見出し画像

「ボカロ文化」から学ぶ

 4月28日、若者に混じり国立競技場で行われたAdoのライブに行ってきた。コロナ禍の2020年にAdoの存在を知り、彼女の人生の物語を知るにつれ、私にとって大きな興味の対象となっていた。コミュ障で引きこもり、自分が大嫌いと公言していた17歳の少女が、わずか数年で国立競技場を埋めた7万人のお客様を熱狂させる存在になるとは、本人すら思いも寄らなかったことだろう。AdoはライブのMCタイムで「私は歌がなければ、その歌のきっかけとなったボカロ(ボーカロイド)とボカロP(プロデューサー)、そして歌い手との出会いがなければ、このステージに立っていません。」そして「自分を育ててくれたこのボカロ文化に恩返しをしたい。」と熱く語っていた。そういえば、少し前のNHKの番組で、YOASOBIのAyaseさんも「ボカロと出会えたことで人生が変わった」と語っていたことを思い出す。学校や社会では居場所が見つからず、生きる意味さえも見失いかけていた彼らが、ボカロという文化に出会えたことで救われ、本来持っていた高い能力を開花させることができたのは素晴らしいことだと思う。そんなことを言うと、彼らはもともとギフテッドだからで、ボカロがあれば誰でも救われる訳ではないと言う方もいるだろう。確かにそうかもしれないが、彼らがボカロと出会っていなければ、その素晴らしい才能は埋もれたままで、光を浴びることさえなく消えていたことだろう。例え小さく弱い存在であったとしても、自由に表現を楽しめる自分の居場所を見つけることができれば、人は輝けるのだということを証明して見せてくれたような気がする。
 最近は二人以外にもボカロ出身のアーティストが音楽の世界で活躍するのを見て、同じような悩みを抱える人に大きな勇気を与えていることだろう。しかし一方で、まだまだ画一的で進学教育中心の学校や社会で居場所が見つけられず、闇の中でもがいている若者が多いのも現実なのだろう。

 このように、若者を中心に大きな影響を与えるようになったボカロ文化だが、その特徴の一つは匿名性が担保できるということが大きい。自分が表に出なくても、自分が歌わなくても、歌うための楽曲がなくても、ボカロがあれば歌や楽曲に自分の思いを投影して表現することができる。つまり、表現のハードルが非常に低いのだ。ボカロという道具を使うことで、彼らが普段内に秘めている「負の感情」も含めたありのままの自分を、音楽に乗せて表現できるようになったのだ。そして、インターネットのボカロコミュニティを通じて同じ価値観を持った人が繋がり、それが大きな渦となり社会現象を巻き起こすことになる。確かにこれは一つの新しい文化といえるもので、非常に興味深いことだ。
 では、これを教育文化に置き換えるとしたら、どういうことが言えるのだろう。

 ボカロ文化は、誰もが参加できるオープンな文化で、自由に自分の作品を作り公開できるのが特徴だ。これを教育の視点で見た時、子ども(学生)がより自由に自己表現し、自分のアイデアや考えを発信する場や機会があるということだ。しかし、今の教育現場では制限された枠組みの中で学習し、自由に表現できる場は少ないのが現状だろう。ボカロ文化のようなオープンなアプローチを取り入れることができれば、もっと子どもの創造性や独創性を引き出すことができるのではないだろうか。

 また、ボカロ文化は、コラボレーションや共同制作が盛んで、複数のクリエイターやアーティストが集まり、お互いのアイデアや技術を組み合わせて新しい作品を生み出している。教育の現場でも、協働学習やプロジェクトベースの学習を通じて、子どもたちがチームで協力し、共同制作を行う機会を提供することができれば、単なる知識の受け渡しに留まらず、チームワークや問題解決能力を養うことが可能だと思う。

 さらに、ボカロ文化ではフィードバックや批評が重要な要素となっている。作品を公開すると、良くも悪くも他の人々からの意見や評価を受けることになる。それはストレスでもあるが、大きな喜びであり学びでもある。教育の現場でも、子どもたちが自分の作品や考えを発表し、他者からのフィードバックや評価を受け取る機会があれば、それは自己成長や向上心を促すことにもつながるだろう。また一方で、他者の作品や意見に対して適切に批評する能力も重要で、これもボカロ文化が示す価値観のひとつだ。

 ボカロ文化が示すように、オープンなアプローチ、協働学習、フィードバックの重視などの要素を教育に取り入れることは、子どもたちにより充実した学びの環境を提供することになり、成長を促することに繋がるのではないだろうか。教育文化の中にも、こういった新しい風が吹き込むことを願いたい。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?