やはり役に立つと書くと語弊がある。なぜなら事実を把握するということが全てのことに効果的に働くと限らないからだ。だから訂正させてもらうと、“自分の趣味を発掘した”。つまり自分の生活を少しばかり豊かにしてくれた。事実を探し当てることが割と好きであるのかもしれない。自分は。
話を戻すと、センター試験国語とは、この“事実探しゲーム”という点において非常によくできたものである。例外はほんのたまにあるが、ほとんどの場合は非の打ちどころが無い。さすが、事実探しの天才達が集まって1年間じっくり創りあげているだけある。別に尊敬をするということはないが本当にすごいと思う。それに比べて“模試”というものは、センターほど手も時間も込んでいないので、証拠不十分な問題が多々存在する。そして彼と親友になって以来自分の事実探し能力はより洗練されていたため、識別することが結構な程度で可能になっていた。このような点から、現代文の点数が7割でも特に焦ることはなかった。

国語はこんな感じかな。
(ちなみ に書いていて気づいたのだが、「センター試験国語とは〜多々存在する」の部分は『きめる!センター現代文』著者の舟口明氏の言葉を丸々引用していたため、自分の意見でない可能性があるのでご注意を)


「日本史」
確かこの模試で自分は85点くらいだった。
満点を目指している奴が1ヶ月前に取る点数ではないことは明らかだ。
ただ、落とした15点分は、未だかじりたての、インプット中であり、ただし1ヶ月後には完全なるアウトプットが成されているであろう【近代:だいたい第二次世界大戦〜現安倍政権】の範囲であった。要するに、これまでの範囲【縄文〜昭和初期】の知識に関してはこの時期までに完全にアウトプットが完成されていて(それがまあ当たり前だが)、結果として出たので何も問題がなかった。

そもそも自分が「受験のための日本史」を勉強し始めたのは、1ヶ月前の11月初めであった。これは普通に考えればとても遅いのだが、これには訳があり、と言うのも自分の中で“日本史”というものは長期記憶になっていたからだ。

自分はかねてより、“何故だか”「日本史(日本史にとどまらず“社会”という教科全般)はできなくてはいけない」という考えが常に脳裏に焼き付いていた。アダムスミスの「国富論」の言葉を借りるならば、少し使用用途は違うけれども、“見えざる手”によって導かれていた。なので、いつも定期テストが近くなるとテスト前日、良くて3日〜5日前に始めていた他の教科に対して、日本史(社会)は1ヶ月前には少なくとも始め、少しでも理解に苦しむところがあれば先生に聞くなり教科書を見たりネットで調べたりして、完全に理解するように(というより“そう”しなくてはいけなかったのだが)してからテストを迎えていた。

「日本史は覚えるだけのただの暗記教科なのだから、 解らないも何もないではないか」とそこのあなたは思われるかもしれない。

確かにその通りといえばその通りなのだが、違うといえば違う。自分は、「なぜそうなったのか?」ということが完全に理解できないと次に進めない性格であった。
例えば、日本で最初の全国的戸籍が670年に作られ、 口分田というものが多くの人民にわたった後に、荘園というものができたのはなぜか?知行国との違いは何か、そしてその荘園体系が衰退していったのはなぜか?
これくらいならば、基本的に点を取る人は当たり前のように所持している思考回路。しかし、それに合わせて自分は(日本史で例えると少し難しくなってしまうのと、これといってパっと良い例が思いつかないので日常的なものを用いて例えさせてもらうと)、「ペンはなぜ”ペン“という名前なのだろうか?」「そもそも”名前“とは何なのか?」といった類の非常に厄介な思考回路を所持してしまっていた。なので、日本史の勉強をしている時は、決まって苦しい思いをしていたのを覚えている。まあだから、日本史は自分にとって暗記教科というよりも、“自分から逃げない教科”と言える。 それに加え、テストを創る先生が、なんとも絶妙な、素晴らしく実践(受験)に近いテストを創るセンスを兼ね備えていたため、残念ながら、ワークの内容をそのままテストに出したり、「このプリントをやっておけば点が取れますよ」と言い放って、たった1枚のA4のプリントを配布し、テストの約50点分を本当にそのプリントから出す、と言った類の素晴らしい行いをすることはなかったが。【『本当にあった怖い話』より抜粋】

“日常の日本史”とともに、別に欲しくはなかったが後々生きる事になる“点を取るための日本史”の能力も手にすることができた。そして、これらの本能的取り組みの偶発的積み重ねにより、私は日本史という教科において長期記憶を獲得したのだ!(現役時、選手権が終わってから約1ヶ月以内でセンター英語の偏差値を爆上げできたのも、この時期日本史に割く時間が1割未満で 済んでいたからだと思われる)

定期テストが終わった後はもちろん勉強しなくなり、人間である以上どんどん用語を忘れて行くのだが、よく言われる「日本史は、用語が解っても“流れ”が解っていないと〜〜」というこの “流れ”を忘れることは絶対になかった。
自分にとってこの“流れ”に対する認識のレベルは、「地球は太陽の周りを周っている」「魚類は水のない地上では息ができない」「人間を含むすべての生物とされる原子の集合体には必ず“死”が訪れる」、といった事実に対する認識のレベルと同じカテゴリーに属していた。そして、一度本気でインプットした用語というものは一見、脳から消息を絶ったと思うものの、実は脳の奥底に深く入り込み、住み込んでいるのだ。だから、ちょっとだけ出てきてくれとお願いすればすぐに顔を出すのだ。その代わりに、一度でいいので彼らの名前をしっかり呼ばなくてはならない。
これらを証明するものとして、現役受験を終えてから浪人中の 11 月まで、1 度も日本史を勉強していなかったが、模試では基本8.5割以上は取っていた。


最初の「日本史はできなくてはいけない」という箇所で、先程は“何故だか”と述べたのだが、実のところを言うと、その理由として「おそらく自分の中に宿っていた“武士”を引き出したからなのだろう」と思われる導因があるはあるのだ。

それはまだ自分が若かりし12歳(小6の冬)の時。夕飯を食べた後の20時半くらいに、なんとなくその時やっていた歴史系テレビ番組を見ていた。その番組は確かTBS テレビの『世紀のワイドショー!ザ・今夜はヒストリー』っていう名前。 本当にただなんとなく、特に他に観たいものもなかったのでそのままつけていた。現代のアナウンサーが時空を超え、戦国時代やら明治時代やら色々な時代に行き、渦中の偉人にあらゆることを取材する、というのがその番組のスタンスである。だから、戦の真っ只中に取材を敢行し、「銃弾や大砲、矢が飛んできたので一旦退きたいと思います」という流れはあるあるである。要するになかなかセンスのある番組である。

そして、その回の主人公である伊達政宗の肖像画が「これだと余りイメージが湧かないであろうから」という司会の一 言によって、戦国無双というゲームから引用された伊達政宗のイメージ画像を上乗せした瞬間、私の身体中に激震が走った。

「、、、、、、、もしやこれは、、、、、、、!!!???」



ここで、私の人生において欠かせなかった存在を時代ごとに振り返って
いこう。

0歳〜5歳 親・恐竜・プラレール・トーマス

5歳〜11歳 LEGOブロック(大震災の際に9階に住んでいたため、すべて崩れ落ちてそれ以来やる気起きず)

11歳〜12歳 サッカー・戦国

12歳〜15歳 (*2)LINE・nanoblock(中2の時一瞬だけ)・戦国

15歳〜18歳 サッカー・戦国

18歳〜19歳 サッカー・受験というよくわからんもの・参考書・ コピー機・ホワイトボード・批判的な眼・戦国


って感じなのだが、お気づきのように、あの日なんとなく見ていた“歴史の戦場カメラマン番組”に出演されていた独眼竜を観てから今に至るまで、“戦国”という存在は、我の中に深く宿り続けてきた。その居住期間はサッカーをしのぐ。“存在の大きさ”という観点からしたら、さすがにサッカーといい勝負であるが。


↑探したら発見した。残念ながら政宗の回は見つからなかったの
で、代わりに大坂の陣の回。
「家康さんの会見が始まります。」・・・中々のパワーワードである。


(*2)LINE・・・利用者が相互にこのアプリをインストールいておけば、通信キャリ アや端末を問わずに複数人のグループ通話を含む音声チャットが可能である。(Wikipediaより)

LINEの出現によって、生き方を変えられた人間は一体何人いるだろうか?
ここからは完全なる固定観念に基づいてキーボードを打つので、注意して聞いてほしい。
西暦1999年にこの世界に生を宿してから今日この2020年までになんとか生きながらえてきた自分が唯一経験したパラダイムシフト。それは間違いなく、人間破壊兵器:“LINE”である。
その”兵器“が、自分の商圏に流通し始めたのは中1の冬。当時はガラケーで、1日で多くても何件という単位で友達と連絡をとっていた自分に、何やら聞きなれないwordが耳 に入る。「LINE」。いったい何だろうそれは。とりあえずそれについてわかっていることは、主に高松中サッカー部で流行っている連絡手段の1つ。噂によると、”集団で一挙に連絡ができる“という点が従来のメールと違う点であるらしい。サッカー部の仲間に後れを取らないように、お年玉の7割ほどを持ってLABI1高崎にてiPod touch 5を獲得。すぐさまLINEをインストール。これはすごい!!なんて楽しいんだ!!ガラケー勢から変わったばかりで最初は少し操作に慣れなかったが、若かったのですぐ使いこなせるようになった。当時学年グループをつくった際は全部で190人近くいるうちの20人だけ。ただ当時自分は、1年もし ないうちに利用者が増殖する事を確信していたし、実際そうなった。初期メンとしてLINEでマウントを取った自分は、LINEを使って豪遊していた。あの時は本当に楽しかった。 ただ残念ながら、人間に恩恵をもたらす人工物は、その分必ず人間に損害をもたらすという両義性を孕んでいる。そしてLINEは、自分に与えた恩恵の倍の損害を与えてくれた。 そして、同じような目にあった者も何人も見た。ただ自分は、この時期にLINEを始めたからこそ今の自分があり、まだサッカーを第一線で続けられている。 つい身内ネタに走ってしまったが、本当にLINEほどこんなに急速なペースで一世を風靡した、し続けているものを見たことがない。これは、人類が初めて火を操ったとき、道具を持った時、18世紀にはじまった産業革命に匹敵するものだと思っている。



本当に“あの日”以来、我は武の心を宿し続けていたようだ。

100均の刀を買い漁ってはそれをひたすら振り続け、すぐ壊れるのでより強度の高いのをベイシアで買ってはそれをひたすら振り続け、暇があれば戦国無双に内蔵されている武将辞典をひたすら読んでいた。さらに、段ボールで甲冑を作ってはそれをひたすら着用したり、道端や森に落ちている形の良い長い棒を見ては見過ごすことができずにそれをひたすら持ち帰ってみたり。100 均の刀の残骸で弓を作り、割りばしを何重にも重ねて矢を作ってひたすら飛ばしたり、京都の修学旅行で貰った扇子を立てて那須与一ごっこをひたすらやったり、親戚から貰った高校入学祝い金が全て親の手へ渡る所を、「頼むから1つだけ好きなものを買わせてくれ」とひたすら懇願して念願の居合刀を手に入れたり。練習後、サッカー部の友達に冬の用具倉庫大掃除の時に出てきたコーナーフラッグのプラスチック製の長い棒を持たせてひたすら一騎打ちをしたり、部室にあったビール瓶の空き箱を重ねた上に目を閉じて座りながら関ヶ原に降り立っていた大谷吉継にひたすら成りきってみたり、今度はその棒を横に持ち替えて、部室の窓からひたすら注意深く銃口を敵陣に向ける雑賀孫一を宿してみたり。高3の最初、腰椎分離症によって全く動くことを禁止されていた時期の何かの授業中に、あまりにも暇すぎて無心でひたすらに高強度な割りばしの矢を何本も作ったり。自分は1番後ろの端の席で、隣と斜め前の仲の良かった女子の友達は優しく見守ってくれた(『本当にあった怖い話』より抜粋)。現役時の勉強の合間に気分転換がてら図書館から歩いて10分くらいにある高崎城跡の周りをひたすら歩き周り、徳川忠長(家光の弟で高崎城で自害した)の悲痛な思いを汲み取ろうとしたり。浪人時の10月くらいにお茶の水で行った駿台模試の結果が思ったより良くて、模試後にやる予定であった勉強をほったらかして江戸城桜田門まで歩き、「おそらくここで 井伊直弼が浪士たちに暗殺されたであろう」点に立ち、井伊直弼の無念をひたすらに哀れんだりと、挙げるときりがないが、こんな感じで生きてきた。

