【ぶんぶくちゃいな・全文無料公開】武漢新型コロナ患者・その後:社会復帰を阻む差別

先月ご紹介した、謝海涛さんによる新型コロナウイルス肺炎の後遺症についての記事は、多くの方々に読んでいただくことができました。武漢に残って取材を続ける謝さんから続編が届きました。新型コロナから回復したはずの人たちを巡る差別の問題です。苦しく、また体力的にも辛い治療を経てやっと治癒したはずなのに、親しかった周囲の態度の激変にショックを受ける元患者たちの姿。今回も謝さんの許可を経て、そのルポルタージュを再び全文無料公開します。※文中の()は原文注、[]は訳者注。

張慧(仮名)の左腕ひじの静脈がみえるところにはたくさんの針の痕がある。血清抗体検査の痕だ。

今年52歳になる張慧は武漢市キョウ口区(「キョウ」は「石」偏に「喬」)で暮らす。1月25日に新型コロナウイルスの症状が現れたがすぐには入院できず、自宅で薬を飲み続けて熱が下がってから地区住民委員会が病院に送ってくれた。退院は2月20日だった。

張慧の針の痕は社会復帰の難しさの記録でもある。リハビリ中に張慧は嗅覚を失い、身体の発汗、腹の膨れ、睡眠困難に悩まされたが、こうした生理的な症状よりもさらに彼女を打ちのめしたのは、社会の差別だった。まず隣人、友人たちに見捨てられ、職場に「シンプルで粗暴」な扱いを受け、なんども病院での血清抗体検査に通い、7月初めにやっと職場に復帰した。わずか数カ月でほがらかでしっかりとした仕事ぶりだった彼女は、「深く悶々とする人」に変わり果てた。

張慧が受けた扱いは決して特別ではない。新型コロナウイルスの感染が拡大して以来、社会は新型コロナウイルス罹患者と聞くと慌てふためき、回復して退院したにも関わらず、周囲の人にまるで猛獣のように扱われ、家族にすら嫌がらせを受けている。

新型コロナからの回復は「九死に一生」という言葉がピッタリの、大変な過程だ。物理的な体の痛み、隔離、そして治療期間中の不安な思い、その後も続く後遺症に苛まれる。そこに向けられた社会の不安や差別は彼らをさらに追い込み、孤立させてしまう。その理由を細かく突きつめると、現代医学において新型コロナ肺炎はまだ認知と模索の真っ最中で、一般庶民には知識がなく、恐れと誤解を引き起こしやすく、そうした不安の中で人間の悪い面が呼び起こされ、差別が蔓延している。

ネットで言われるように、生理的な後遺症とは違い、新型コロナウイルス回復者が受ける差別は社会ウイルスのようなもので、社会的トラウマを生む。元患者たちは長期に渡って心に大きな傷を抱え続けることになる。こうした問題の解決には、政府、医療機関、社会の協力が必要だ。

国家衛生健康委員会(以下、国家衛健委)が公布した「新型コロナ肺炎診療プラン(試行第7版)」では、新型肺炎についての一般的な科学知識の普及を行い、一般市民に正確に新型コロナ肺炎の特徴を理解させ、新型コロナ肺炎回復者と家族に対する差別や排斥を減らし、回復者の職場復帰の権利を保障するとしている。

国家衛健委の新型コロナ肺炎医療救急グループの専門家である童朝暉・北京朝陽医院副院長は北京市の記者会見で、回復後の新型コロナ元患者には感染力はなく、その家族、友人、同僚、隣人が差別したり、怖れる必要はないと述べている。

罹患した一人ひとりには罪はないはずだ。だが、差別はもう一つのウイルスのように、姿かたちもなく人を傷つけ、社会を不安にさせる。一般庶民の我われは新型コロナ肺炎を警戒し続けながらも、思いやりをもって新型コロナから回復した人たちに向き合う必要がある。彼らは歩くウイルスではない。サバイバーなのだから。

●団地を「好き勝手に」歩き回れない

春節初日に発熱した張慧は、最も高いときで熱が40度を超え、ぼうっとなった。解熱剤を飲んでも数時間後にはまた発熱した。

1月27日に友人の医師の助けにより、アルビドール、オセルタミビル、モキシフロキサシン塩酸塩[*1]の服用を始め、38度以上になったにはさらにイブプロフェン[*2]を飲んで熱を下げ、大量に水を飲み、1日三食夫がチキンスープを呑ませてくれ、ひたすら寝続け、目が醒めるとまた薬を飲んだ。2月16日になって体温が下がった。2月18日に住民委員会に病院に送り込まれ、入院時に新型コロナ肺炎と診断された。しかし、肺炎はほぼすべて吸収されており、2度目のPCR検査を受けて陰性となったので、2月20日に退院した。

