20代のわたしへ。無茶しやがって…ありがとな…
今日で20代が終わる。
20歳の誕生日をどう過ごしたか、あんまり覚えていない。大学のときの誕生日は誰かしらに祝ってもらっていた気がするので、友達といたのだとおもう(とここまで書いて思い出したわ。塾の同期とネカフェにいたわ。そんで0時に祝ってもらったわ)。
せっかくだから、20代の10年を振り返ってみる。20代の自分に言葉をかけるなら、タイトルの通り「無茶しやがって、ありがとな」だ。
20代の自分はもちろん意図していないが、これから生きる30代以降の自分のために道なき道をバキバキに突き進み、いけそうな経路を見つけてくれた感じがある。イメソン、初音ミクのローリンガールな。
というわけで、年齢ごとのトピックスを振り返ってみる。2015年、つまり23歳からは写真つきなので、お暇な方はお付き合いいただくとうれしい。
20歳:大学中退を決め、専門学校を受験。半年間フリーターに
大学2回生の夏、つまりハタチの夏に中退を決めた。吹っ切れた人ばかりの芸術大学で、捨てられないものだらけの自分はとても居心地が悪かった。辞めたのはそれが理由ではないが。自分の決心はいつもグラデーションなので、何がきっかけとかはあんまり覚えていない。
リペア演習という、楽器修理の授業があった。大学でいちばん楽しい授業だった。その授業の教授が、かつて行きたかった楽器修理の専門学校の立ち上げに関わっていた(朧げ)と知った。教授にその専門学校に行きたいと相談して、止められたけど、大学を辞めていくことにした。
こささんの未来に乾杯!
最後、そんなメールをいただいた気がする。20代前半のわたしは不徳の極みだった。メールを残したり、専門学校に入った後にご挨拶したりなど、何もしていない。教授はわたしが楽器修理をするリペアマンになったと報告する前に亡くなった。
こういう後悔がないように、いまはできるだけ人を祝ったり、謝ったり、お礼を言ったりはすぐにやるようにしている。
そしてこの冬、ガンバ大阪はJ2に落ちた。「勝者、ジュビロ〜↑磐田〜↓」のあのスタジアムDJの声、まだ耳から離れないな……でもあのときの倉田選手のゴール、めっちゃかっこよかったな……
21歳:全寮制の楽器修理修行。ゲームとアニメと仲間に助けられた日々
卒業した専門学校のことは「監獄」と呼んでいた。正確には監獄だったのは寝泊まりしていた寮のことだけど……。寝るとき以外の18時間、ずっとリペアのことを考える1年だった。ここでは本当に仲間に恵まれていた。みんな吹奏楽部の出だからか、キモイくらいリペアの練習に時間を捧げていた。
朝6時に起き朝食を食べ、
7時にバスに乗り、
8時から17時まで(時には昼食すら抜いて)学び 、
18時に帰寮した瞬間風呂に入り、
19時までには食事を済ませ、
そこから24時までの5時間はひたすらリペアの復習と練習だった。
一人ではないから(そこまで)思い詰めなかったし、挫折せずにやれた。
スペシャルサンクス:艦隊これくしょん、魔法少女まどか☆マギカ、ハイキュー、鬼灯の冷徹、ラブライブ!
オタクであること、オタク仲間がいること、勉強仲間がいることは人生を豊かにする。卒業試験の直前、うまくいかない修理の練習をしながらまどマギの「5〜9話マラソン」を見たこと、忘れないよ。
22歳:夢を叶えてワーキングプア!ブラック企業1本釣り!
なんか多分訴えればよかったんだけど、初任給7万、最長労働時間は16時間です。ガンバ大阪が3冠獲ってよかった。
23歳:恩師の電話一本でリペアマン人生継続決定
カフェでフリーターでもするか、と思っているなか、母校の監獄にお礼参りをすることに。お世話になった先生にことの顛末を話すと、先生が懇意にしてくれていた楽器屋さんにその場で電話しはじめた。するとちょうど、その月末でリペアマンが辞めるところだったそうだ。マジで人と運に恵まれてんだよな。
面接はすでに顔合わせ状態で、いつ来れるかと聞いてもらえた時は嬉しかった。老舗の楽器屋さんで、地元の学校の吹奏楽部のサポートをしていて、夏のコンクールは地区大会で修理ブースを受け持っている。
わたしの思い描いていたリペアマンのあり方を、ここなら実現できそうだ、と嬉しかったのを覚えている。中高生と駄弁りながら、彼女らの相棒を手入れさせてもらえる時間は何にも代え難い幸福な仕事だった。
推していたバンドも全盛期で、遠征楽しかったな。しかしライブハウスに通うようになって(責任転嫁)お酒の飲み方が最悪になり、よくいろんな失敗をしました。
24歳:純黒の悪夢とシン・ゴジラ公開
24歳、25歳はオタクコンテンツのおかげで命を繋いだといっても過言ではない。この年からはコナン映画を合わせてご紹介します。(は?)