(*)この一連の文には、冒頭に「自分でいうものではないが」と入れていただけるとありがたい。




何の話をしていたか忘れてしまった。
国語もそうだったので、「詳細と計画」+「余談」というジャンルを加えておくことにしよう。そう、こんな話はどうだっていいのである。
要するに何が言いたいかっていうと、“自分には運があった”ということだけである。この運とは、“学校という、 物心つく前から強制的に送り込まれた施設において、大まかに5つの”もの“:それをこの場では”教科“というのだが、その中に本当にたまたま、 あの時あの時間にあのテレビを見て、そして司会者が政宗の肖像画を戦国無双のイメージ画に上乗せしたことによって引き出された、この世でごまんとあること・モノ・概念の中のたった1つに過ぎない”日本史:社会“という自分に精通するものが、見事この5つに選び抜かれた。たったそれだけのことである。


ここに、“運”に関する2つのことわざがある。
(A)運も実力のうち
(B)開いた口へ牡丹餅

世の中でよく言われる“運”というものは、たいていこの2つのパターンに分かれる。“運”を、「自分の意図しない形、予想外の出来事によって、自分に恩恵がもたらされる事柄」と定義する。

(A)のパターンは一度は聞いたことのある人が多いだろう。例えを言うならば、ある試合に出られていないスポーツ選手aがいる。しかしその選手は腐らず毎日ハードワークをし、出場するために努力をしている。そうしたら、ある日急に同じポジションの選手のbが怪我をし、日々鍛錬していたaに出番が回ってきた。 この先の話を円滑に進めるためにこんな解り切った例を挙げさせてもらったが、(A)はこんな感じだ。
勿論、見方を変えればこのような例も(B)のパターンとしてとらえることは可能だ。世の中にはこのようなことが渦巻いているため、しょっちゅう争いが起きる。

(B)のパターンは、うーんそうだな。これもいうまでもないのだが、今の時代のブームを用いて例を挙げるならば、前澤友作社長のお年玉企画だろうか。今や時の人であり、この先必ず名が残り続けるであろうこの人物が行っている企画になんとなく乗ってリツイートしたa君が見事100万円を当ててしまった。より語弊をなくすと”当たってしまった“ 、こんなところであろうか。本当にただ何となく、「当たったらいいなぁ」なんて。何せ、応募期限締め切りまであと5日もある時点で260万リツイート、すなわち260万/1000の確立であるからね。

特別企画!
ここでこの例に対して、(A)のパターンを用いてアプローチしてみよう!

この企画においてどうしても 100 万円を獲得したかったbさんは、Twitter運営側に制限されるギリギリまでアカウントを作成し、少し でも多くのアカウントでリツイートを稼ぐ。当選確率を挙げるために。それに加え、投稿主の心を打つまさしくそれっぽい文章を創り、コメント欄 にツイートするなどもあるか。(ただ今回は前澤さんが「コメント欄を全く考慮に入れない」という事を公言したため、この手は使えないが。 またこれとは別に、アカウントを複数利用することを許すことも公 言している。すごいね。 まああとはなんとなくリツイートするのではなくて、本気でリツイートしてみたり。まあさすがにこれはちょっと怪しいが(笑)。

こんな感じで万物全ての事柄には、(*2)LINE の際にも言ったように、よっぽどのことがない限り両義性を孕んでいる。そしてこのことが、この世の中で生きていかざるを得ない(命のありがたみを理解した上での言葉選び)自分たちにとって相当厄介な宇宙の法則で あり、自分の名前と同じくらい忘れてはいけない“こと”である。
そう、今までの話を見ていていたら解ると思うが、自分における日本史 (社会)というものは完全なる(B)パターンの“運“に当てはまったのだ。 こればかりは自分が強運の持ち主であった、すまない、と言うしかないだ ろう。ただ運が良かっただけで結果(点数)が出てしまい、そしてこの点数という名の結果は、間接的に、“考える”という謎の力を持つ多くの人が想起する「幸福な将来」に、必ずとは言はないが大方関与してしまう、 という点から観ると特にそう感じざるを得ない。

・歯磨きを好む者に告ぐ
嘆くがよい、“歯磨き”という“もの”が、5つの”教科“に選ばれなかったことを
・LEGO を好む者に告ぐ
嘆くがよい、“LEGO”という“もの”が、5つの“教科”に選ばれなかったことを
・恐竜発掘を好む者に告ぐ
嘆くがよい、“恐竜発掘”という“もの”が、5つの“教科”に選ばれなかったことを
・睡眠を好む者に告ぐ
嘆くがよい、”睡眠“という“もの”が、5つの“教科”に選ばれなかったことを



こんなことをいう人間に腹を立てるだろうか?
こんなことをいう人間を嫌うだろうか?
これを聞いて自分の運のなさを嘆くだろうか?
これを受け止めて自分の運のなさに諦めがつくだろうか?


思い出せ


両義性


を。




⚫ ユートピア

1週間。高崎に来てからの最初の1週間は新生活に自分の身体を慣らしていた。この1週間は、これまでの遅れを取り戻すために1日24時間の内の可能な限りの時間を勉強に当てていた。

この時のスケジュールはだいたいこう。

7〜9時:起床。起床時間〜10時まで単語達
10〜20時:高崎中央図書館にて籠城
20〜22時:高崎中央公民館にて籠城
22〜2時:公民館から自転車で 15 分の所にあるマックで延長戦
3時:寝る

前にも言ったが、勿論これは代表的な例を挙げただけで、違う時もある。特に勉強を行う場所についてはかなり不定期であった。帰ってから気づいたのだが、こんなに連続して1日中勉強に時間をあてることができるのは1年ぶりくらいであった。それまではほとんどの場合、“サッカー”があったから。それなので、流石にこの時期で集中が続かないという事はあまりなかったが、1日中同じ場所に居ればいるほど、何か得体のしれない、感覚器官においての気持ち悪さを感じた。そこで当時の自分は、5つの勉強場所をその日の気分に応じて転々としていた。


「高崎中央図書館」・・・平成23年に設立されたこの施設は、数多くの群馬県民、高崎市民:絵本の好きな純粋ちびっ子達、運良く“書物”というものが我が子に良い影響を与えるのではないかと期待する御両親方、シンプルに“書物”を好む者、眠い者、”仕事 “という名の社会から引退した後に生まれた時を、今までを振り返りながらゆったりと自分へのご褒美といわんばかりに余生を楽しむ者、居場所を失った者、涼みたい者、運良く勉強を好む才を持ち合わせた受験生、外的要因によって勉強を好みだした受験生、学歴神話を信じる受験生、何のためにここに居るのか理解していない受験生、 何かに追われている受験生、好まないモノに対してある程度全力で取り組める才を持つ者、不安と期待でいっぱいな受験生、苦手なことにチャレンジし続けるチャレンジャー、無の境地に至った者、など数多くの人間に、ある者には生きる上での希望を、そしてまたある者には生きる上での絶望を与えていた。大袈裟に言うと。

そしてそんな自分も、この建物に新たなパターンを与えてもらった人間の1人である。この施設は、5階と6階に勉強スペースがあり、5階は誰でも座れる席が結構数ある。隣との距離感もあり、机のスペースも十分あるためかなりのパーソナルスペースを確保できる。したがって、皆そこを目指す。なので、そこを確実に得たいのなら10時開館の5分前には並んでおきたいところだ。もし朝の単語の調子が悪かったりして、開館時間に間に合わずに5階のパーソナルスペースの確保に失敗したならば、6 階の集中学習室に向かうのだが、ここの特徴はとにかく静かであること。受験生と思われる人間が9割。そのため、非常に意識が高い。非常に集中している。そのため、基本的に無駄な音を立てないことは暗黙の了解とされている。だから短時間ならいいのだが、そこに10時間もいるとなると流石にストレスが溜まる。また、隣との距離感も非常に近いため、 パーソナルスペースの確保は不可能。自由がない。
ただ、そこの学習室は受付で「パソコンを使います」と申し出れば、パソコンの置いてある隣の部屋に陣取ることができ る。勿論パソコンは使わない。これは裏技で、この技を知らないのか、自分をより厳しい環境において自分を高めたいのか、受験を通してパーソナルスペースという概念を失ったからなのかは知らないが、あまり受験生がいない。ただし、その代わりにパソコン部屋の番人的存在がおり、そいつはなんといっても貧乏ゆすりが半端ない。常に数学と思われるものをやっている。基本的に居る。だから最初受付に貰う番号札次第でその日のコンディションが決まってしまう。

これらの理由から、基本的に5階の方がいいのだが、5階も5階で別の懸念材料がある。5階は基本的に本を読むスペー ス。そのため色々な世代の人が行きかう。“ちびっ子”は元気いっぱいである。普段は”人間“を困らせることがありながらも、自分にないモノを求める傾向にある人間が いつの日か失った純粋さを所持しているために非常に重宝される存在も、自分ではない自分からすると正直敵でしかなかった。大袈裟に言うと。そんな無罪の無垢な希望にこんな薄汚い人間が手を出すことは許されない。そんなときはかすかに残る善を頼りに遠のく。隣を選ぶ際はできるだけ同じ世代の人で。貸出所近くに座ると、いろいろな会話が聞こえてくる。めちゃめちゃな事を言ってスタッフを困らせる者もいる。気が散ると思いきや不思議なことにここらの”音“は全く気にならない。むしろ、ちょうどよく人間を感じることができる。
アクセスは家から自転車で5分のため素晴らしい。


「高崎中央公民館」・・・何時に行っても150%座れる。自分が使っていた2週間の間で同時に座った受験生の最高数は3人。いつでも自由に歩き回れる。平日は20時、土日は17時に閉まってしまう図書館に比べ、常に22時までやっているのはとてもありがたい。あと近くにデイリーヤマザキがあるのもいい。ただし、なんといってもそこは公民館。夜行くとだいたいどっかしらの団体が使っており、時には合唱している。 メインイベントは終わった後の世間話。そんなときもかすかに残る善を頼りに遠のく。そして、なんといってもあの謎のどんより感は受験生には耐えがたいものがある。 暖房が聞いているので寒いという事はない。ただなんだろうな、あのいわく言い難いどんより感。そこで行う勉強はいつも以上に憂鬱であった。木製の椅子から生じる自然のにおいがまた追い打ちをかけた。最初の2週間は行けたものの、最後の2週間は 行く勇気が生まれなかった。
アクセスは家から自転車で 10 分くらいなのでまあまあ。年末は早く閉館する図書館に台頭した。


「ウイング高崎」・・・つまるところ家。一番自由。声が出せるので単語用のスペース。 それ以外の用途で使うことは基本的にないが、精神に大きな負担がかかった際はここで療養する。また、(今日は家だ。)と思った際はそうする。


「17号沿いのマック」・・・ここは主に延長戦を行う際に使用する。延長戦とは、20 時まで図書館でやった後に22時まで公民館でやった後、その日のノルマが終わってない場合にそこから自転車で 10分ちょいのところにあるマックに行って1〜2 時まで勉強をすることである。家に帰ってしまうと緊張感がなくなってしまうため、その対策として編み出されたものである。最後の1ヵ月は基本的に延長戦を行っていた。群馬のマックで、しかもこの時間という事もあって確実に座れる。これの醍醐味は、延長戦が終わった後の真夜中の車道を思いっきり両手離し運転を楽しめることである。群馬の冷たい空気を全身に感じることができる。受験期唯一といっていいほど楽しいひと時 であった。


「ポポロ」・・・この変な名前は、うちの近くに住む祖母の喫茶店の店名である。どんな意図をもって名付けられたか、昔から非常に気になる所である。去年祖母は店を閉めたのだが、エアコンやストーブ、机冷蔵庫など、中の施設がそのまま残った状態であったため、鍵を借りて使っていた。ここはかなり愛用していた。というのもそこは、何においても“絶妙”であったからだ。家から自転車で3分という立地、保証された自由、“壁”がありながらも絶妙に感じる“人間感”(周りに人間を感じなすぎると逆に集中することができない)、部屋の大きさ、公民館とは打って変わって過信させてくれる空気感、冷蔵庫の絶妙な位置、絶妙な机の大きさ、など。最後のほうは基本ここにいた気がする。
もし機会が有ったら名前の由来を聞いてみたい。
自分が部活を辞めてお茶の水で模試を受けて帰還したのが 12月16日なので、センター試験本番まで約1ヵ月であったのだが、最初の2週間はイラつくことはあってもこれといった大きな災害はなく、朝図書館に向かう際に感じる群馬ならではの冷たい風を心地よいと思うくらいに比較的穏やかに、落ち着いて、しっかりと、生きていた。



⚫ ディストピア

そう、その時はある日突然に来た。

もう今回は魔王とか悪魔とか天使とかしょーもないのは無しで話す。
とりあえずひたすら書く。


この時期の進度について。

ちょうどセンター試験本番まで2週間となったところであろうか、一般の対策をしながら、 センター対策を本格的に始めた。
1年前に立てた計画では早くて2ヶ月、遅くても1ヶ月前には始める予定であったのだが、ただでさえ予定通り動くのが苦手から生じる嫌いな上に(いつかは予定を立ててそれ通りに動くことを好きになる気がしてならない)、いろいろなハプニングもあったのでこの時期になってしまった。
それでも自分の計算では、本番前には英語・国語ともに過去問25年分を解き終える予定であった(最初はセンターの赤本や黒本も3周ずつ取り組もうと思ったが、あの解説の感じでは3周やっても新しく得れるものが少ないうえに、自分も分かる問題がほとんどであったので、間違えたところだけをやればいい、と思ったので慣らすことを第一目標に取り組むことを決意)。