[*1]アルビドール、オセルタミビル、モキシフロキサシン塩酸塩:アルビドールは抗インフルエンザ薬、オセルタミビルもインフルエンザ予防薬で、モキシフロキサシン塩酸塩は気管支炎や喉頭炎などの治療薬。
[*2]イブプロフェン:関節炎や外傷鎮痛剤。

退院後、張慧は楽観的に自分はもう回復したんだ、と社会に感謝までした。熱でうなされていた時、多くの友人が「微信 WeChat」(以下、WeChat)や「微博 Weibo」(以下、ウェイボ)上で励ましてくれたことにも感動し、社会のためになにかして返さなきゃとまで思っていた。

3月に入り、団地で食品の共同購入が始まった。共同購入対象になった野菜や食品の種類は豊富で、ブタ肉、鶏肉、白菜、ザリガニ、熱乾麺[*3]、干し豆腐、さらには北京ダック、餃子やドのバオズとさまざまだった。張慧は配送ボランティアに応募して団地のお手伝いをしたいと考えた。

[*3]熱乾麺:地元武漢市独特の麺で、小麦の麺にネギやザーサイ、ゴマペーストなどを混ぜて食べる。主に朝食や屋台で食べられる。

ある日、団地で干し豆腐の共同購入が行われたときのこと。感染の拡大で、誰もが外に出てきたがらない。張慧は団地のWeChatグループで「うちの棟の購入分はわたしが届けましょう。みなさん、わざわざ外に出てこなくていいわ」と言った。住民たちの多くは感謝してくれたが、彼女の隣人だけが「家にいなさい。出てこないで」と彼女が豆腐を取りに行くのを諌めた。

張慧はそのとき、なにも気付いていなかった。自分が罹患したことがあることすら忘れてしまっていた。そして彼女は隣人に言った、「大丈夫、もう取りに下りたから」と。

干し豆腐もたくさんになると、運ぶのは大変だ。張慧は発泡スチロールの箱を人から借りて、そこに入れた袋詰の豆腐を1軒1軒配って回った。その日は30袋あまりを12軒に配って歩いた。

隣家のドアを叩くと、隣人は出て来ずに「ドアのところに置いて」と言った。そのとき、張慧は突然気がついたのだ。隣人は団地の住民委員会のメンバーで、団地内で5人が発症したのを彼が知っていることに。

隣人の冷水を浴びせるような対応が張慧を苦しめた。そして、二度となにかをやろうという熱意が起こらなくなった。「当初はとてもウキウキしていたのに、隣人から最初の一発を食らったことにものすごいショックを受けたの」。その後、彼女は自宅にこもりきりになり、団地の中を「むやみに」歩き回る気も失せてしまった。

●人々はなにを怖れているのか?

張慧が隣人に疎まれた3月初め、武漢市の新型コロナ肺炎の新確定患者数は1日の193症例から10日には13症例へと減少した。新型コロナ事情が次第に落ち着き始めた頃で、張慧はなぜ隣人がそれほどまでに自分を怖れるのか理解できなかった。

1月の大感染以降、新型コロナ肺炎はその強い感染力で武漢ないしは全国に恐慌を引き起こした。多くの人たちが新型コロナ罹患者をウイルスと同じようにみなし、びくびくしながら遠ざけようとした。新型コロナ罹患者はそれを、「病気じゃなかったときの友だちは、病気後にはすべていなくなった」と言う。湖北省以外の地域では、身分証番号が「42」で始まる人[*4]、「鄂」(湖北省)のプレートをつけた車はすべて嫌われた。

[*4]身分証番号が「42」で始まる人:中国人一人ひとりが持っている(はずの)身分証明書は18桁の番号がついており、最初の6桁は登録住所を意味し、その次に続く8桁に西暦の誕生日が含まれる。「42」で始まる身分証明書はイコール武漢居住であることを意味している。

荊州出身の趙東(仮名)は武漢市華南海鮮市場で働いていたが、海鮮市場が閉鎖された1月1日から身体中に痛みを感じるようになり、その後胸焼け、発熱が続き、前後して2つのクリニックで注射を受けたが好転しなかった。1月7日に実家に戻って病院で診察を受けて、新型コロナ肺炎と診断された。診断が下りた途端、彼に付き添ってきた家族2人は姿を消し、医者がどんなに探しても見つからなかった。

3月から、大量に新型コロナ罹患者が退院を始めたが、「無症状感染」と「再陽性」の問題が出現するとさらに人々の間で恐慌が起こり、一時はさまざまな噂が飛び交った。

それらの噂は、ときにアメリカでクリニックを開いているコロンビア大学の博士や医師の討論の形を借りたものがあった。そこでは、「新型コロナウイルスの特徴はB型肝炎と同じで、抗体を持っている人や持っていない人がいる。抗体を持っている人は発熱や咳だけで済み、抗体がなくても免疫力がある人は無症状で、抗体がなくて免疫力のない人が発症する」とか、「抗体がなくて感染すると一生薬を飲み続けなければならない」などという。

