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「僕のみぞ知る。絶景を求めて。」

こんばんは。


僕は、昨日北九州にある平尾台という山へ行き、トレーニングがてら登ってきました。それはそれは、きつかったです。笑
正直、平尾台なめていました。きつさもなめていましたし、何よりも景色が半端なく綺麗でした。北九州市民の皆様、なめてすみませんでした。笑
登ったことないという人は登った方がいいですね。この機会にでも行ってみてはいかがでしょうか。


今日は、感じたことをそのままアウトプットしていきたいです。なんかこの記事はいつもと違ってフィーリングに任せたので、ありのままの自分が見せられるかなと思います。笑
今日もよろしくお願いします。いや、今日は特によろしくお願いします。笑



「人生とは山登り」「人生山あり谷あり」


という言葉、よく例えとして使われますよね。
まぁなんとなく分かるけども本質的には分かっていない人が多いのではないでしょうか。僕もその一人でした。


僕が考えていた言葉の意味は、登る前に準備がいるだとか、頂上を人生のゴールと置き換えて、足場の悪い道を地道に上る(毎日コツコツ頑張る)的な感じかなと思っていました。でもそれは、確かに正解ではあったのですが、もっと奥深くもっと感慨深い意味が込められていたんだと感じました。



昨日の僕の出来事をお教えします。
まず、動き出したのは15時頃、勉強を終え、トレーニングでもしようとなりました。僕の性格上、どうせならきつくてやりがいのあるものにしようと考えるので適当に平尾台でも行こうと突発的に決めました。


もちろん、家から走って行ったわけではなく、山登りはここからですよというポイントまで車で行ってから登り始めました。


そこから、まず僕は、そのポイントから一番高く見えるてっぺんをゴールにして登り始めました。平尾台というのは、いきなり急斜面がやってきます。そこを一歩一歩、30分かけて登っていくと


「あれ笑、待てよ!全然てっぺんじゃないやんか笑」



急斜面すぎて、さっきのポイントから見えていたのはただの通過点に過ぎませんでした。それぐらい急斜面だということです。僕は、井の中の蛙でした。しかし、そこまで登ったおかげで本当のてっぺんが見えたのです。登らなければ気づかなかったでしょう。

僕はその新たなてっぺんに向けさらに登り続けます。


登り続けると、さっきまで目立たなかった平尾台名物の白いごつごつとした石灰岩がたくさん僕の目の前に現れました。その石灰岩は、まるで僕がてっぺんに行くのを遮るかのように存在しているように感じました。

しかし、ここで助けてくれたのは道しるべです。人が歩いてできた道しるべは、その石灰岩たちをうまくよけながらてっぺんへと導いてくれていました。


そうこうするうちに、通過点から新たに見えたてっぺんに1時間ぐらいかけてやっと到着しました。
今考えても、そこの景色は本当に最高でした。夕日と山が上手くマッチングして、一本映画ができあがりそうなそんな気持ちさえしました。

夕日を見ながら感傷的な気分になっていると…
実はこのてっぺんはまったくもって、てっぺんではありませんでした。
そうです。また新たなてっぺんが見えてきたのです。おまけにさっきの倍かかりそうな道のりがどんどんと見えてきました。
時間も時間だったので、僕は、引き返すことに決めました。




まぁざっとこんな感じです。
僕が、この出来事から学べたこと感じたことはこうです。



まず、「車でスタート地点まで行った」こと。これは、まさに生まれてから親に育てられ自立し始める前の段階だなと思いました。まず、親がいてくれたからこそスタート地点に立てるのです。自立することができるのです。これをすごく感じました。 


次に、人生という名の急斜面の山を登り始めますが、ここで起こった「てっぺんがてっぺんではなかった」こと。これはまさに、目標を達成したが新たな目標がみえた、できた。ということです。これは、登った人ではないと分かりません。その立場になった人でないと分かりません。


自分から見て、人生の成功までたどり着いていると思っている人でもさらにモチベーションを高くもって頑張っている人なんてたくさんいます。それは、見えている景色が全く違うからでしょう。




次に、僕のことを邪魔してくる石灰岩が現れます。話の中ではあえて、邪魔に見えるように描きましたが、実は石灰岩の中には、踏み台となって助けてくれたモノもたくさんありました。

つまり、それらは、人生における「人」であるといえそうです。

人のなかには、自分の邪魔となってしまう人がいたり、助けてくれる人がいたりさまざまな人がいます。ただ、見方によっては、邪魔してくれる岩=自分のトレーニングにつながると、とらえられたりもできますね。とらえ方は人それぞれです。あなたの意見も聞かせていただきたい。 



そして、ラストです。
これが僕が一番感じたことです。もしかしたら実際に登ってみても感じない人もいるかもしれません。
それは、


「結局、誰かが通ってできた道しるべを、通ってきた」



ということです。

結局僕らは、敷かれたレールに沿って人生を歩いてきたものです。
小中高大と親が死ぬ気で稼いだお金を僕らは使って、安定的かつ安全な道、たくさんの人が通ってきた道を通ってきたわけです。そりゃあ楽ですよ。
その道に沿っていけば少々きつくても頂上には着くのですから。


ただそこに広がっている景色は誰もが見ることのできる景色です。

さぁ、これからの人生をどうするかはすべて自分次第です。
道しるべ通りにそのまま、また新たなてっぺんに向かって歩くのか、それとも新たな道を開拓しててっぺんを目指すのか。はたまた、全く違う新たな山に登り直すのか。考え方は人それぞれです。

たぶんどの選択でも、
そこから見える景色は綺麗でしょう。


ただ僕ならどうするか。
「僕の性格上、どうせならきつくてやりがいのあるものにしよう。」と考えるので、どうせなら誰もが通ったことのない、登ったことのない山に登ろうと考えました。でも、もしかしたら一人二人は通ったことがあるかもしれない、もしかしたら有名な山につながってる可能性だってあります。でもそれが分かったら何度でも下山して、また新たな山にチャレンジします。




「僕のみぞ知る。絶景を求めて。」









ぜひ、コメントお待ちしています。
あなたの、人生の山登りの考え方を教えてください。
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それでは。











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