この時期の心配事は2つ。

1つは古文・漢文の出来がいまいちであったこと。古典はマック延長戦のおかげで順調に早稲田ルートまで終わっていたのだが、センター試験特有の古典にかなり苦戦していて、センターにしては難関大学に負けないくらい難しい年もあった。
特に、物語が出てきたときはヤバい。だって主語がめっちゃ省略されてるから。「なんで今藤原道綱出てきてるんだよ」「逆になんで急に道綱の母出てきてるんだよ」。センスがない。センスのなさを埋め合わせるだけの時間も足りない。こんな感じで古典が自分の身体に合ってないことも半年かけて理解できたので、もうある程度割り切っていた。まずは物語が出ないことを本気で祈る。物語が出た時はどうにか気合で30点は取る。それ以外なら45点は取る。

問題は漢文だった。漢文を始めたのは、今まで後回しにしていたせいで3週間前。本番まで1ヶ月ちょっとというところでようやく始めた。始めたというより、取り掛かることができた。漢文の必要参考書は他に比べて圧倒的に少なかったため、無事にルートは本番2週間前には終えることができた。文法から必要最低限の単語、実際の文まで一通りやった。文法なんかはほとんど古典と同じであったのですぐにいけた。ただ、なんかいまいちしっくりこなかった。情けなくも、センター試験2週間前にして実は未だにセンター漢文を本気で解いたことがなかった。形式は模試を受けていたのでなんとなく分かっていたが、なんせ本格的に取り掛かれたのが最後の模試の1週間前であったので、模試で本番さながらに受けることができなかった。
前にも言ったが、最後の模試の漢文は散々なものであったのだが、これはやってないからできないのであって、ルートを完成させるであろう1ヶ月後には完璧にこなせている自分がいる、と自信のある根拠をもって確信していた。だって今まで(古典は例外、あれはだめだ)現代文も小説も英語もできるようになったから(日本史の流れも例外、あれは天性のもの)。

あともう1つ、おまけの根拠を。受験漢文界の巷の噂に「漢文は1ヶ月あればできるようになりますよ。特にセンターは点取り分野です。」 というものが流行していてそれを信じてる自分がしっかりと存在していた。


なんかデジャブ・・・⇐???


そう、古典で聞いたな。古典で痛い目たんじゃないのか、と思ったかもしれないが、その時の自分は「漢文は古文と違う」と思っていた。というより、そう思わざるを得なかった。
10月・11月の時点で「古文、全然1ヶ月じゃ終わらないじゃん。誰だよ古文は1ヶ月あればいけるって言ったの。どんだけそいつ才能あるんだよ。1ヶ月丸々古典しかしてないやつ説。俺は相当古典の才能無い説。シンプルに勉強時間足りない説。ン、てことは漢文も1ヶ月じゃ無理なんじゃないか。漢文と同じルーツを持つ古文でこんなかかってんだから、いくら量が少ないから といって・・・」みたいな感じの見るも恐ろしい考えがすでによぎっていた。
かといって、 漢文を予定より早く取り掛かろうなんてことができるはずもなかった。そんな調子で最後の模試もほぼ手付かずで受けていた。

そして、いつしか自分の中でその噂は事実となっていた。
成人式マジックならぬ、“追い込まれた受験生マジック”である。


そんな感じで何とか順調にルートを終わらせ迎えた2週間前。
なんかしっくりこなかった。


それは、センター過去問をなんとなくパラパラっと流し見したときに感じた(なんかあまり解ける気がしない)という感情をもとに導きだされた“しっくりこなさ”であるのだが、実際に、まだ参考書をやっていた時もあまり手ごたえをつかむことができなかった。本番2週間前にしてである。他の人よりも1年余分に貰ったうえでの、である。情けない話である。まあでも言い方を変えれば、最終的に自分で立てた目標を達成できたので、自分の性をよく理解しそれを上手く使いこなせたということで素晴らしいともいえる。

それはさておき、この時期に、いくら漢文とは言え相当焦ってもよかったのだが、“追い込まれた受験生マジック”にかかっていた自分は、「よく見れば、本気で見ればできるんじゃないか」や、「ルートの参考書が難しかっただけで、センターはもっと簡単だからいけるだろう(全然そんなことないのだが)、なんといっても漢文は1ヶ月でできるようになるし、国語が苦手な人でも点取り分野になるのだから」と、無意識に思い込んでいた。

そしてもう1つの心配事は・・・ その前に1つ気になったこと、昔から疑問に思っ ていることがあるので書きたい。別に大したことではないのだが、先ほど使った“デジャブ” という言葉について。まず最初に、「デジャブ 意味」と検索してみてほしい。

デジャブ・・・過去に経験・体験したことのない、初体験の事柄であるにもかかわら ず、かつて同じような事を体験したことがあるかのような感覚に包まれること。前にもどこかで一度これと同じものを見たような気がする感覚。既視感。
そう、デジャブとは、“既視感”なのである。だから先ほど自分が、
「漢文は1カ月あればできるようになりますよ。特にセンターは点取り分野です。」
という言葉に対して使った”デジャブ“は、完全に、誰かは知らないが、この現象が人間とい う生物において法則性を持つことを発見し、それに対し”デジャブ“という名称を付けたおそらくフランス人心理学者の意図する形に従うとすれば、使い方、使い所を間違えている。

自分はそもそも“デジャブ”とは、このフランス人が意図したように“既視感”の意味で使って いた。自分はやけに昔からこのデジャブに陥ることが多い。他の人間がどうかは、「あなたはどれくらいデジャブに陥りますか?」とわんさか聞いたことがある訳ではないのでよく わからないが、多分他の人より多い。物心つく頃から、4.5歳の保育園に入りだしたころから、当時はまだその現象に法則性があると知らなかったので、「なんかこんなこと前もあったきがするんだよなー」としょっちゅう思っていた。ただ脳のどこをどう探してもそれと 同じことが起こったことは過去にひとつもなかった。当時の「人は死んだらどこにいくのかな」 と同じくらい不思議に思っていた。小学生に上がってもなおその謎の現象が続いたのだが、 何年史の時かは忘れたのだが、ある日いつものようにその謎の現象に陥ってる際に、いつも は頭の中で思っていただけだったのだが、その日だけ、「なんかこんなこと前もあった気がするんだよな、でもどう考えてもそんなこと起こってないんだよな」と口に出して言ってい たら、母親が「それデジャブって言う、起こってないのに、今までに起こったように感じる 事」って仰せ付かったその日よりその現象が万人共通の現象で、既に名称があることを知っ た。当時、それを聞いて、「自分だけじゃないんだ」と安心した半面、この現象は地球上にてただ1人自分だけが体験している現象で、上手く言葉にして伝えれば、人間種における新発見として特許を得て有名になれるのではないか、としょうもない期待を抱いていたのが 打ち砕かれてしまいちょっとショックでもあった。こんな感じで、後々“割と同じことを体験している人が多い”と知ることになる現象が何個かあった。まずはこれを見ていただきたい。

この空気中に浮かぶ謎の気泡みたいな細菌みたいな。これもずっと物心つく頃から見えていたのだが、これに関しても 「自分だけ空気が見えているのではないか」とかしょーもないことを考えていた。小学生の浅慮なので許してほしい。これも後で中学くらいの時に始めたTwitterで、“これが普段から見える人リツイート!”ってな感じで流れてきて、しかもそれが結構 RT されてるのを見て、自分だ けじゃないんだ」と安心した半面、この現象は地球上にてただ一人自分だけが体験している 現象で、上手く言葉にして伝えれば、人間種における新発見として特許を得て有名になれる のではないか、としょうもない期待を抱いていたのが打ち砕かれてしまいちょっとショッ クでもあった。 後は、これは今はもうできないのだが、学校給食に出てくる牛乳の中身の量を当てることができた(くりもと牛乳に限る)。これはよく皆に言うと疑われた のだが、紛れもない事実であった。自分は給食を食べるのがダンチで遅かったためいつも皆 が先に片づけるのを眺めていたのだが、1年になってすぐ、牛乳の中身があとどれくらい残 っているのかを100発100中で当てることができた。申し訳ないのが、「後何mℓ残っている な」とかできず、おおざっぱに分けると、「9割残っている。4/3残っている。2/1残ってい る。4/1残っている。飲み切っている」の範囲で当てることができる事だけなのだが。本当 に別に牛乳の中身を当てるトレーニングをした訳でなく、ある日突然、「あ、あの子ちょっとだけ残してるな」、「あ、あいつはほぼ残してるわ、あの子は飲み切っている」など、自分は全く触れていないのに、だ。
眺めているだけ。別にその子は皆に牛乳の残量を公言しているわけでもない。

答え合わせの方法は、牛乳を入れる専用のボックスがあるのだが、牛乳係が片付ける前に自分で誰がどこに置いたかを覚えておき、確認するのだ。 くりもと牛乳に限る理由は、まだこの能力を有してた時に、母親に頼んで家にある1ℓ牛乳で試したのだが、全くもってあの200mℓ牛乳を見た時に伝わる感覚、まるで自分が持っ ているかのようにはっきりと伝わる感覚を得る事は出来なかった。そしてこの能力はある日気づけば失われていることに気づいた。

デジャブの話に戻すと、自分は「デジャブ=既視感」と認識して以来、偶然かはわからないが、 デジャブという単語を他の人の口から聞くことが多くなった。特に中学に上がってから高校までの間だろうか。あぁ本当に存在している単語なのか、と再認識する一方、ほとんどの人がデジャブを、”既視感、体験していないことを体験したかのように錯覚する“というメーカーの意図通りの意味ではなく、”以前に起こった事、またはそれとほぼ似た現象が再び、 実際に起こった際に使われる言葉“として”デジャブという言葉を用いていることが分かった。

皆様の周りはどうだろうか?

自分は先ほどそれを踏まえた上でわざと本来の、いや本来のというと語弊があるので”メーカーの意図通り“の意味とは違う意味で使ってみた。だから、それに違和感を覚えなかった人は後者の意味で”デジャブ“を使っていた可能性が高い。
例えばだが、自分の高校の友達があるときシンプルに転んで皆で笑った。そしてしばらくの後ほぼ 同じ場所で同じ友達が転ぶ。そして皆でまた大笑いするのだが、だれか1人が「デジャブじゃん」と言った。そして自分は「デジャブってそう意味だっけ?」と思う。
これはいい加減な例であったが、こんなことがこの期間頻繁に起こった。そうしてそれが繰り返されるうちに、自分の中でだんだんと「デジャブ=同じ事が実際に起こった際に使う言葉」として認識されていった。だから先ほど”わざと違う意味で使ってみた“と自信満々風に書いたのだが、急に「そう言えばデジャブってホントはどういう意味なのだろうか?」と思って生まれて初めてネットで調べてみた挙句、”既視感”の意味であったためにこれについて書くことを決めた。


デジャブの例を挙げたことを今後悔している。何も思いつかない。パンクしそうだ。死にそうだ。追われるのは生きていくうえで不便だ、 、 、 。


でも自分は自分に不都合なことがあるとこう思う。そして一番怖いのはこれが実は真理なのではないかと本気で思うことである。そしてもっと怖いのは真理が存在しないと本気で思っていることである。そして一番悲しいのはこの一連の動作に意味がないことを理解してしまっていることである。そして1番悪いことはこれを公言してしまうところである。


「自分の思ったことがそうである」
「自分がそう定義するならばそうである」
「すべてのことに理由がない」
「ないと思えばない」
「あると思えばある」
「デジャブの意味が既視感である理由が存在しない」
「万物全てのものに意味は存在しない」
「意味に意味は存在しない」

本当は。


それなのに皆はなぜ羨望する。


そのような性格をもって生まれたことを
虚に気づかないで生きていける。


存在していない虚に気づくはずもないからか。


Give up.