あるいは同済医院の医師、あるいは協和医院[*5]の院長、ヨーロッパのウイルス専門家といった人の口調で、「新型コロナウイルスを徹底的に消し去ることはできず、それは永遠に人体に寄生する」「現時点で最も効果的な薬もウイルスを抑制するだけのもので、患者自身は抗体が出来たおかげで表面的には『健康』だが、一般人が接触するといつでも感染してしまう!」などというものもあった。

[*5]同済医院、協和医院:どちらも武漢の大型病院で、新型コロナウイルス感染者を全面的に受け入れて治療にあたった。

こうした噂が多くの人たちに、「もし周囲の友人や同僚がこの病気になったら、今後2年間は絶対に接触しちゃダメだ。食事したり、仕事したり、話したり、麻雀なんかもダメ」という警告になり、さらには「今後2年間は罹患者に触れちゃダメ」と簡素化され、それがチャットのスクリーンショットを貼り付ける形でWeChatやウェイボ上でばらまかれた。

こうした噂に対して、医学界やメディアは次々と反論を行ってきた。

ネットニュース「澎湃新聞」は、「一旦感染したら、ウイルスは長きにわたって患者に付随する」という噂に対し、3月19日に鍾南山[*6]と同氏の伝記『鍾南山伝』の筆者との対談という形で「現時点では新型コロナウイルスが慢性的に長期的に残り続けるという証拠はなにもない」と伝えている。

[*6]鍾南山:慢性肺炎や呼吸器系の病気を専門とする医師。2003年に起きたSARSで権威的発言者となり、今回の新型コロナウイルスでも中国政府が組織した専門家グループの座長を務めた。

3月29日には澎湃新聞は「一般外科の曾先生」による記事を掲載し、「新型コロナウイルスがエイズやB型肝炎とは違い、体内に長期にわたって潜伏する可能性は非常に小さい」とする理論的な分析を伝えている。

記事では、「B型肝炎ウイルス(HBV)はDNAウイルスであり、ヒトの細胞がそれに感染すると細胞核に入り、ヒトのDNAに組み込まれたり、細胞核内で超らせん型の共有結合型の閉じた環状DNAを形成する」「エイズウイルスは逆転写RNAウイルスであり、ヒトの細胞が感染すると、RNAを逆転写してDNAにしてから細胞核に入り込み、ヒトのDNAに組み込まれる」とし、「この2つのウイルスは長期的に人体にとどまり、根治が難しい」と述べている。

一方で、「新型コロナウイルスはプラス鎖RNAウイルスで、ヒトの細胞に入ると細胞質の中でメッセンジャーRNA(mRNA)を合成する。その後タンパク質を合成し、それが組み合わさって新たなウイルスとなる。そして細胞から解放されて次の細胞に感染する。新型コロナウイルスはB型肺炎やエイズウイルスとは違い、細胞核には侵入せず、DNAに組み込まれることはなく、長期にわたって人体にとどまることは考えられない」としている。

新型コロナ罹患者の感染力については、経済誌「財経」は、4月初めに学術誌「ネイチャー」のオンラインサイトが「新型コロナウイルス肺炎入院患者のウイルス学評価」という論文を掲載している。これによると、ドイツの科学者クリスチャン・ドロステン氏を中心とするチームが「新型コロナ肺炎の症状が現れてから8日後には、もう生きたウイルスを分離することができない」とする研究結果を発表している。

また経済メディア「第一財経」は5月26日にシンガポール医学科学院国立感染症センター(NCID)と感染症医師分会による共同発表として、73歳の罹患者の研究データを引用して、患者が発症してから11日後にはウイルスの分離、あるいは培養が出来なかったことを明らかにしている。RNAウイルスは体内に残っている可能性はあるものの、RNAから検出されたウイルスには活力は見られず、こうした患者には感染力はないとしている。

張慧は当時を振り返り、毎日のように飛び交う噂の内容はさまざまだったという。「隣人や友人のほとんどが何の病気かわからないし、こうした噂の影響を受けて不安になったのだ。今なら彼らの気持ちもちょっとは理解できるけど」。

●団地の「有名人」になってしまった

3月初めに張慧が隣人に避けられていた時、王穎(仮名)はホテルで隔離生活を送っていた。

王穎は湖北省孝感出身で、武漢市の大学に通っている。孝感は湖北省で武漢市に次いで最も感染が深刻となった地方都市で、3月14日に都市封鎖が解かれた時、市内の罹患確定者は3518症例と報告されている。

