『黄河が来た』座談会 各部員のコメント(1)

「黄河」は、連綿と続く時の流れであり、抗いようのない何万年と続く生と死の流れを表すもののように感じました。1連目の「僕」は、成長のなかで感じた様々な周囲の様相、すなわち「無限」の情報や他者とのつながりに影響されながらそれに圧倒されているのではないでしょうか。「またぎ越してきた」という言葉からもその勢いと量を感じます。

2連目で二人称が、3連目では「妻」や「僕らの子ども」というフレーズが登場し、黄河の流れのなかで「僕」がそれを次第に受け入れていく過程が読み取れます。特に、「無限」のなかで「きみ」や「僕」の心に引っかかったもの、すなわち三角州に堆積していくものが「有限」として残っていくのではないでしょうか。

4連目の「ぼく」は「僕」の子供ではないかと考えます。赤ん坊の「ぼく」は、はいはいの状態から初めて自分の両足で立ち上がったとき、「僕」のように黄河の訪れを感じるのだと思います。

私はこの詩を通して、中島敦「文字禍」の「書かれなかった事は、無かった事」という一節を思い出しました。一般人の生活は確かにそこにあるのですが、それが「歴史」として残ることはほとんどありません。一般人の生活のような「無限」の連続性のなかのローカルな物事に改めて向き合うような作品であったように思います。

(文章:永井)

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