そしてもう1つの心配ごとはそう、もうきてもおかしくない“あの瞬間”の最終形態(詳しくは第3章をチェック)がまだ来ていない事であった。自分は早く早くと待ちわびていた。こっちに帰ってきて以来。もういつ来てもおかしくない状態であった。だからこそそれがいち早く来てほしかった。
そいつの到来が遅ければ遅いほど自分の目標達成可能率は一気に下がる。
ただし、なぜだか来なかった。2週間前にして。
最悪なことにこのせいで、「もしかして今年はもう来ないんじゃないか?」と思ってしまっていた。もう耐性ができたのでは?とか思っていた。



丁度本番まで2週間となった日、いつものように朝、家で単語をやって図書館に向かった。

その日は、ポラリス3という英語の参考書(早慶レベルの英語の長文の参考書)の1周目のレッスン5・6をやってからセンター英語の苦手分野をひたすらやるという予定であった。
この時期にその参考書がまだ1周目というのはとても進度的には遅かったのだが、そのレベルの問題はセンターには出ないので、「最悪早稲田一般の日に完成されていればいいだろう」という算段であった。
だから、2日ほど前に始めたこの参考書は全部で12題あったのだが、早慶レベルという事もあってなかなか1題のボリュームがあり、解いて解説を読んで構文と単語を確認しているとかなりの時間を要した。
そのため、この時期そろそろ本格的にセンター問題の安定化を図りたかった自分は、1日2題だけ進めることにした。2題×6日×3周=18日で終わる計算。
その参考書の最初の問題は確か慶應の問題であった。それを解く前、少しドキドキしていた。というのも、早稲田の一般試験日を最終的にゴールとするのならば、これを始めるのが本番約1ヶ月半前、浪人生にしては遅いスタート。この参考書をある程度、今までの積み重ねを生かして解けるかどうかで一般でも点が取れるか取れないかが左右される。
だから、もし仮にでも全くその参考書が解けないなんてことがあったら、今までの積み重ねが否定され、あと1カ月半では修正しきれないという事を悟り、3段階目を優に超える、絶望なんて言葉では言い表せないものが降りかかることが明らかにわかっていたので、相当な覚悟を背負って、相当なリスクを負ってその参考書と対面していた。
T塾のルートは絶妙に作成されており、前のレベルの参考書を完遂させたならば次のレベルでも絶妙に、ちょうどよい点数がとれるようになっている。なので、新たなレベルで点を取れないということは、それ以前の参考書を”身につけた“のではなくただ”暗記した“という事を意味する。そこから生まれたドキドキである。
本来はこうならないようにもっと早くから取り組んだ ほうがいいに決まっている。ただどういう訳か、こう解っているのにこうできない人のほうが今まで自分が見てきた感じ圧倒的に多い。なぜだろうか。

あとほんの少しだけあったのが、いよいよ自分もここまで到達できたのか、あの夢にまで見たポラリス3が目の前に、という興奮からくるドキドキもほんの少しだけあった。
1年前の受験が終わった際にすぐ駆け付けたT塾高崎校で無料で貰ったルートの早慶の欄に記されていた“ポラリス3”。そこにたどり着くまでには果てしない時間と正しい勉強を要する。勉強とはほぼ無縁であった自分に、復讐心を原動力としている自分に本当にたどりつけるだろうか?たどり着いた自分 はどんなになってしまっているのか?


ようやくの思いで解き始める。その緊張感は本番さながらである。

そして気づいた。
「あれ?意外といける。むしろ簡単」

終わってみれば 正答率9割越え。「え、早慶の英語長文ってこんなレベルなの?」とも正直思った。そしてその時の会場はあの”ポポロ“(第10章を参照)。乗り出したら止まらない。
ただ、まだ1題だけ、たまたま自分に合っていただけかもしれない。
予想外の出来とポポロの空気感によって有頂天になりかけていた自分はもう一度軽く気を引き締めなおし、次は2の早稲田の問題も解いた。
するとこれも正答率8.5割。もう完全に有頂天。 もうその時は、何をやってもうまくいく気がした。ポポロ内に存在する空気から地球上に存在する空気全てまでもが自分に味方した気がした。
その時は受かるイメージしか湧かなかった。「ほらやっぱできちゃったよ。成し遂げちゃったよ。こんなもんだよ。みたか世の中。」 と、その時だけ合格発表を終えた2月23日にタイムスリップしていた。

その日は本当はもっとやるべきことがあったのだが、もう受かったので何もやる必要はないと思い、即刻チャリで大観衆のホームの中、空気たちが催す合格パレードを味わいながら帰宅した。
そしてそれですぐに眠りにつけばよかったのっだが、ご飯を食べながら録画していたガキ使を見だしたのである!
いつもならご飯は部屋にもっていき、何かしら参考書片手に食べていたのに。 一言で言うと阿呆である。


朝起きると残念ながら酔いからさめていることに気づき、またいつものように単語を始め、いつものように図書館に向かって延長戦を行い・・・。
この日は3・4の問題を解いた。横国大と早稲田の問題。どちらも7割行くか行かないか。 昨日はやはりたまたまだったのかと少し落ちたが、初見でこのレベルを7割取れているのは別に悪くはないとも思ったので、特別気にすることなくよく眠った。



そして2週間前となった日、なんだかその日は曇りでどんよりしていた。初めに言っておくと、今まで生きてきてこの日ほど人間の機能が停止した日はない。心臓が強いて動いていたくらいではないのかと想像する。死ぬ直前には間違いなくこの日を思い出すであろう。もし自分が認知症を患っておらず、寿命により命を落とすことになった場合だが。

まずその日はいつものように単語と戯れ、10時少し遅れで図書館に向かった。

図書館では主にセンター英語をやろうと思っていて、その前にポラリス1日2題のノルマを終わらせてしまおうと考えた。先に難しいほうを終わらせたら、より簡単なセンターを解いている際の精神的負荷が減ると思ったから。

5の問題は確か早稲田の問題で、いつもより難しかったため6割行くか行かないかであった。
「うーんまあこんなものか」とか思いながら解説を終えて、次に行こうとしたときにいつもよりナーバスな自分に気が付いた。天気のせいもあるだろうが、この6割は実力の6割ではなかったこと理解していたからだ。いつもは根拠を持って答えていたのだが、なんかその問題はすべてが曖昧で、全てがなんとなくであった。
まあただ、1〜4の問題を普通に解いていたので錯覚していたが、早稲田ともあろう大学の問題が簡単に抜けるようでは困るし、今までが簡単であっただけで、「これくらいでなくてはな」と自分に言い聞かせながら次の問題に進んだ。

6題目。それは東京外国語大学の問題。国公立形式で、本文中にでてくる12個の()に、選択肢の英語を必要であったら変形させろという問題。
「うわ、ちょっと苦手だな」とか思いながらスタートさせたのだが・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・全くわからない・・・・!!!


こんなにわからないのは本当に久しぶりであった。
思い返せば、1年前に初めて明治の赤本をやった時以来。()のなかが解らないのではなく、全てが解らない。本文から何まで。
見事なまでに自分の知らない英単語が文の主力に使われていた。選択肢の単語の意味も比較的わからないことが多い。人通り文を読み終えて全くわからなかったため、少し制限時間を延長して2周目に取り組むも何の進歩もなし。
ただ一応空白は作らず全て埋め、もう無理だと思い答え合わせに向かった。

結果は12分の0

今までこつこつ丁寧に英語に取り組んだおかげで、いくら初見でできないなーと思った問題も5割を切ったことは滅多になかったし、ひどい時でもなんだかんだ6〜7割取れていることが大半であった。
だから自分の中で「できない=5割は取れている」という思いが無意識にあった。

ただ、結果は0

0なんて生まれてこの方取ったことがない。
それも1年前のまだ未熟な自分がこの問題を解いたならまだしも、あれを機に、あの悔しさをバネに、着実に1年かけ成長したはずの、いや、確実に成長した自分の、持てる力を全て出したうえでの0。
言い訳のしようなんてあるはずもなく、余りに予想外の出来事に震えが止まらなくなった。たまたまの0なんかない。 手を震わせるながら解説のページに向かう。 なんていったって一番大事なのは復習だ。
ところが何も頭に入ってこない。

未だに信じられなかった。0を取ったことが。
解説をよそ目に、必死に理由を探していた。自分が0を取った。
でも必死に探しても、「解らなかった」以外の答えは見つからなかった。この期において解らなかった?そんなことがあるはずがない。いつもの倍以上の時間をかけて、何も頭に入っていないことを理解しながらも、解説のページをめくり終え、とりあえず6題目を終わらせた。

そして震える手を前に組みながら一度落ち着いた。そして、「よし!切り替えて いこう」と思い、リュックにポラリスをしまいセンター英語赤本を取り出した。 そしていつものように、③〜④を中心に解き始める。
何もわからない。いつもなら簡単に何事もなく解き終えるのに、何もわからない。
震えが止まらない。視界が揺れる。左から英文を読みだす。何も頭に入ってこない。

そうだこれだ。この感覚だ。去年初めて赤本を見た時に感じた。帝京大学のIリーグのとき(第4章を参照)に感じた。ただその時よりもはるかに大きい。
「あぁ、結局来たんだな。来ないなんてことあるはずもないか・・・あははははははははっはは」。

そこでようやく自分が“0”を取ったことに気づく。その瞬間、全ての不安、というより起こりうる最悪の形が”受験生マジック“の溶解とともに一気に押し寄せてくる。


・この後やる漢文のできがひどく、センター試験に失敗してそれを引きずり一般でも失敗し2浪
・100点取る予定の日本史で大コケし、それを引きずり2浪
・センター英語で今日みたいにわからな過ぎて失敗し2浪
・センター古文、難しい物語が出て失敗し2浪



こんな感じで考えうる最悪の形を可能な限り想像しつくしたら、次は自分の持つ全ての力を振り絞って後悔する。

友達の懐疑的な目を押し切って仮面浪人を決意したこと。
親の反対を押し切って仮面浪人を決意したこと。
監督の反対を押し切って仮面浪人を決意したこと。
自分なら絶対できると思って仮面浪人を決意したこと。
どんなことがあろうと、ここまでぎりぎりのスケジュールになってしまったこと。
辞める際に「もう戻ってくることはない」とコーチに言ってしまったこと。
皆と自信満々に最後の挨拶を交わしたこと。
日体大サッカー部に入ったこと。
日体大に入学した事。
仮面浪人になったこと。
受験に出会ってしまったこと。
人間に生まれたこと。


そして最後に、落ちた時の周りの心情を読み取る。

やっぱ無理だったかと思う友達。
やっぱ 無理だったかと思う身内。
やっぱ無理だったかと思う監督。
やっぱ無理だったかと思う日体大のコーチ。
やっぱ無理だったかと思う日体大の友達。
やっぱ無理だったかと思う社会。


そうして頭が真っ白になる。赤本を閉じる。外を見る。うずくまる。
不安→後悔→自責→不安→後悔→自責→不安→後・・・・・・・・。

1時間後、席を立つ。まだ午後2時。構わず家に帰る。家に着く。部屋に籠る。うずくまる。
不安→後悔→自責→不安→後・・・。

リビングに出る。机に座る。テレビをつける。テレビ を消す。部屋に籠る。
不安→後悔→自責→不安→後・・・。

午後3時にして寝るかと思う。ベッドに入る。
不安→不安→不安→何かやらねば→何をやっても頭に入らない→不安→後悔→自責→寝れない→起きる→机に座る→うずくまる→横を見る→もう既に4周終えてセンター前最後に5周目して確認しようと思っていた『石川日本史』実況中継がある→何となく手に取る→開く。



気づけば次の日の朝の6時になっていた。
異様なまでに激しく鼓動を打っていた心臓はもと通りの脈拍になっていた。気づけば落ち着いていた。
どうやら14時間ぶっ続けで『石川日本史』を読んでいたようだ。約400ページあるその本はだいたい1時間40ページの計算で進むので1冊は優に読み終え、途中で極東裁判の動画が現存しているか気になり、調べたらあったので、それを夢中になりながら見ていたようだ。


そうしてまたいつものように単語達と戯れ、図書館に向かい、ポラリスの 7・8題目を解き、7割くらいの点を取り、センター英語の対策を続け、延長戦を行い、帰って参考書片手にご飯を食べ、長文に出た新しい単語を思いながら睡眠に入る。




⚫ 〒194-8543 東京都町田市東玉川学園3丁目3165

あの日以降は毎日を常にギリギリの精神状態で過ごしていた。

例えばであるが、あの日以降は勉強場所の1つであった公民館を使わなくなった。なぜかと言うと、ほんのちょっとのことで落ち込み、あの空気感によって落ち込み具合が一気に増すからだ。
初見の問題も午前中、 午後の早い時間にやることはやめた。もし失敗した際にその日の残りの時間全てが台無しになる可能性があったからだ。あと初見の問題を解く前は、ひたすら自分に「もし失敗しても気にするな」と説いた。全くもって効果を得ることができなかったが。
コピー機のインクを切らすことも御法度だ。予定が崩れて精神が崩れてしまうからだ。

そして、締め切りギリギリに新たに中央大学経済学部のセンター利用を出すことを決めた。というのも、当初は立教、 明治、早稲田スポ科の競技歴(センターが大成功してしまった時のため)の3つだけに出す予定であったのだが、自分のセンターの出来からボーダー8.2割(受かるには最低でも 8.5 は 取っておきたい)の立教にこける可能性が万が一にあったため、それよりちょっと低いボーダー8割の中央大学に出すことを急遽決めた。
経済学は特に興味があった訳ではなかったのだが、そのたった0.2割の差が命取りになることがあると十分理解していて、なんといってもセンター利用を1つも取れないということを酷く危惧していたため、親と相談して出させてもらった。
それに親は「落ちたら絶対に日体に戻れ」といっていたので、なおさら落ちるわけには いかなかった。親には言えていなかったが、ほぼ退学の方向で手続きを進めていたから。部活もしっかり辞めてしまったし。本当にこの期間は心に細心の注意を払いながら生きていた。