王穎は春節1日目の1月25日夜に発熱した。1月27日にはPCR検査で陽性が分かって入院することになった時、父が「病気になったと口外するな」と言った。王穎はそのとき、父は考えすぎだ、全国が一致団結しているときに患者を差別するわけないでしょ、と思った。病院では患者も医者もとても親切で、友人や同級生もとても気にかけてくれ、なにも恐れることはないと感じていた。

その彼女が差別をうっすらと感じたのは、3月7日のことだった。

この日、彼女は病院を出てホテルで隔離生活を始めた。入院患者の多くはすでに帰宅していたが、元患者同士のグループチャットで自分が団地の「有名人」になっていたと不満の声が上がっていた。

ある人は団地が自分を病院に連れて行くときに団地の放送でサイレンを鳴らしたために、「すっかりわたしも有名人よ。宅配業者ですらわたしのことを知っている」と言った。また別の人のところには、自分が暮らしている団地の隣団地の党書記がわざわざ電話で状況を尋ねてきたそうだ。

またある人は、「昨日やっと団地入口の隔離ブロックが取り壊された」と言った。それまでは隔離ブロックの周りは隔離地区になっており、隔離地区の周囲には宣伝ビラがびっしりと張られ、その宣伝ビラに自分の名前が1枚1枚書かれていたのを見たという。

また、ある人は隣人が自分のことを無視する、昔は兄弟のように仲良くしていたのに、と漏らした。退院後の自宅での隔離生活中に、ベランダから隣人にあいさつしたら、ベランダにいた隣人がさっさと部屋に戻ってドアを閉めてしまい、階下を散歩していた人も慌てて自宅に戻って行った。

王穎はそれぞれの書き込みに不満を述べて、グループで「もし差別を受けたら、その人たちを訴えるべきよ。でなければそんな間違いがずっと続くわ」と発言した。彼女はそのとき、新型コロナ回復者を差別するのはほんの少数だけだ、と思っていた。

武漢市江漢区に住む馬明(仮名)も、隔離中におかしな目に遭った。42歳の馬明は1月28日に悪寒が始まった。2月6日に新型コロナ肺炎と診断され、7日に入院した。馬家の老人が、彼が入院していた3月中旬に遠戚が毎日のように電話してきて、病状を気遣ってくれていたよと教えてくれた。その後、馬明が帰宅すると親戚たちがホームパーティに彼を呼んでくれた。だがその電話で、相手がなにかを怖れているようなのに気がついた。そして同時に縁戚が電話をしてきたのも、実は彼の状況を聞き出すためだったのだと悟った。落ち込んだ馬明は結局、パーティには出席しなかった。

●終わらぬ噂との闘い

3月中旬、ホテルでの隔離第12日目に王穎は再陽性となり、再び入院した。再陽性となったことに王穎は大きなショックを受け、自分に対する差別が近づいていることを感じ取った。

3月末、いとこがWeChatでお母さんと一緒に作ったお菓子を、大喜びで友だちのところに持っていったと言った。彼女の母親も新型コロナからの回復者だ。すると、その友だちは家族に、いとことの往来、また自宅に届けてくれたものを食べるのもダメだと言われたと告げた。いとこはとても傷つき、母親にも告げられないと言った。母さんはマスクをつけたまま一生懸命お菓子を作ってくれたのに。

また親友も怒りながら、自分の親戚が王穎との接触をやめろ、あんたが感染するとわたしにも伝染るかもしれないからと言ってきたと告げてきた。親友はこの親戚を怒鳴り上げたそうだ。

王穎は悲しかった。ウェイボで確定患者には厳しい隔離政策が採られていて、再陽性もその隔離中に検査でわかったことであり、その間一切外部とは接触していないと伝えた。PCR検査の正確度は高くないものの、国が長期的に追跡し、完治して帰宅した後も自宅での隔離を行うことになっている。お願いだから、回復患者に親切にしてあげてちょうだい、回復するまでとても大変な思いをしているのになぜまた彼らに石を投げるの?

考えれば考えるほど、彼女は傷ついた。「病気になった人がなにをしたというの? マスクをしていつものように地下鉄に乗っただけ、あるいはいつものように友だちと食事をしただけなのに。悪いクジを引いてしまっただけなのよ」

3月末になっても新型コロナ肺炎の噂はまだ消えていなかった。王穎はこの頃から噂が突然増えたと感じている。あちこちで、「新型コロナ患者には深刻な後遺症があり、2年以内はまだ感染力がある」と語られていた。WeChat内で発表される記事でもそうした内容を論じているものがあった。

新型コロナ患者の再陽性問題について、伝聞記事には「病人に抗体ができておらず、ウイルスが治療に入ってから一時的な休眠期間に入っているだけ。一旦退院してウイルス抑制治療をストップすると、ウイルスがぶり返し、薬への耐性もあるからもう薬も役に立たない」などと書かれていた。