あんまり思い出せないけど、毎日の仕事に意味を見いだせず、ひたすら趣味に走っていた気がする。思い出せないのは惰性で過ごしたからなのか、つらい思い出として処理しているからなのかは不明。
好きなバンドの好きなメンバーが脱退してかなり心がしんどかった。でも、ライブハウスの友達が何人かできて耐えられたと思う。なにかしんどいときってやっぱり誰かがいてくれてるよな、振り返ってみると……
25歳:一人暮らし開始、自暴自棄自己肯定感激低人間誕生
一人暮らし初めて即病んだんだな……。自己肯定感の低さが爆発して、煙草を吸い始めたり遊び始めたりした。よくなかったけど、生きることを面白くしようと行動し続けて偉かったよ(チョイス最悪だったけど)。
繰り返すけど、オタクでいることが自分を救ってくれた感ある。このとき公開のコナン映画は「から紅のラブレター」。自分のことを遠山和葉と錯覚できる映画、10回くらい見ました。純黒の悪夢より見ました。
祖母がなくなった歳でもある。スーパー元気ばあさんだった祖母が死んだとき「死って平等に訪れるんだ」と妙に納得した。この時から、後悔ないような人付き合いをしようと心かげているつもり。
このときチームitokoと呼んでいるわたしたち孫は、5人とも18歳を超えていて、葬式の時に誰も声を上げて泣かなかった。その静かな感じが(みんな大人になっちゃったんだな)と寂しかった。なんとなく。
はっきりとは覚えてないけど、この頃はうまくお金もやりくりできてなくて、仕事も納得できない部分があって、人間関係も終わってて、としんどいことだらけだった。マジで生き延びてくれてありがとうという気持ちがこの頃の自分にはある。
あと、友達や家族と過ごす写真がめちゃくちゃ多かったので、自分の安心できるところでたくさん甘やかしてもらったんだなと思った。
あと、オタクコンテンツとバンドな。存在してくれてありがとう。
26歳:家計簿アカウントを開始、交際を開始
はじめて書くかもだが、(そうでもないかもだが、)25歳ごろまでずっとリボ払いや分割払いで金銭やりくりしていた危ない人間だった。極度のお金ないって自己肯定感の低下に直結するよね。
そこでInstagramで家計簿アカウントを始めたのだが、それがいまのひそひそ旅暮らしアカウントです。遡ると家計簿アカウントの跡がちょっとあると思う。本当に初めてよかった。わたし、家計簿アカウントでさらすことで黒字化に成功しました。悩んでる人、さらけ出すのは効果的だよ。
クロスバイクを買って、12キロ走って通勤するとかしてた。ここらへんから力こそパワー思想が身につき、メンヘラを筋肉で追いやることを覚えつつあった。(本当にありがとう、おかげで今の命があります)
友達も結婚しはじめて、初めて結婚式にも出席させてもらったし、自分もパートナーができた頃だった(今は別れましたが)。あと、仕事を辞める決心をしたのもこの頃だったと思う。24〜26歳ごろまで感じていた絶望感は、好きだったはずのリペアマンの仕事をやめたい自分に対する絶望もあったのだと思う。
24歳から26歳の自分へ 決心してくれてありがとう
中学のときに憧れた職業なのに、大学をやめてまで行かせてもらった専門学校なのに、一生続けると思っていた技術の仕事なのに、という後悔ともつかないような思いと、呪いのような音楽への執着心。
そんなものよりもわたしは「のんびりすること」とか「自分らしく生きること」とかを選びたかった。でもそう思う自分がすごく嫌だった。
仕事で命をかけられる人間でいたかったのに、そうではなかった。音楽以外の仕事なんてありえないとおもっていたのに、音楽が嫌になった。というか、もしかしたら音楽なんて最初から好きじゃなかったのかもしれない。
この苦しみを飲み下すのに、3〜4年かかったのだと思う。
(でも今も思うよ。音楽や仕事に全部を捧げられる人間でいたかったなあ。)
でもちゃんと、心地いい方を選べて偉かったよ。ありがとう。
さて、春を過ぎたあたりからは「平成最後の」というフレーズが流行った年だった。
最高の夏にしようね、と書いてあるTシャツをユニホームに、平成最後の夏を楽しむ会をした。