また漢文なのだが、案の定、初めて解いたときは全然とは言わないまでも解らなかった。まあまあ本文は読めるのだが点の取り方が解らなかった。それに本番は15分で終わらせなくてはいけなかったのだが、25分くらいかかってしまっていた。
まあなんとなく参考書をやっている時に古文漢文を学ぶことはトリリンガルの道と捉えていた自分にとっては不十分なルートであることは薄々気づいていたが、なんといっても魔法にかかっていたので。
ただ、今や魔法は解け、残り2週間でセンター漢文を9、せめて8割、なおかつ15分以内に仕上げなくてはいけない。そして現状全然仕上がっていないという現実に向かわざるを得なくなった。

本来ならば、この期間にして2度目の“無”に陥る所であったのだが、その時は最後の希望の光がまだ残っていた。

それは『センター漢文満点のコツ』という参考書が存在していたことである。特別新しいモノではないのだが、センター専門の参考書なので、その設問事の解き方とかセンターで出やすい単語・句形が主に乗っているらしい。
常に気になっていた存在で、「もしセンター解いてみてダメだったらそれを使おう」と決めていたので、案の定無理だった時のショックを半減させることに成功した。作戦勝ちである。その日中に高崎駅にあるくまざわ書店に行ってパラパラっと見て買った。かなりコンパクトであったので、1.5日で1周×4=6日で、5周目は1日で終わらせるという計画を帰りの自転車で立てた。
そして立て終わった後、「もしこの参考書でも無理だった俺終わりだな」と自転車をこぎながら思った。国語は漢文のでき次第で大方決まるといっても過言ではない。もし無理でも15分以内で終わらせなくてはいけない。スーパー現代文マスターでない限り。
だから俺は全ての、この先の未来をこいつに懸ける決意を自転車をこぎながらした。

最初の1周目は、「ここに載てるもの基本今までの参考書に載ってたぞ。これ意味あるのか?センター対策とか言ってる割に他のと変わんないな」とか思い、ちょっと心配になっていた。でも自分にはそいつしかなかったから。とりあえず何かに導かれるように予定より 早く5周して、すきさえあれば音読して・・・。

ある日を境に覚醒した。急に15分以内に 終わるようになったし、正答率も8割を切ることがなくなった、最後のほうは基本45〜50点。大当たりした。その参考書が自分にフィットしていたというより無理やりフィットさせることに成功したようだ。
安心した半面、自分は今までこのような経験をすることが比較的多かったため、ひそかに期待してもいた。結果、巷の噂通りに約1ヶ月で漢文で点が取れるようになっていた。




センター試験まで残り約1週間、午前はセンター英語(全ての年のぶんを終えた後は河合塾の予想問題集)をやって、午後はセンター国語をひたすら(1日4年分×5日)やった。
漢文が覚醒して心の余裕ができたおかげか、英語は9割〜10割で安定してきたし、国語も良くて9割取れるようになってまあまあ良かった。それでも、5年分に1回は7割付近をとってしまっていたのでまだまだ油断はできなかった。だから、「もし失敗しても気にするな」と説くことも忘れな かったし、国語を解くときの会場は基本的に家かポポロにした。日本史は『石川』のシリーズが本番2日前に全部5周終わる計算でうまくやっていた。




そうこうしているうちにセンター本番2日前になった。

実は、自分は10月にセンター試験の受験表を請求する際に、“帰ってきていた実家の住所”ではなく“神奈川の住所”で登録するというしょーもないミスを犯してしまったため、受験会場が青葉台駅から電車で20〜30分ちょいの昭和薬科大学になってしまった。本番1日前にいくと何かあった時が怖かいという理由で、2日前には青葉台の家に入ることを決めていた。


そして2日前になり、持ち物を入念に確認し、受験表を持ったことを5回くらい確認した。何か1つお守り的参考書を持っていくことにしていたので、親友である“開発講座”をスーツケースに入れ、渋谷行の湘南新宿ラインに乗った。確かギリギリまでこっちで勉強してから行こうと思ったので、高崎を出たのは夜の9時くらい。

青葉台についてから本番までの予定は、まず次の日(センター前日)の朝早く起きて会場の下見初めていく場所であったため、行くべきだと思ったから。下見に貴重な勉強時間を割くのは気が引けたが、もうこの時期に急に何かやっても変に焦るだけだと思い、自分の持てる力を全て出すための準備をしようと心がけた。
そして下見が終わったら、青葉台駅近く にある“ブックファースト”(本第一主義)という本屋で、河合塾が出すセンター国語予想問題集(河合塾のが一番本番に近いとされていたから)を買う。そして、そこに載ってる5〜6年分の古文・漢文を本の家にこもって一気にやり、家に帰って日本史の忘れやすい単語の最終確認をして、次の日の持ち物を入念に確認、特に受験票(受験票さえあればどうにかなるという考え)を5回は確認し、T塾のセンター前日に出す心得動画を篠原好が出すセンター前の心得動画をゆっくり風呂で観てすぐ寝る。

そして本番当日の朝、起きたら英語のリスニングを3年分(センター利用でどこも要らないと思っていたのだが、立教と中央で使うことが発覚しちょっと焦ったが、 普段からなんだかんだ7割取れていて配点も低いという事もあり、本番の朝だけ一応確 認することにした)をやって、英語の1問目の発音・アクセント問題の確認をして(これも1週間前に始めた。情けない)、1時間半前に余裕をもって到着する
そして日本史の文化を最後の最後に確認をして、本番を迎える。



気づけば2日前、高崎を出てから本庄につく間にもうここまで完璧な予定を構築し終わり、そのあとは単語を見たりしながら、勿論心のどこかに不安はあったが、それをいったんしまって物思いに浸る。
「やっぱり自分ってギリギリになってしまうのだなぁ。でもなんだかんだルートは基本全部終わらせられたなぁ。こんなにコツコツ物事に取り組 んだのは生まれて初めてであるなぁ(サッカーを除いて)。実はすんごいターニングポイントになるのではなかろうか。」

そうこうしているうちに渋谷に着き、そこから田園都市線のホームに向かい、懐かしい光景を味わいながら自分が本当にここに生きていたことを実感していると、青葉台に着いた。夜中の11時半くらい。

そこからバスに乗って15分くらい、日体からチャリで5分くらいの家の最寄りバス停に着き、そこからサカナクションのアルクアラウンドを全力でかけながら(バス停から家までの道では必ずアルクアラウンドをかけると決まっている)、空にあるオリオン座(自分が唯一見分けられる星座。冬の受験シーズンには必ず夜の空に現れ、中3の時も去年の現役の時もオリオン座を見ていた。オリオン座を見ると受験を思いだす。)を見ながら5分くらい歩き、ラビィエコロという変な名前のアパートに着く。ちなみに、上には仲の良い先輩(風戸君)が住んでいる。

ちょうど夜中の12時くらい。部屋を開けると、参考書やコピーしたプリントが散らばりたい放題であった。こんな汚かったっけ?電気はかろうじてついた。
もう眠かったので、少し日本史と発音アクセントを確認して寝ようと試みた。

ここで1つの大きなミスに気づく。
スマホの充電器を忘れたのだ!

1つくらいこっちに残っていると思っていたが、なんかあの四角い部分は2・3個あったのだが、なぜかコードがひとつも残っていなか った。まあ確かに自分にしては上手くいきすぎていたため何かしらやっているだろうと思ったが、まさかそれが充電器だとは・・・。
その時の自分のiPhone 5Sの充電残量は約30%。
自分の5Sはやけに充電の減りが早かったため、100%にしてきたうえにあまり電車で使っていな いのにこの量になっていた。最悪本番当日の行きだけもてばいいのでとりあえずそいつを冬眠させることに決めた。
これが後々大きな事件を引き起こす。



次の朝(センター試験前日)、さっそく予定が崩れる。

下見に行く予定の時間に起きたは起きたのだが、急に面倒くさく(携帯の件もあったし、下見するくらいなら勉強したほうがましだと思いだした)なって結局行かなかった。後で死ぬほど後悔するのだが。

そして次に予定通り本第一主義屋に行って河合塾のを買おうと思ったら、河合塾のしかも国語だけがなくなっていた。これには少しパニックになりかけたが、急遽駿台のを買って難を凌いだ。そしてここからは予定通り本の家に向かった。
途中でサッカー部の友達に会って1年を懐かしんだ。

そして7時間くらいで8年分の古漢を一気に解いた(慣らすためであったので答え合わせは適当)。全部時間以内、しかも8割を切ることはなかったのでなかなかよかった。少し不安だったのは 本番より少し簡単であったこと。まあそんな感じで後は全て予定通りことが進んだ。こんなに時間に余裕をもって予定通り事が進んだのはいつぶりであろうか。

そしてコンディショ ンはなかなか良い状態で眠った。
この後自分の受験史史上かなりの事件が起こることも知らずに。




せンター試験当日、朝7時くらいに優雅に起きた。

予定通りリスニングを3年分こなし、結果はまずまず。まあ配点も大きくないのであまり気にすることもなく。 
そして最後の持ち物確認、主に受験票を。あと本番前最後に確認する用で心配な語句だけをピックアップした紙。親友。あと、残り25%の5Sをもって。(前日に試験会場までのルートを調べたので 25%になってしま った。ちなみに何かあるとまずいので書き出しておくという用意周到さ。)


こんなに時間に余裕を持って家を出たのはいつぶりであろうってくらい早く出た。5S の充電残量が少し不安であったが、とりあえず会場の最寄までもってくれさえすれば、他の受験生についていくだけなのでこの時はまあ大きな不安要素ってわけでもなかった。

青葉台からは、田園都市線で長津田まで生き、そこからJR線に乗り換え町田まで行き、最後に小田急線に乗り換えて最寄り駅の玉川学園前駅まで行く。
無事に町田まで着き、最後の確認としてNAVITIMEを確認する。何もしていないのに充電が残り20%になっていた。そろそろ寒さで急に切れてしまう頃だ。でも何とか小田急線への乗り換えに成功し、玉川学園前駅に素晴らしい時間帯に着いた。

パーフェクト。

そうして残りの20%すべての力を出し切る許可を5Sに与え、玉川学園前駅から昭和薬科大までのルートを調べた。

意外と遠い。

ただ、基本的に最初は真っ直ぐということは理解した。そしてそれをもとに一歩踏み出した瞬間、画面が突然真っ黒に。5Sがその外気の寒さゆえに冬眠に入ってしまった。
ただ、この時は「うわ、俺運いいわ。今日はマジで行ける気がする」とか思っていたに違いない。ここまでくればもう他の学生達についていくだけだ。俺の勝ち。

歩いた。真っ直ぐに。
もう本番モード。難しい問題が出てきたときの切り替え方。時間配分の確認。少しでも目標達成に近づく方法を何回もイメージしていた。

すると会場が見えてきた。「思ったより早いな」とか思いながら。「え、だとしてもこんな早いことあるか?さっき 見たマップでは・・」。なんか違う。そう思いながら入り口に向かう。
いつもなら5Sを取り出せばどうにかなるのだが、このときは満を持して冬眠中。そんな自分の唯一の手掛かりは黄色い受験票。住所と受験番号、あと確かその周辺の地図(何の役にも立たない)が載っていた。


そして、そいつをもとに受験生を案内していた警備員のおじさんに話しかけた。

俺:「この受験番号ってここですよね?何号館ですか?」

警備員:「ここは玉川学園だから君はそもそもここじゃないよ」

俺:「!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?」

俺:「じゃあ昭和薬科大は一体どこに・・・?」

警備員:「うーん、知らないねぇ・・・。下に交番があるからそこで聞いてみて」

俺:「(知らない・・・?知っとけよ・・・)わかりました」


俺の頭:「1回整理しよう。俺はなぜか玉川学園にいる。要するに道を間違えた。迅速な訂正を求められている。1回落ち着こう。予定通り来ているから時間はまだたっぷりある。取り敢えず今の時代どうにでもなる。携帯があれば・・・?携帯がねぇ・・・!あ、でも切れた時はまだ15%くらいあったな。使えるぞ!!!」



言われた道をたどり交番に向かいながら、俺はありとあらゆる、今まで培ってきたすべての技術を駆使して5Sを温めた。そして、ドキドキしながらまだ上にある電源ボタンを長押しする。すると、あの見慣れた白塗りのりんごマークがでてきた!!

