かつて、アメリカ人だった私を。
子どもの頃、私はアメリカ人になりたかった。
私の思うアメリカは、『スタンド・バイ・ミー』であり『グーニーズ』であり『イット』であった。
そこで描かれる50年代から80年代にかけての、片田舎。
ニューヨークやロサンゼルスみたいにギラギラしていないところ。
私はそこで赤い自転車に乗り、近所の子どもたちと一緒に街路樹の下を走り抜けるのだ。
道の両側の家々からは、コーヒーとパンケーキ、それからフライドチキンの匂いが漂ってくる。
ブラウン管のちかちかする光が、カーテンを通して揺らめく。
おじいさんが新聞をめくる音がする。
通りの終わりの角の家を通り過ぎるとき、少し緊張する。
そこには偏屈な子ども嫌いのおじさんが住んでいて、私たちが自転車のベルを鳴らそうものなら、銃を片手に顔を真っ赤にして追いかけてくるから。
テレビで洋画を観たあとは、しばらくそうした妄想に耽ったものだ。
当時『金曜ロードショー』はほとんど洋画で、そのため私は毎週末、アメリカ人だった。子どもだった私には外国=アメリカなのだった。
そういう遊びを続けていたせいで、実際の子どもの頃の記憶と同じくらい、私にはアメリカ人だった(ごっこ遊びだけど)記憶が鮮明にある。
街路樹の下の木漏れ日がどんな色だったか覚えているし、アメ車の排気ガスの匂いも覚えてる。夕方には蜂蜜色に輝く煉瓦で覆われた、私の家の壁の手ざわりすらも。
そんなわけで、私はアメリカ文学が好きなのである。
それも、すこし昔の作品が。
リチャード・ブローティガン『芝生の復讐』(藤本和子訳 新潮文庫)は、かつてアメリカ人だった私の、記憶の断片がいっぱい詰まっていた。あの頃の私のスナップ写真のような作品だった。
250頁たらずの文庫本に、62編の物語。
1頁でおしまい、という作品もある。
そこにあるのは、ブローティガンがみたまんまのアメリカの姿。
詩人でもある彼が、アメリカ人として生まれ、育ち、そして感じたアメリカの姿がある。
心に引っかかったものを、さっと言葉で掬い取った。
そんな感じの短編集だ。
密造酒を作る祖母、庭の芝生、古いタイプライター、子どものころ聴いたラジオ、やぶいちごの木、バス停・・・。
当たり前になりすぎて、ほとんどの人の目には留まりそうもないものたち。
でも、そういうものこそ、過去になったとき思い出しては切なくなるのだ。
『芝生の復讐』を読んでいると、かつてアメリカ人だった私を、今ふたたび生きなおしているかのような錯覚におちいる。
あの頃の私の記憶が、ブローティガンの言葉によって緻密に、精細さをもって蘇るのだ。
モノクロ写真にひとつひとつ色をのせていくかのように。
もしかしたら、私はかつてブローティガンだったのかもしれない。
そんなふうに思ってしまうほど、『芝生の復讐』は、かつてアメリカ人だったころの私の、アメリカへの郷愁に似た憧れそのものだった。
最後までお付き合いいただきありがとうございます。 新しい本との出会いのきっかけになれればいいな。