ピザとスイカ食べながらサマーウォーズ視聴、水風船合戦、手持ち花火を敢行。毎年やろうねとか言ってたけど、翌年はメンバーの病欠、翌々年はコロナ禍で、結局一度きりだった。まあそれも青春ぽくていいよね。
公開されたコナン映画はゼロの執行人。たまらね〜〜〜。税金を納めるのが推しを養うことにつながった、記念すべき年です。
27歳:令和と同じ誕生日 資格取得にコケるも転職活動を始める
年明けすぐインフルエンザをキメた年。この年は令和を迎えるのと同時に歳をとった。2019年はゴールデンウィークでハブられる5月1日が祝日になった記念すべき年。あと、30メートルのバンジージャンプをして鞭打ちになった。
当時のキャリアプランとして、27歳で行政書士→28歳で社労士転職、社労士取得→29歳で労働基準監督署職員 みたいなのを思い描いていた。本気で不当な労働を憎んでいた。(不当な労働のこと、労働と言わんでほしいが)
高卒なので社労士を取れる資格を得るには行政書士の資格を得る必要があった。だから足がかりの行政書士を受けたのだが見事ミスった。人生で初めて落ちた試験だと思う。悔しかった。それならばと転職支援できる企業に転職しようと、転職活動を始めた。えらい〜。
あと、あんま関係ないけど筋トレとプロテインにめっちゃはまってて、自分史上いちばんエエ体でした。
当時のパートナーとふたもんちゃくくらいあって、めちゃくちゃ強くなってしまった。あと禁煙した。おめでとう。
この歳のコナンは紺青の拳でした。いやあ、前髪下ろした園子、かわいすぎましたね……
28歳:コロナ禍でベンチャー転職、GOTOトラベル無双
1/1は家族でユニバに行き、ユニバ近くホテルで一泊。実家に帰って高校当時のクラスの友達と部活の友達に会った。この後のコロナ禍を考えるとほんとに会っててよかったなと思った。
転職活動は、なんとかなった。転職活動を始めたとき、求人票を見て直感的に「ここで働けたらいいかもな」と思った会社で働けた。転職活動がトントン拍子にいったわけではなくて、たまたま登録したビジネス系SNSでスカウトがきたのだ。縁があるときはあるし、なんか動いてたもん勝ちなんだなと思う。あと、見つけてくれてありがとうございましたの気持ち。
新しい会社に入るまでの10日間でスリランカに行く予定だったのがコロナで渡航禁止に。見かねた母が長野の山に連れて行ってくれた。母との旅行が半年に一度くらいのイベントになったのはこの頃から。
夏には会社の経営不振で休職。初めて副業を始めた。カイシャに全てを頼りたくないとか、カイシャから抜け出してみたいとかを思い始めていた。
秋のGOTOトラベルはかなりお世話になった。ホテルワーケーション、母と旅館、当時のパートナーと金沢と京都、妹と宝塚ホテル、一人旅館……と、挙げるわりと行っている。
27〜28歳の自分へ 自分を好きでいられる人に囲まれていてくれてありがとう
27〜28歳のここらへんから自尊心の回復が始まった。自信家になったわけではないけど、興味のある方に踏み込んだり、挑戦できたりした。働いていた会社が前向きで褒めてくれる人が多かったのと、わたしを存在から全肯定してくれたパートナーがいたからだと思う。直近の3年は、めちゃくちゃ自分が変化していった年な気がする。
サウナにハマったし、家もきれいになった。貯金も生まれてはじめて3桁貯められた(29歳でほぼ使いますが)。いろんな達成感とか、新しい興味とか、「息を吹き返した感」があった。
コナンの映画は緋色の弾丸。オリンピックやるはずの年に公開する映画として攻めすぎだろ。ありがとうございました。
無職をバチ決めた29歳
29歳、情報量多いので箇条書きでいかせていただきます。
かつて通ってた幼稚園の隣の団地に引越し
会社大ピンチだが残ることを決意
人生初マネジメントで部活のトラウマを越える
指定難病確定、めっちゃ入院
退職を決める
家の解約を決める
住所不定無職(半年)
扁桃腺を取る
地元にUターン
フルリモートの会社に拾っていただく
4年付き合ったパートナーと別れる
1年で何もかもが変わった。生まれ変わった感がある、もはや。
公開したコナン映画はハロウィンの花嫁。
見て。
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