とりあえず一安心。
ただ安心も束の間、最短距離でマップアプリを開き、最高速度で“昭和薬科大学”と入力する準備をした。そしてパスワードを解除し、マップのコマンドに指を最短距離で、最高速度でスライドさせている途中、画面が真っ暗に。まだ冬眠中であったようである。



丁度交番が見えたため、何かあったかいものに5Sをくるんでいったんリュックに入れた。
まあ今の時代何とかなる。
時間もまだ十分あるので、特に焦ることもなく、むしろ堂々と交番に乗り込んだ。

中には誰もいなかった。

「不在の場合はこちらの電話から連絡お願いします」 と書いてあったので、言われた通りそうした。

俺:「もしもし、道を聞きたいのですが」

警官:「はい」

俺:「昭和薬科大学ってここからどうやって行くんですか?」

警官:「え!?昭和薬科大!? ・・・ ちょっと待ってて・・・」

俺:「(すぐわからないのか・・・急いでくれ・・・こちとら人生かかってんねん・・・。まあまだ時間はある。落ち着け。1年間何してきたんだ。安心しろ。にしても遅いな・・)」

警官:「えーっとね。昭和薬科大は結構歩きますね。交番を〇手に見て、その道を真っ直ぐ歩いて下さい。」

俺:「(ここを真っ直ぐか)なるほど、次は?」

警官:「えーっとね、その後はね、その道を小田急線沿いに真っ直ぐ歩いたらね、突き当りに○○があるから、そこを○に曲がって、そこをもう少し進むと坂があって、そこを登って少し行くと細い道があってそこから*△%□#△$△□%□・・・・・」

俺:「えっ!?(なんて??)この道を小田急線沿いに真っ直ぐ行ってそっからどうすればいいんですか?」

警官:「えーっとね、だからね、*△%□#△$△□%□・・・・・」

俺:「(要するにそこからは気合で行けってことか。だめだ、もうどうしょもねぇ)了解です。 ありがとうございました。」

警官:「はい」



受話器を置いて交番を出る。とりあえず言われた通りに真っ直ぐ歩く。

俺:「(どこまで歩けばいいんだ)」

ちょっと焦ってきた。
まだでも時間はあるし、最悪試験開始何十分前かに設定されている集合時間までに座れていればいいやと思い、とりあえず歩いてそれらしきところに来たら誰かしらここらに住んでいそうな人に聞けばいい。
何のために言語があるのか。まさに今が使い時ではないか。
(ちなみにウォーミングアップがてら交番を出てすぐそばで歩いていた人に聞いたところ、分からないと言われ時期尚早なのだなと理解した。)

なんとなく覚えていた“坂”というワードを頼りにひたすら歩く。ちょい早歩きで。
時々5Sを起こすことを試みながら。起きたと思ったら即座に二度寝する。



俺:「(そろそろだな。お、あの夫婦めっちゃこの土地に詳しそう)昭和薬科大ってどこか知ってます?」

奥様:「私は知らない」

旦那様:「昭和薬科大学でしょ。この道をちょっと戻っ・・・」

俺:「(戻る!?地獄だ・・・あれ、俺ちょっとやばくないか・・)」

旦那様は続ける。

旦那様:「・・・て、○○が見えたらそこを右に曲がって真っ直ぐ行くだけだよ」

俺:「(○○なんて見あたらなかったけどな、でも割と簡単そうだ。そろそろたどり着けそうだ)ありがとうございます。」



先程、“最悪”その何十分前かに間に合えばいいと思っていたが、割と現実味を帯びてきた。 でもまだ早歩き。

だいぶ歩いた。
旦那様のおっしゃっていた○○が見当たらない。それっぽい所で曲がってみても、なんか聞かされてていた特徴のある道と違う視界にはスタート地点であった交番近くの踏切が見えている。根拠はないが戻りすぎたということは確実な気がした。

俺:「(あれ、ちょっとやばくない?俺)」


しびれを切らして旦那様を裏切ることに。もう結構焦っている。
最悪センター開始に間に合うえばよいという思考に切り替わる。

次は犬の散歩をしている優しそうなおじさんに。

俺:「昭和薬科大ってどこにあるかわかりますか?」

優しそうなおじさん:「昭和薬科大学でしょ。この道をちょっと戻っ・・・」

俺:「(戻る!?地獄だ・・・あれ、俺ちょっと、いや、まじでやばくないか・・)」

優しそうなおじさん:「・・・て、○○を左に・・・」

俺:「ありがとうございます」



走る。俺は走る。誰よりも走る。何よりも走る。
すでに最初”最悪“つけばいいと思っていた時間を回っていた。日本史開始までだいたいあと30 分。とにかく走る。


まず、最初に自分が辞めるって言った際にがんばれって言って応援してくれた日体の先輩や友達やコーチが、次に親をはじめとした身内、そして高校のサッカー部の友達、監督、中学 の友達、小学校の友達、保育園の友達、佐藤病院の看護師さん・・・。日体の図書館、本の 家、高崎の図書館、高崎中央公民館、マック、ウイング高崎、ポポロ・・・ 

次から次へと頭に、今まで応援してきてくれた人・モノ、またはそうでない人、または全く関わりのない人が、次から次へと浮かんでくる。


皆:「センターどうだった?」
俺:「いやぁ、道に迷って日本史受けられなかったんだよね〜」

少し面白いが、情けないにもほどがある。
もし、最悪日本史が0点だとして、英語と国語で満点、いや満点は無理だとして9.5割とれたとする。センター利用の配点に換算すると、600/390=6.5割・・・
受かりっこねぇじゃねぇか。それを知りよりスピードを上げる。


3・4 時間しか寝ないで朝練に行って、身体の重い状態で図書館に向かい、古典をやっているのを見られたこともあったが、午後練開始ギリギリまで籠って、午後練で走り、疲労困憊になりながら、家に向かい洗濯をして風呂に入ってストレッチの時間を削り、ご飯はカップ焼きそばにせざるを得ない時も多々あり、朝2〜4 時まで勉強したあの日々が、“あの日々が”、充電器を忘れたために、5Sの充電が足りなかったがために水の泡になるのか・・・

あの日々の出来事が感覚を伴なって思い出された。
なんかだんだん面白くなってきた。

私:「(やっぱ人の性格ってなかなか変わらないないんだなぁ。そういえば最後の模試も遅刻したなぁ。1年で断トツ早く3回目の遅刻をしたのも必然的であったのだなぁ。今日を機に時間に余裕を持つタイプの人間に変わるのか?とか期待していたけど、最後は結局自分なんだなぁ。なんだか最後まで自分らしいなぁ。やっぱこれが俺だよなぁ!!!」


笑いながら、にやけながら走っていた。
よくわからないけど、全く疲れない。これがランナーズハイってやつか。

とりあえずいる人いる人に片っ端から、その人がこの地域に住んでそうかそうでないかはもう関係なしに訪ねた。
もう取り返しのつかない時間なので、合ってることを祈るばかり。
確か開始後20分であればまだ入室も許される。これにはどうにか・・・!


5人くらいに聞いた。突き当りに差し掛かる度に聞いた。祈りながら。


すると、「ここを左あと○○mで昭和薬科大」という看板が見えた。
嬉しさでランナーズハイのそのまたピークに達してスピードを一瞬爆上げした。
今思えば最後に聞いた5人すべてが、正確に昭和薬科大までの道を知っていて、わかりやすく自分に教えることができたことはとても運がいい。


看板に沿って真っ直ぐ進むと大学の入り口が見え、大学の係員先生が3人いた。
相当嬉しかったので多分にやけていたから、あちらからしたら、遅れているうえににやけている自分をみて何か感じたものがあったに違いない。


時間は開始10〜15分前。

係員に受験票を見せ、案内される。そして小さい教室であることを祈りながら、にやけている顔をリセットし、到着したうれしさを抑えながら、自分は強く扉を開いた・・・。




⚫ 終わりの始まり

扉を開けた瞬間、一斉に皆の視線がこっちへ。

自分:「(うわっ、教室でか。人おおっ!!)」



まあ着いただけでよかった。
教室の規模まで要求するほどの贅沢はしてはいけない。 

にしても、こいつら本当にセンター試験本番を迎える者なのか?
もう少し緊張して、15分前ギリギリ滑り込みで飛び込んできたレアな浪人すら目に入らないくらい視界がぼやけてる人が居てもいいじゃないのか?
まあよく考えなくても、間違いなく見る。自分なら間違いなく見る。
だってセンター試験本番、普段時間にルーズな奴ですら今日は時間に余裕を持って行動しようと試みる、センター 試験本番に15分前ギリギリに滑り込んで、しかもやけに堂々としてる奴に視線を向けないわけがないだろう。
へー、本当にこんなやつがいるんだ、って感じで見ていたのは間違い ない。

まあ、“5分前行動”がしきたりとされている日本において、15分前って十分早いのだけど、そもそも開始30分前に集合って早すぎると思うのだが、まあ色々な配布物があるので仕方ないが。

自分:「(思ったよりみんな見るな。まあこうい時こそ堂々と。)」


自分の席まで割と遠かった。試験官に案内されながら進む。

自分:「(こいつらまさか、この自分がもう既に大学生だとは思わないだろうな。かわいそうだな、ここにいるほとんどの人は、本番に遅刻しそうになる、一見“もう推薦で決まってるけど学校の指示で何故だかセンター試験を受けさせられてるけど実は1年間かけて準備してきた受験ガチ勢の”自分に負けるのか。こっち見るな。黙れ!自分のことに集中しろ!)」

そんなことを思いながら歩いていたら、自分の席についた。そして座る。

本来の、朝余裕を持って会場に着き、日本史開始前に一通り文化を確認して、絶妙な緊張感を得て、万全の状態で挑む。という予定は勿論崩れたが、なんか辿り着けた嬉しさが上手く根拠のない自信に転換されたので、割と万全な状態っちゃ万全の状態で挑める事になった。



それに加え、もうあまりない緊張感がさらにそぎ落とされる事件が生じた。

自分が到着したのとほぼ同時に受験票の顔写真の上に貼るシールが配られた。
センターを受けた人は知ってると思うが、ただシンプルに既に貼ってある顔写真の上に貼る、保護シールのことである。
シールが配られて、「(うわーこんなんあったな去年。懐かしいな。あれから 1 年か。あの時 はまさか自分がもう一度センターを受けるとは思っていなかっただろうな。あれから受験 勉強という点だけに関しては成長したな)」など、物思いに更けながら貼っていた所、自分の前の席の少年が後ろを向く。

ん?

受験会場本番で見知らぬ人がこっちを向くとは何事であろうかな?

前の席の少年:「これってどう貼るんですか?」

己:「(なんだそんなことか、ここは浪人性の底力見せな)えっとね、そのシールをね・・・ ん・・・!?えっ(笑)(こいつが持っているのは保護シールではねぇ!なぜこやつ証明写真を手に持っておる!?(笑) しかもめっちゃ何かから剥がした跡がある・・・、あの一回貼り付けたものを剥がした際につく跡・・・もしやこいつ・・・!)」

そう、その子は保護シールを顔写真に貼るのではなく、顔写真を保護シールに貼ろうとしていたのだ!!!(笑)
修正が効く間に彼に事実を教え、急いで、まだ顔写真に粘着力があるうちに受験票に貼りなおさせ、保護シールをその上から貼らせた。

いくらなんでもこれは笑わずにはいられなかった(笑)
ありがとう前の席の少年。



そうこうしているうちに試験が始まった。




試験中のことについてあまり書くことはないが簡単にいうと、

到達した嬉しさからポジティブな感情しか湧かない状態で挑んだ日本史は、終わった瞬間に100点を確信した。とは言わないまでも97点は確信した。
というのも迷ったのは1問だけで、それ以外は全て、問題の該当部分が載っている参考書の箇所を頭に浮かべながら解くことができた。要するに、間違えているわけがない。迷った部分も8割方あっているだろうなと思っていた。


昼休憩の後の13時から始まる国語は、少し、本来あるべきの緊張が生まれていた。
日本史が終わり、1時間くらい空きがあるのだが、その時間、周りはどうやらほぼ同じ組織母体で申し込んでいたのだろうか、お互い皆顔見知りのようで、まあこれが良く喋る。
まあ内容のほとんどは、結果報告、答え合わせ、偽りの心理状況である。私服ばかりだったので(自分の高校は皆基本的に制服で受けていたため、その先入観)、浪人の集い(前の席の子を除いては)だと思っていたので、あ、同じ組織だったのか思いながら、「相変わらず受験会場で生まれる会話ってしょうもね」とも思いながらも、「自分も去年そうだったなー」とかも思う反面、慣れ親しんだ環境でやれていることに対しての羨み、受験票申し込みの際に青葉台の住所を書いたことに対しての後悔も思っていた。
急に孤独を感じ、少し不安を感じた。

次の国語で鬼難しい漢詩が出たらどうしようか、源氏物語っぽい物語が出たらどう しようか。シンプルにめちゃめちゃムズイ小説が出たらどうしようか。自分があまり精通 していない新しいジャンルの評論がでたらどうしよう。
考え出したらきりがなかった。
それでも、日本史の出来が良かったので、日本史:10割、英語:9割は取れる予定で計算していて、国語は8割さえ取れれば全体で9割を超える、ということから少し心の余裕ができた。


そして国語が始まり、まず漢文を見て、漢詩ではないことがわかったためちょっとだけ安心。
古典はまだ見ないようにした(もし物語とわかったら落ち込むから)。とりあえず漢文に集中しようと試みた。
いつもとりあえず1周して、本文を何となく理解するついでに解ける問題は解く(基本的に本文理解してなくても文法だけで20点くらいはいける)。この日も同じやり方でやったのだが、いつもと違って、文法だけで解ける問題がなく、その上本文が全く理解できなかったため(今までで一番注釈が多かった気がする)、漢文史 上初めて1周目を終えた時点でひとつも枠を埋められないという事件が起きた。
流石に焦った。時間だけが過ぎていく。

