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「生活の周辺をめぐって」―大野盛雄『フィールドワークの思想』(3)

大野盛雄『フィールドワークの思想』を少しずつ読んでいっていますが、今回は第5章「砂漠の農村に暮らして」第2節「彼らの言葉を話す」の第3項「生活の周辺をめぐって」(pp. 156-169)を見てみます。

ここでは、農村調査に車を持ち込むこと、農民の家に靴を脱いで上がり込むかどうかなどを例にして、農民のあいだにあって調査者の生活の態度がつねに問われつづけなければならないことが考察されています。そして調査者がおかれる立場は、日本の農村における場合と、西アジアの農村における場合で大きく異なっています。

農民の家に入るときに、西アジアでは靴を脱いで上がるかどうかという問題が調査者に現れます。

デヘを訪ねるときには、まずキャドコダーのもとに訪ねることにしている。キャドコダーは農村の住民であり、農地改革にはマーレキの手代であり、また政府の行政支配の末端の役割を果させられるという立場にいたわけで、キャドコダーに会わないでデヘに入るということは、農村にいわばもぐりで入ることになるからである。キャドコダーの家のじゅうたんを敷いた部屋に通される。権力のあるものは靴を脱がないであがりこむ。しかし彼らと同等の地位、経済力にあるものは靴を脱いであがるのが普通である。……キャドコダーの3つの立場のうち政府とマーレキの方向から農村を訪ねてきた場合にはまず靴を脱がない。政府の役人、軍人や大学の教師、それにマーレキとその家族、その支配人が脱いだのを私は見たことがない。階級の低い兵隊でもそうである。
そこで私たちはどうするかということになる。……私たちが農家に通されるときには、土足のままでどうぞと農民からかならずいわれる。私たちを案内した役人は農民の前で、農民がいう以前に私たちに土足のままでよいとすすめ、自分はもちろん脱ごうとしない。……靴を脱ぐかどうかということは、地位が高いかどうかということにかかっている。……農民たちはここで土足のまま私たちがあがったとしても、日本の農民が考えるような抵抗感をもたないし、むしろ政府の立場から訪ねてきたのだから当然のことで、下手をすると靴を脱ぐようでは尊敬に値しないと考えてしまうかもしれない。……そもそも役人や軍人と同じように異質の人間なのだから、それらしく振舞ったらどうかというような反応さえ感じとれるくらいである。

かなり日本人の感覚とは異なると思います。続いて、調査に車を持ち込んだ際の筆者のエピソードです。

調査するものとされるものとは所詮違う立場に立っているわけで、同じ立場に立てとはいわない。農村に調査にやってくるものは役人なら役人らしく、都会人なら都会人らしくあってほしい。権力なり財力のある立場らしく、農民の生活を援助してくれないか、あるいはいますぐそこで金品を与えてくれないか、という態度をとる。
……一たび車をもちこんだとしよう。農民たちはこの車をいかにして自分たちのために利用するかということを考え、積極的に要求してくる。……毎日のようにジープを貸してくれという要求にぶつかって、……車を貸し、その結果その車が壊されるという結果になり、農民に対して不信感をもつべきかどうか、当惑した経験がある。……農民はきわめて率直に、私に何か与えてくれといっただけだったらしい。私が与えなければならないということではなく、与えるだけの余裕があるはずだということにすぎなかったらしい。ことわればそれだけのことだったようである。

西アジアの世界では、それぞれの人が自分の立場を踏まえた行動をとらないといけないし、そして自分の立場に応じた要求が周囲から当然のようになされることを理解しなければならないのだと思います。

日本人としては現地の人と同じように過ごし、友人として一緒に仕事をしたいと思ってしまいますが、そうした考えはこの世界では理解されず、実現不可能なんですね。

私も今、西アジア世界の辺境にいますから、自分が現地の社会のなかで「異質の人間」であることを認め「異質の人間」らしいふるまいをしながら、その中で自分が達成したいことを目指していくしかないようです。つまりいつまでたっても現地の人とは仲間や友達にはなれず、孤独に耐えながら過ごさないといけないということですね。つらいですが、現地社会の考えに沿いながら暮らしていこう、仕事していこうとするならば、そうするしかないのだと思います。

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