四方八方からの噂話に囲まれて、元患者たちのチャットグループはひどくショックを受けていた。王穎の記憶では、ほとんどの元患者は怒りを感じ、また一部は自分が本当に完治したのかどうかを疑っていた。

王穎はこうした噂こそ元患者たちが差別される原因だと悟った。彼女と元患者たちにできることは、それを否定するウェイボの書き込みをシェアすること、そしてWeChat上でそうした記事を撒き散らすアカウントを協力し合ってクレーム報告することだった。「なんど報告したことか。役に立ったのかどうかはわからないけど」

このとき、王穎はメディア上でもきちんとした再陽性についての報道が行われ、そこで医学の専門家が噂に反論していることに気がついた。

4月2日、上海華山医院感染症科の張文宏・主任は海外の華僑、華人、留学生たちとのオンライン講座の席上で、「再陽性出現の裏には複雑な科学のメカニズムがあるものの、再陽性それ自体には明らかな臨床的意義はなく、感染症学史でも大規模な流行を引き起こしたという記録はない」と述べた。さらに、「目下、[再陽性患者から]人への感染例は見つかっていない。というのもそのウイルスは『死んだ』状態で、新たに培養しても培養できないのだから」と語った。

澎湃新聞が3月29日に掲載した「一般外科の曾医師」による記事では、再陽性となった患者は「偽陰性」の可能性があり、再発したのではなく、また再感染したものでもないと述べている。これらの患者の下気道あるいは肺の中にまだ少量のウイルスが残っていて、完全に排除されていなかったせいだろうという。退院時には一般に上気道、鼻咽頭部のPCR検査を行うが、その結果陰性となっても、肺にウイルスが少し残っていて患者が咳き込んだりすれば、肺の病変やその切れ端が外に排出されることがあり、このときに検査をすると陽性が出る可能性があるとしている。

4月初め、国務院の新冠肺炎疫病予防制御工作指導グループの専門家であり、中日友好医院呼吸重篤症学科一部の林江涛・主任が「財経」のインタビューを受けて、「再陽性」は以下の3つに分けられると述べた。まず、患者退院時には陰性となったが、これは偽陰で実際は陽性だった。二番目に、医師の臨床判断が間違っており、患者は治癒していなかった。PCR検査は「遺伝子断片」を検査するもので、検査できるのはウイルスの「断片」でしかない。臨床症状が消えた状態でウイルスが一掃、あるいは死滅した時に残る「断片」は必ずしも生きたウイルスの存在を示すものではなく、ウイルスの「死骸」と残兵がまだ残っているためにPCR検査が陽性を示した可能性がある。しかし、このケースは怯える必要はない。

そして、3つ目の状況は、患者が治癒後一定期間に再び生きたウイルスに感染したケース。疾病ルールから考えて短期間での再発、再感染は考えられない。医師がきちんと完治基準に見合ったと判断した「再陽性」患者には、短期において感染力はない。

林医師は、退院した患者がPCR検査で陽性となるのは、新型コロナウイルスに限ったことではないと述べている。臨床症状が消えるまでの期間に比べると、一般的にPCR検査が陰性に転ずるまでの過程にはもっと長い時間がかかる。一部新型コロナ肺炎患者には治癒後5、6週間後になっても便や尿からPCR検査で陽性が出ることもあるが、これは正常な現象だとしている。

鍾南山医師もまた、初期の頃にP3実験室[*7]で「再陽性」となった患者のサンプルからウイルス培養を行ったが、生きたウイルスを培養できなかったと指摘している。香港マーガレット医院の曾徳賢チームが行った小規模な研究によると、大便のPCR検査で「再陽性」とされた患者十数例を対象に、P3実験室でウイルス培養を行ったものの、一つとして生きたウイルスを培養できなかったとしている。

[*7]P3実験室:遺伝子組み換え実験において取り扱う生物が外部へ拡散するのを防ぐために設けられた基準がP1からP3で、そのうちP3は最も厳格な基準を持つ施設。

無症状感染について林江涛医師は、無症状患者には陰性感染者と潜伏期の患者が含まれており、陰性感染者は他者には感染せず、また集団免疫を形成しているために自然に新型コロナ肺炎感染の障壁になるとする。潜伏期の患者もまたほんのわずかながらいるが、症状がなく、体内にウイルスは存在するものの排出できず、感染を引き起こすチャンスは確定症例に比べて小さめだと述べている。

新型コロナ肺炎は新しい疾病であることから、現代医学の認知はまだまだ進展中であり、一部の新型コロナ患者に出現した複雑な症状についてはまだ研究の余地がある。医学専門家たちの発言は、まだ前述の噂の影響を完全には排除しきれておらず、新型コロナ回復者が受ける差別もまた完全には払拭されていない。