ここでこけたら日本史の出来がパーに。
もっと言えばやっとの思いでたどり着いたセンター試験自体がパーに。

一瞬闇に落ちかけた。よく本番で「頭が真っ白になったら1回ペンを置いて1分でもいいから目をつぶって深呼吸をしろ」とある。 無理に決まってんだろ、と思った。自分には合わねえ。とりあえず焦りながら何周も高速で読んだ。

すると4周目したくらいから急にひらめいて、全てが繋がって。一瞬で解けた。
時間は15分ギリギリ。

そしてドキドキしながら古典のページを開いた。
神様はそう簡単に味方してくれない。題名の最後にしっかり「物語」と書いてあった。
ただここまできたらやるしかない。
目標をあえて下げて30点とし、心に余裕をつくる。

するとどうだろうか。めちゃめちゃ簡単だったのだ。もはや説話。

予定より7分も早く終わり、小説・評論に入る前に55分くらい余っていた。
もうここからはZONEに入る。小説も評論 も時間がありすぎて、わざわざいろんな解法を使ってみたり、1つの文をめちゃめちゃ細かく分析してみたり、もはや楽しんでいた。高校の時は、「なんで現代文に制限時間が設けられてるんだよ、おかしいだろ。そもそも人の気持ちなんてわかりっこねぇだろ、俺が思った答えが正解だろ、点数なんてつけるな」とか思っていたのに。


国語が終わった時点で正直集中力は切れていた。もうなんだかセンター試験を終えた気分。1年間の疲れがどっと押し寄せた気分。
それも仕方がない。自分を散々苦しめた、人間の機能を失わせかけた国語が終わったのだから。英語でこけることはないし。
国語が終わった瞬間、なんか周りに光があふれかえった気がしていた。元居た世界に戻ってこれたような・・・・。


そして英語を難なく終え、急ピッチで対策を進めたリスニング(当日朝の3年分)も、後に世間を騒がすことになった“野菜人間”の出現(実際試験中にあいつを始めてみた時は、 心の余裕から(後で Twitter で拾われそうだなー、にしてもこれを創った人センスあるな。 シンプルそうで実は誰にも創れるんだよな)とか思っていた)に少し慄きながらも、何事もなく終了。


このリスニングが終わった瞬間、こんな簡単な言葉を使っていいか解らないが、“最高だった”

少なくともセンター利用は必ず取れている。

どえらい安心感

2浪を回避できたことの安堵がすごかった。(ちなみにこの時は自己採点もなんもしていない。全くまだ何も決まっていない)

明日からは早稲田大学スポーツ科学部の一般だけに集中できるため、念願の早稲田合格にぐっと近づく。


その時はいいことだけが、明るい未来だけが見えていたのだが、後々、「もう絶対にこの3週間(センター終了〜早稲田一般)には戻りたくない」というような感情を抱くくらいなんとも気持ちの悪い、別の種の地獄の日々が待ち受けていることを、まだ自分は知る由もなかった。




⚫ 犯罪者予備軍

センター試験が終わり、自分たちの教室の出る番が回ってきて、とりあえず前の人についていった。そして、出口について皆それぞれに散らばっていった。
自分も最寄り駅に行きたかったのだが、携帯の充電は勿論切れっぱなしだったので、道がわからず、とりあえず最寄り駅に向かってそうな集団について行くことにした。

みな最寄りの玉川学園前駅に向かっているのかと思ったのだが、会話を聞いているとどうやら違う駅に向かっているらしかった。
まあ神奈川なので歩いていける距離にあるのだろうと思いながら、センターの出来が良かったため、特に焦ることもなくついて行った。


にしてもあの時は久しぶりに普通に歩けていた気がする。いつもはもっと重かった。久しぶりに継続した幸福感を味わっていた。
自己採点が楽しみで仕方がなかった。シンプルに実は間違っていたらどうしよう、とか、マークミスをして全部ずれていたらどうしよう、とか考えもしたが、よく考えずともあれだけ自信をもって回答したし、時間も全部余って、英語も国語も2周ずつマーク確認したので、その不安は一歩踏み出すたびに薄れていき、次第に幸福に変わっていった。
自分は歩くのがあまり好きなほうではないのだが(移動時間が嫌い)、あの日は楽しかった。


結局、最初いた50人くらいの集団は5人くらいになっており、気づけば40分くらい歩いていて、やっと駅に着いた。駅の名前はちょっと覚えていないのだが。
そしてそこからまた何十分かかけて青葉台に 戻り、バスに乗り、バス停から家までアルクアラウンドをかけて、といきたいところであったが携帯の充電がないので我慢した。


荷物を軽くするために、青葉台の家にセンター関係の本はすべて放り投げ、またバス停に戻り、青葉台駅に向かい、渋谷駅に行き、湘南新宿ラインで高崎に向かった。

確か渋谷をでたのは夜の10時半を回っていた。



湘南新宿ラインは比較的退屈である。
何せ高崎に着くまで2時間はかかる。そして最初はほぼ確で座れないので寝れもしない。普通は5Sがないと退屈で死にかけてしまう。
ところが、その日は何も苦痛ではなかった。渋谷で車両に進出した瞬間、ぎゅうぎゅうに押しつぶされて、それがしばらく続いてもである。


センターが始まる前、自分は「センターが終わっても気を抜かず、すぐに一般試験に向けて切り替えよう」と強く思っていた。要するに、世でいう “センターぼけ”というものにびびっていたのである。
万が一センターが大成功に終わってしまった場合、“二浪回避”、社会的立場の確保“という安心感から、本来の目的である”復讐”を 一時的に忘れてしまうことは自分の性格上確実であった。
そのため、対策としてまずは早稲田大学一般試験に向けた、まだ終わり切っていないルートの参考書を2、3冊持っていき、センターが成功してしまった後にすぐ切り替えて湘南新宿ラインでその参考書をさんざん開くイメトレをさんざんした。
今考えてみるとまあ贅沢なイメトレである。 ところが、そんなにイメトレをしていたのにもかかわらず、いざ本当に成功(何回も言う が、この時点では全くもってまだ採点していないが)してしまったら、参考書など開けるはずがあろうもなかった。

この時は気が抜けたというより、シンプルにうれしくて浮かれていた。
そして、電車に揺られながら、「そろそろ大手予備校が続々解答速報を出しているころだな」と思いながら、早く採点するのが待ち遠しくてしかたなかった。(5Sが生きていたらすぐにでも見れただろうが、そうすると、発表直前まであの緊張した状態でスクリーンにへばりついていないといけなく、あの時間は非常にしんどいと現役時の時に学んだため、今回ばかりは5Sが死んでいて良かったと思った。)

電車の中で自己採していると思われる学生もいた。全く無表情でやっていたため、成功しているか失敗しているかはわからなかったが、人間なので「少し失敗してろ」とか思った。

そうこうしているうちに本庄に、神保原に、新町、倉賀野、そして高崎に着いた。
深夜0時付近は、群馬随一の発展都市である高崎といえど、基本的に駅周りにはあまり人はいない。「さすが群馬随一の発展都市だ」とか思いながら、そこから徒歩20分かかる自宅に向かう。心の高揚から、寒さは全く感じずスーツケースを引っ張りながらスキップして歩いた。

ただ、家に近づけば近づくほど、緊張してきたのも事実。
現実と対面しなくてはいけない。今までは確かにいつもよりは信頼できる根拠を基にはしていたものの、虚構により生まれた感情に頼りながら歩いていたのも事実。



家に着いたら、父はもう寝ていて、母は仕事。妹だけ起きていた。
自分はリビングに着き、即5Sをコードにさした。充電がある程度溜まるまで、妹が年末のガキ使を見ていたので、それを少し見る。そう言えば久しぶりに笑った。そんなことをしている間に充電は溜まり、ふー っと息をついてから部屋に向かった。


まずネットで「解答速報」と入力する。
わんさか出てくることを確認し、スーツケースから問題冊子を取り出す。
机に置く。
急に心臓がばくばくしてくる。



自分はいつも、日本史→国語→英語の順で採点していたので、今日もその感じでいった。


日本史の問題用紙を出す。
1回パラパラっと問題を見て、1つ不安だった問題をもう1回確認して、「やっぱここあってるよな・・・」って思えるまで凝視する。そうして、もしダメだった場合に、精神を回復させている自分を十分にイメージできたら、覚悟を決める。

まずは、大問1から。
「解答速報日本史」を開き、一気に小さい数字がバーッと並ぶ。より鼓動は激しくなる。
記念すべき最初の一問、どう考えても間違えているはずのない問題なのだが、全くスクリーンを拡大するための親指と人差し指がでてこない。もう一度、両手を顔で塞いで、両肘をつく。
自然と、この1年間にあった出来事が頭にポンポン浮かんでくる。何度ぶっ倒れかけたとこであろう。そして5分くらいそうした後、自分でも「俺こんなに指早く動かせるんだ」と驚くくらいの速度で問1を見る。次の問題が見えない程度に拡大するしなやかさも兼ね備えていた。

最初の答えは・・・「1!」・・・「確か1のマークを塗りつぶしたよな・・・、そうであれ!!!!神よ!!!(都合の良いときだけ神に頼る悪い癖である。)」

“恐る恐る”という言葉がこれほど合う場面は他にないんじゃないかと今書きながら思ったのだが、それは置いといて、恐る恐る問題を見る。
自分がつけた〇の淵を何となく探し、それを囲み、番号をチラ見する。

「・・・1・・・???」
番号をがっつり見る。
「・・・1!!!・・・」
記念すべき2点が。
ここに来るまで20分くらいかかった。そこからは、テンポよく進む。

「1、4、5、3、3・・・」
「よし、よし、よし、よし、よし」

そして不安だった問題の前に差し掛かる。
「ここさえ乗り越えられれば・・・」

先に自分が〇をつけた番号を見る。
「自分は・・・3・・・」
「解答は・・・3・・・・・3!!!!!」

気づけば終わっていて、気づけば100点であった。


国語も177点。これは自分にとってはかなり上出来。


英語も、最初の半分で、文法1題4点の問題と、不要文削除問題で3/2落としてしまっていてちょっと、てかかなり焦ったが、なんだかんだ終わってみれば178点と、まあ不本意ではあるが、特別ミスったという訳でもなかった。

あと、おまけ的な感じでリスニングもやったが、なんだかんだ44点取れていた。


3教科365点。センター利用で出したところは、基本日本史も200点配点になるのでそれで換算すると、約93%



まずここで2つの良いことと、1つの悪いことと、1つの最悪なことに気づく。


まずは、良いことから。
それは日本史で、本当に100点を取れた事。自分は、一般試験に【センター日本史+一般(英語・国語)】に出願していて、日本史の点数がそのまま反映されるので、国語と英語の負担がある程度減ったことは良かった。(まぁ基本的にそれに出願する人は社会満点近くとるのだが、だからこそ少しでも落とすと、だいぶ出遅れてしまうのだ。)

そしてもう1つの良いことは、ほぼ確実にセンター利用で合格が出る点数を取れたこと。

正直明治大学は、最後のほうのコンディションからして「運が良かったら行けるな」とか情けないことを思っていたのだが、この点数だったらまあ受かる。
そしてこのことによって、2浪回避ということがほぼ確実になり精神的負担が一気に減った。それプラス予定通り、一般で滑り止めを受けなくてよいため、早稲田スポ科だけに絞ることができた。だからここで、“点を取るための日本史”ともおさらばできた。


そして次は1つの悪いこと。
それは、自分の中であまりにもセンター試験において”成功を収めてしまったこと。これはシンプルに気が抜けた。8、7割ぐらいがきっと丁度良かった。何事も中庸が大事といったアリストテレスの言葉が深く思い出された。

自分は、少しでも受かる確率を上げるために、万が一センターが成功を収めた際のために、「競技歴方式」というものにも出願していた。これは、センター3教科+高校の時の部活の活動実績。それを、3教科400点換算にして、+競技200点配点の、計600点。例え、3教科で満点を取っても全体の7割近くしか与えられず、この“競技歴”が結構なカギとなってくる。
ところが謎なのは、競技歴が200点満点というのは後悔しているのだが、その中の詳しい配点(例えば、全国出場で○○点、国体で○○点、県大会ベスト○○で○○点など)は全く公表されていない。まあそこも所詮私立大学は会社なので、利潤を追求するものとして当然のことだから当たり前っちゃ当たり前なのだが。
自分の競技実績は群馬県高校サッカー選手権で3位。まぁちょっと調べていく過程で、これに受かる人の競技歴は全国大会出場は基本当たり前、って感じということがわかったので、「自分の実績じゃ到底かなわねーな」とか思って1回出願するのをやめようと思ったのだが、「万が一のことがあるんじゃねーか」とかも思って結局出してしまった。

そして、これが、実際センター試験が成功に終わってみて気づいた、“最悪のこと”であった。



自己採点が終わって、リビングに座ってほっと一息、ガキ使の続きを見ている途中に、ふと「あれ?この点数ひょっとして競技歴ワンちゃんあるんじゃねーか?」と思ってしまった!
そしてそれと同時に、「あ、これからの3週間相当しんどいかも」とも悟った。


とりあえず、その日は2時くらいにベッドに入り、「明日の朝から切り替えていつも通りの生活に戻ろう。ここで気を抜いたら、いつもの自分と同じだ、最後までやり切ろう。」と建前の御託を並べ、睡眠を開始した。



次の日、意外にも、目覚ましの音通りに起きることができ、「あ、切り替えられてんな」と思いながら、いつものルーティン通り椅子に座り、単語帳を開く。
今日から、新しい単語帳「リンガメタリカ」だ。確かに始めるのは遅いけど、3週間あれば十分間に合うし、ちょっと前までは、早くこの単語帳をやりたくてうずうずしていた。
そして座って開いて1章目・・・・・・・

気づけば自分はリビングでガキ使を見ていた。そしてそれが見終わってもなおソファーから動けず、寝たりなんなりして、気づけば夕方の5時になっていた。

こんなに勉強から離れたのはいつぶりであろうか。
流石の自分もやばいと思い、本来やる予定だったポラリスを完遂させるべく、ポラリスだけを持ちポポロに向かった。

ところが、いつもなら1時間で1題終わり、それも3周目とかだったのでもっと早く終わる予定であったのだが、この日はなんと1題終えるのに3時間かかった。
センターボケの予想外のでかさには驚かざるを得なかったのだが、間違いなくこれは、「競技歴方式」に出願してしまったことが大きく影響している。
どこかに「いや、これワンちゃんどころか普通に受かる範囲なんじゃねーの。」とか思っていた。



次の日も、朝起きる、気づけばリビングに居る、寝ている、夕方になっているという感じで、時間がいたずらに過ぎていった。
自分でびっくりしたのは、本当に集中力が一瞬にして消えたことだ。椅子に30分も座ってられなくなった。ついこないだまでは椅子を離れることに苦痛を感じていたのに。そして、”自分“という人間として持って生まれた性格:タイプを変えることの難しさを改めて知り、何かに追われていないと能力を発揮できない能力を持って生まれたことを後悔した。心安らかになることはないのだなと。



次の日は、少し変わる。

もうこうなったら、嫌でも机に向かうしかないと思い。朝一で図書館に向かい、あえて自由に動きずらい6階の学習室を選び、参考書を開いて気合を入れて、「1日できる限り机から離れないキャンペーン」を開始した。
それでも、ほんの数十分したらぼーっとして、また気を入れなおして、またぼーっとしての繰り返し。何回か、机にいることが気持ち悪くて仕方なくて、うずくまらざるを得ない時もあった。
そして時々、「早稲田 スポ科 競技歴 配点」と調べていた。

結局閉館まで居れたもんじゃなく、「何かやらなきゃ、なんか大きな刺激が欲しい」と思って、その帰りには高崎駅のくまざわ書店に行って、受験生の最終形態が取り組むような、もはや全くもって必要のない、勿論ルートには載っていない現代文と、古典の参考書を買って帰った。



次の日は、その参考書をもって図書館に向かい、久しぶりにわくわくしながら、集中力を取り戻して解いていたのだが、逆に激ムズすぎて、集中力が落ち、再び何事も中庸が大事といったアリストテレスの言葉が深く思い出され、そして気づくと、「早稲田 スポ科 競技歴 配点」と検索していた。



次の日なんかはまた何もやる気がなくなって、3時くらいまでソファーで何もせずぼーっとしていたのだが、何もしないのは無駄だなと思い、丁度高校の部活が始まりそうな時間だったので、監督に電話して、急遽サッカーをしに行った。
なんだかんだ、自分が試みたセンターボケ対策で一番効果があったのはこれであった。最初の1週間はこんな感じであった。




そうこうしてるうちに、先日駿台大宮校まで約1時間半かけて行ったセンターリサーチの結果が返ってきた。

するとそこには、
中央大学:A判定
立教大学:A判定
明治大学:限りなくAに近いB判定、まぁ受かってるとみてよいだろう。

そして渦中の早稲田大学スポーツ科学部競技歴方式:余裕のA判定。
しかも問題はその推定順位だ。確か志願者の中で12位とかであった気がする。前年の倍率は4倍。400人受けて100人受かっていた。そう考えると、自分は88人に抜かれてもいい計算になる。「あれ、?これ受かったんじゃないの?」という思いがそれを機に一層強くなり、気が付くとそれは「これは受かっている」という虚実にすり替わっていた。

日がたつにつれて、「早稲田 スポ科 競技歴 配点」の検索回数は増えていき、どうにか自分と似た境遇で見事合格を勝ち取った投稿者の投稿を見つけるまでは、その日の検索を終えることはできない。

まぁ、3日目くらいから「なんだよ、、、この投稿昨日も見たよ」ってのが明らかに増えてくる。そして、自分でも、自分が合格するありとあらゆるパターンを考え出す。
「競技歴、県大会第3位だからなんだかんだ100点は貰えるだろう。100点あれば十分受かるだろう。自分の代は育英が全国優勝しているから、その県内3位は他と比べて加点になるんじゃなかろうか、いや、そうに違いない。そもそも早稲田大学ともあろうものが、いくら競技歴といえど、こんなに点を取った人を落とすだろうか?いや、落とさない。」など、考えられるパターンは考えつくした。そう思えば思う程その虚実は信憑性を増していく。

日が進むごとに、あぁ、俺受かっちゃったのか、って思いが先行する。生まれた初めてなにか壁を、順応を超えた気がした。そうなると自分はあらぬ方向に進むのだ。
何と言ったらいいかわからないので、この時自分が書いていた“闇ノート”から特別に抜粋させていただく。

「闇ノート」
塾講師が「なら来るな」と言った時の論破方法

給料高くなるとやる気なくす教師はそもそも概念から学び直す必要あり
塾→県営国営化

①目標:どうにか人間それぞれ最も適性のある職業に付かせる方法を見つけたい
②研究:そもそも人間の才能と願望は分離されるものであるのか
(例)その人は教育の才能適性がかなりあるが、願望はプロスポーツ選手になりたいなど。

研究:もし塾の国営化、私立大学の費用を制限した場合社会全体にどのような影響がでるのか。行く行く社会主義などに戻ってしまうのでは?
ちゃんと経営者に理念を訪ねる。高いなら来る名じゃない。

やりたい研究①:YouTubeの関連動画の欄を廃止した場合に来るYouTuberや一般市民からの批判に納得させるように答える方法。

やりたい研究②:裏アカウント、また、匿名アカウントの禁止を慣行した場合
表現の自由との対立

・いつも行きついてしまう思考
→保険会社の例

遺伝子工学が人間に応用されるとどの人がどんな病気になるかがわかる
それを利用して保険会社は将来病気になる患者を脅し保険料を通常よりあげる
このような悪人をどうにかして陥れたい
ただ、悪いことの定義ってなんだ、他の人を不幸にすることなのか、、、?


以上が、当時の「闇ノート」の、まだ人様に見せられる一部である闇というほど大したことではない。

こんなの今の時代、調べれば出てくるのであろうが、そんなに単純じゃないというのも事実である。当時はこんなことを考えては悩み、結局答えなんて出るはずもなく、最終的には必ず「人の数があまりにも多すぎる」と言って収束する。何か自分にとっての矛盾を見つけると、それを社会の矛盾としてあてはめ、もやもやして、イライラして寝れない時もあった。

この期間に自分にとって“サッカー“とは、抑止力として働いてることも発見した。
今まで時々、「なんで自分ってまだサッカー続けているんだろう」と思うことが多々あった。勿論、「上手くなりたい」という明確でわかりやすい理由はあったのだが、それだけでは続けきれないだろうとも思っていた。それは無意識に、防衛本能が働いていたのだろう。

自分なんかは確実に社会に向いていないので。この期間は本当に気持ち悪かった。

こんなこともありながらも、流石に万が一競技歴に落ちるとあれなので、(“万が一”と使っている時点で自分の精神状態の推移がうかがえる。)なんだかんだ勉強時間は初期より確保できてきて、無事俺を殺しかけたポラリスも終了し、最後は締めの、”俺伝統、日中音読大会”も開催した。

(*)日中音読大会とは、その名の通り日通しCDに合わせて、音読すること
である。12時間続けて当たり前。英語のリーディング速度と引き換えに喉がなくなる。



んでそうこうしているうちに2月9日の、競技歴方式合格発表になった。

急に当日になって、今までの自信が嘘のようになくなり、ここで落ちたらあと5日後にある一般に間に合わないきがするとか弱気なことを思っていた30分前から5Sと見つめ合っていた。

結果から言うと落ちた

今考えれば当たり前なのだが、その時は流石にショックの色を隠せないようであった。そうして、結局人間は変われねぇのかとか思いながら、一生この性格を背負っていかなくてはいけないことにひどく嫌気がさした。それでも、残っていた、見えない敵への復讐心を基に、残り5日、再び修羅となり、可能な限り励んだ。
ここで負けたらダサすぎるだろ。闇ノートも一時休載。



そして迎えた5日後の2月14日。

朝高崎を出て、余裕をもって受験会場の高田馬場に着く。
早稲田のこのキャンパスは、高1の時、学校の大学見学できた以来であり、「大学ってすごいな」と思った反面、「自分には全く縁のないところだな」と思い、一生懸命、華の大学生ごっこをしていた自分を思い出した。「あの自分がまさかここを受けるとは・・。」


試験が終わり、キャンパスから早稲田駅まで歩いている途中、あ、本当に終わったんだな俺の復讐。久しぶりに空を見ながら歩き、一年が本当に過ぎ去ったことを実感する。

肝心の試験は、THE普通。
正直本当にダサいのだが、あまり手ごたえを感じていなかった。

だから歩きながらキャンパスを見て、「これが見納めかもな」と思いながら、また歩き続けた。正直この道中、結構後悔していたんだと思う。
でも同時に、「これが俺なんだ」と思い、それに初めて素直に納得してしまった。

「これで落ちたら、俺は潔く復讐界から身を引こう」と思い、それに初めて素直に納得してしまった。


その日は、次の日に日体大に退学届の本格的な手続きをするために、一度青葉台に戻った。
その電車の中、もう今までのような”勉強をやってない時に生まれる罪悪感“も、”来る受験での失敗を想像して酷く追いつめられること“もない。何にも追われていないのである。なんか乗客皆が仲間に見えた。

青葉台に着き、自宅に着いたら、もう電気が通っていなかった。そんなことも気にする間もなく、かねてより、受験が終わったら飯に行こうと約束していた仲の良い友達3人に合うためにキャンパスに行き、「あれ、俺ってここに本当に通ってたっけ」って思い友達にあって「お疲れ」と言われ、「あ、俺はここにいたのか」と思う。

青葉台の町を初めて見る。「こんな店もあったのか、え、こんな店も、あ、あんな店も・・

あれ、俺ってここに本当に住んでたっけ」と思い、友達に「せな」と呼ばれ、「あ、俺はここにいたのか」と思う。

焼肉を食べ、そのまま友達の学生寮へ。「セナが遊んでるの見たの初めてじゃね」と言われ、「確かに」と思う。

地元の友達に会う。
「本当にやり切ったな」と言われ、「確かに」と思う。味方がいる。

こうして、だんだんと自分を取り戻す。




合格発表当日。

確か12時発表であった。

12時になる。
混雑を予想し、あえて10分遅らせて発表サイトを開く。

自分の欄を探す(早稲田は自分の受験場合を入力するのではなく、〇〇~○○みたいな感じで載っている。)

他の欄を見てみる。
ずらーっと数字が並んでいる。

もう発表が開始されたことを確認して自分の所へ。

空白・・・・?

あれ?もう他の欄は載っていたよな?
10分遅らせたから、あちらのミスとかではないだろう。

となると・・・?

受験番号欄が空白だった場合にあり得る2つのパターン
1:あちらのミス
2:該当者なし

1は10分遅らせた上に、他の欄には載っている。

となると・・・?
該当者なし・・・?

てことは
不合格?


え、でもあの教室めちゃめちゃ人いたぞ。15号館。
あそこ全員が落ちたってこと?
そんなこと・・・ある・・・?


俺:「明日いよいよなんだけどさ、倍率11倍~12倍でさー、俺流石に自信ないわ」

佐々木:「いやシンプルに考えろ、四方それぞれ3人ずつ倒すだけ。それだけ。」

俺:「確かに!なんか楽になった!がんばるわ」


あの会話は一体・・・?

まぁあり得るか。落ちたのか。まぁ、そんなに人生上手くいかねぇか。




電話でも合否確認できるのか。便利な時代だな。
まあ一応やってみるか。

AI:「早稲田大学、合否確認サイトです。受験番号を入力ください」

俺:「意外とめんどいな」

AI:「受験番号○○○○○○ですね?」





「おめでとうございます。合格です。つきましては、こち・・・・・・・・・」






復讐完了。







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