●見えない圧力の正体

1月末の王穎と同じく、武漢居住で定年退職した傅・元医師は2月に入院する際にはまさか、退院後に自分が他人から疎まれ、怖がられる立場になるとは思いもしていなかった。ホテルで隔離されていたとき、高校時代の同級生が、そこを出てから決して他の人にこの病気になったと言わないほうがいい、と彼女に警告した。同級生が言うには、田舎暮らしの彼女の友人が回復して退院した後で家族が集まり、多くの人たちにあれを検査しろ、これを検査しろと要求され、その結果がない限り家族の集まりには来ないでくれ、と釘をさされたという。

3月中旬に傅さんは帰宅した。そして社会、親しい友人らに向き合った時、「どこから来るのかわからない、見えない圧力」を感じた。

傅さんは帰宅したばかりの頃に詩を詠んだ。「わたしはノアの方舟に乗ったけれど死ななかった」といった内容のものだったが、SNSに流そうとしたときにふとこの詩はあまりに尖すぎて、時勢を批判したように見えると考えて思いとどまった。「運が良かった。[自分が罹患したことを]多くの人に知られれば、決して良いほうには転がらなかったから」と感じている。

帰宅後、傅さんは家族の態度がおかしいことに気がついた。彼女が重体に陥っていたとき、姉妹や兄はみんな泣きはらしたという。病状が好転したと知ると大喜びして、清明節[*8]には一緒に故郷に帰り、両親の墓参りをしようと約束した。傅さんもワクワクして、この病気は外ではいろいろいわれているけれど、わたしはとても元気出し、PCR検査では8回とも陰性だったし、とても良い兆候だと伝えた。

[*8]清明節:二十四節気の一つで、中国では春のお墓参りの日。2020年は4月4日だった。

清明節が来ると、故郷にでかけた姉妹が傅さんに動画を送ってきて、故郷の農民たちがなんと村に入る道に塹壕を掘り、通れないようにしていると言った。傅さんはふと変だと感じたが、「じゃあどうする? 帰れないわね」と言った。姉妹たちは「そうそう、帰れないのよ」と答えた。だが、後になって傅さんは姉妹たちがこっそり故郷に帰っていたことを知った。

実の姉妹の態度に傅さんはムッとなった。退院後彼女は自分から友人に声をかけないようにしている。電話で話すうちに、以前の仲良しの友人、姉妹のように付き合ってきた人たちとの間に距離を感じ、それは病気と関係しているのだと気がついた。なんとも言えない思いだった。このときから彼女は周囲の人と一切病気の話をしなくなった。他の人がその話題をふってきても、彼女はふんふんと聞いて流すようにした。

張慧は4月になってまた2度目のショックな事件に遭った。

4月初め、武漢のあちこちの団地が次第にその封鎖を解き始めた。張慧は初めて外に出て、年末に亡くなった父の葬儀に出席してくれた親戚や知り合いへの挨拶に出かけた。

張慧にはとても仲良くしていた友人がいた。彼女が病気で苦しんでいる間、ずっと電話で慰めてくれ、その後も毎日のようにWeChatで言葉を交わし続けていた。すでに何カ月も会っていないし、会いたいと思い続けてきた張慧は団地の封鎖が解かれると、まるでオリから出てきたかのように高まる気持ちと感謝の思いを抱いて友人に会いに行った。

WeChatで友人にお礼の品を持っていくわと伝えると、友人は来ないでいいわ、来ないで、と言う。張慧は深く考えずに、もうあなたの家の階下にいるわと伝えた。友人は下りてきたものの、彼女との間に長い距離を取り、「その脇に品物をおいてくれればいいわ、わたしはちょっと用事があるから失礼するわね」と言ってそそくさと姿を消した。

その日からもう何日も経ったのに、張慧はこの一幕を思い出すたびに涙が溢れる。「心からどれほど彼女に会いたかったか。まさか、わたしの顔を見ただけであんなに怖がるとは…でも、あとで彼女の気持ちも理解できた。彼女には子供がいるから感染が怖かったのよ」

それ以来、張慧の気持ちはずっと晴れないままだ。自宅にこもってどこにも出かけようとしなくなった。夫がときどき、一緒に外に出て団地を散歩しようと声をかけても、彼女は行きたいとは思わなくなった。

王穎も4月に自宅に帰ってから、本当の差別の恐ろしさを味わった。

帰宅する時、王穎は両親に車で迎えに来てくれ、団地の車が来ると、団地の隣人たちが怖がるからと頼んだ。「でも無駄な努力だった。誰にも言わなかったのに、団地の人たちはなぜかとっくに知ってたの」

4月6日に帰宅して部屋のコンピュータを見ると、入院前からつけっぱなしになっており、時間はまだ1月27日のままだった。王穎はそれをまるで夢のようだ、すべてがウソみたいだと感じた。自分が帰宅できるとは思ってもいなかったし、また将来に向かって歩くことができるとは。一方でまだ多くの人たちがこの2カ月に閉じ込められたままだ。自分の幸運を喜びながら、一方で彼女はそこから抜け出せなかった人たちのことを思い、悲しくなった。

辛かったのはそれだけではなかった。王穎は自分の帰宅後、隣人たちの態度が変わったことに気がついた。団地で親しく付き合っていた人たちは顔を合わせても知らんぷりするようになった。さらに、隣人たちは彼女の家族をとても警戒するようになった。「わたしたちが外出すると、階下の家は力いっぱいドアを閉めるし、うちに向かっている窓は閉めっぱなしになってるの」

母は以前ダンスが好きで、たびたび団地の隣人たちと一緒に踊りに行った。今回母も感染し、2月下旬に退院してから2カ月あまり自宅にこもりきりだったので、踊りに行きたいと言い出した。彼女が現れて踊っているうちに、隣の団地の人が周囲の人たちを一人ひとり引っこ抜いて行った。母が罹患したこと、さらにはダンスの先生に向かって「彼女を踊らせないで。みんなが怖がるから」とまで言ったという。帰宅した母はその話を王穎にはせず、何日も経ってから口にした。その後母は自分が踊りたいときには遠くに行って踊るようになったが、またも偶然その隣人に出くわした。その後、二度と踊りに出かけなくなった。王穎はときどき母に付き添って散歩をしつつ、他の人が楽しげに踊っているのを目にしてなんともいえない気持ちになる。

5月のある日、王穎は母宛てに届いた宅配便を取りに行った。日頃、王家に人がいないことはめったになく、あるいは電話に出れなかった時に、配達員が団地の入り口そばの部屋に置いていく。受け取りに行くときはいつも礼儀正しくしているし、ときどきそこの管理人に果物をおすそ分けしたりしてきた。だがそのときに王穎は母の荷物が外に投げ出されているのを見た。それに近づいたときに、管理人は遠くからいとわしげに、彼女に距離をとるように、そして二度と来ないでくれ、団地の人たちがそう言っている、と言った。王穎は我慢ならなくなって管理人に口答えしたが、周囲の人に「管理人の言っていることも道理があるんだから我慢すべきだ」と諭されてしまった。それ以降、王穎はしばらく外には出なかった。

●「この1年の涙はこれまで流した涙より多いわ」

病院から帰宅して最初の数カ月、王穎は毎日泣きながら寝入った。「この1年間に流した涙は今までに流してきた涙よりずっと多いわ」と言う。ときどき、自分がなぜ泣いているのかすら分からない。差別する人に怒るわけでもなく、とにかく辛いのだ。世の中は自分が小さな頃から教わってきたようなそれではないととっくに知っていたが、それでも自分の回りには善人のほうが多いと感じていた。しかし、実際にはそうでなかったのだから。

後になって彼女はこう感じるようになった。「新型コロナ患者に対する差別に反論すると、ほとんどの人たちがそれは差別じゃなくて、みな怯えているだけだ、時間が経てば良くなるよ、と言う。それは理解できるけど、自分たちだってとても注意深く、自分から他人と接触しないようにしている。でも、差別はやっぱり差別よ。単純な怖れとは違う。自分の身の上に起こっていなかったら、時間が経てば良くなるさと一言で片付けることができるだろうけど、当人にとってすれば1分1秒が辛いのよ」

数カ月の間、王穎の自宅を訪ねてくる人はいなかった。「もう我慢できない。入院していたときにも大きな不安を抱えていたのに、親戚が病気になっただけで自分にも感染すると思うわけ?」

今回の感染拡大で王穎の親戚にも感染者が出ている。ただ、最初の確定者となったのが王穎だった。親戚たちは彼女に「あなたのせいじゃないわ、わざとじゃないんだもの」と言うが、王穎は不愉快だ。「それってまるでわたしが感染させたと言っているみたい。お前のせいだけどねって」

発症したばかりの頃、彼女は「自分は運が悪かっただけなのだ。人に知られて悪いことではない。自分はちゃんと気をつけていたのだから」と信じて疑わなかった。だが、だんだん、動揺し始めた。他人に自分が罹患したことを知られるのを恐れるようになった。

ときおり外出して誰かとすれ違う時、相手が自分を避けなかったり、あるお店で店主が彼女を追い出さなかったりすると、彼女はそれを「彼らはわたしが罹患したことを知らないから。もし知ったらきっと態度が変わるだろう」と思ってしまうようになった。

王穎と母はできるだけ他人との接触を避けて親戚とだけ往来し、発症していない親戚とも接触しないようにした。「もし誰かに問題が起きたら、またわたしたちが伝染したと言われるもの」

ときどき、友人や同級生ともWeChatで言葉を交わすが、誰も会いに来るとは言わない。なんどか、彼女も自分が罹患したことを忘れて、家に美味しいものがあるから一緒に食べない?と声をかけてしまうと、誰もなにも言わなくなってしまう。そしてふと思い至り、二度と口にしなくなった。

王穎はますます自宅から出なくなった。母を回復者のWeChatグループに招き入れたら、高齢者の多い回復者たち同士が一緒に出かけましょうと声を掛けてくれ、慰められたようだ。以前、両親は散歩に王穎を引っ張り出したが、今では彼女は自宅に残って勉強をするようになった。

自宅の中にいると、ときどき近くの小学校が流す、運動選手の行進曲が聞こえてくる。まるで外の世界が普通の生活を取り戻したのに、彼女は「身体は治ったけど、心はずっと病んでいる」ように感じてしまう。

新型コロナに関するニュースも彼女は避けるようになった。両親を心配させないように彼らともその話をせず、また友人とも話さず、どうせ言っても彼らにはわかってもらえないんだから、と思うようになった。

ときどき、逃げ続けるのは国と医療関係者の努力に失礼だと思うことがある。感染に関する情報に向き合いたいとも思うが、それを目にするたびに辛く、一生思い出したくないと感じる。

ときおり、自分の警戒心が足りなかったと責めたり後悔することもある。2019年12月以降、彼女は2回用事があって武漢市内に行った。「もしあの2回がなければこれほど辛い思いもせず、家族を差別にさらすこともなかったはず」

2019年12月31日に彼女は[病気流行の]噂を耳にしたが、「学校が噂を禁じた」ので予定通り武漢に行った。UV対策用マスクをつけて。1月20日にもう一度行ったときに感染したのだと感じたこともあったが、あの日は1日中医療用マスクを付けていたはずだ。振り返ってみると、1月19日にすでに喉の痛み、頭痛があった。「ときどき後悔するけど、いつのことを後悔すればいいのかわからないの」

4月以降、張慧もまた日々を自宅の中で過ごしている。おしゃべりしたいと思わないし、友人に会いたくもないし、親戚の集まりにも参加したくない。夫は行けばいいのに、と言うが、「わたしが言ったら周囲はどう感じると思う? 他人に変な目で見られるのはイヤよ」と彼女ははねつけている。

夫の甥が結婚すると電話で式に招待してくれたが、こんなときに行けないわ、と彼女は諦めた。武漢の習俗からすると、伯母に当たる彼女が出席しないわけにはいかなかった。「そういうときは普通ならもう一言、『大丈夫、来てよ』と言うべきじゃないかしら? でも相手は『わかった。じゃあそういうことで』と言っただけだった」。電話を終えてから張慧は夫に尋ねた。「わたしが行ってもいいと思う? もしわたしが行ったら、彼らはちゃんと接待してくれるかしらね?」

張慧は団地内の散歩にも行きたがらなくなった。団地の自粛が解かれた時には毎日のように庭に出て2、3周していたのに、今ではその気にもなれない。団地の人たちのほとんどは彼女が罹患したことを知らない。団地住民のWeChatグループにはときおり「罹患者が住んでいるのはどの建物?」という声が流れる。すると誰かが「どの建物どころか、今じゃ武漢市全体がそうじゃないの」と答える。それを読むと、彼女はどこかほっとする。

以前の彼女は自宅にいる時、テレビドラマ、特に心理ドラマを観るのが好きだった。でも、今はなにも観たくない。人気コメディアンの漫才ばかり聞いている。「聞いているうちに心が晴れるの」。入院中高熱が続き、数時間だけふっと熱が引いて退屈したときにも漫才を聞いていた。「ほっとしたわ。漫才を聞いていると頭を動かさずにすむし、笑えるし。あれがなかったら、ここまで頑張れなかった」

気持ちが高ぶったり、あるいは不安なことを思い悩む時、彼女は心がぎゅっぎゅっと引きつっているみたいだと感じている。「心臓が潰されてる感じ。そのぎゅっという力にこらえきれなくなるの」。そんな時彼女はすぐに「落ち着いて、落ち着いて、もう考えちゃダメよ」と自分に言い聞かせる。

ときどき、誰かにその苦しみをぶつけて、涙を流して気持ちをリフレッシュしたいと思うこともある。だが、自宅では1滴も涙を流したことはない。一番辛いときも涙が出てこなかった。ときどき、自分が怖くなる。なんでこんなことになっちゃったの、このままいくと自分がヘンになっちゃうんじゃないのかしら、と。

ときどき、「発熱した当初にもうろうとして昼も夜もわからなかったこともあったけど、生き延びてきたじゃないの、なのになにが怖いっていうの?」と自分を慰めたりもする。

端午の節句[*9]に夫が自分を外に連れ出してくれた。一家4人で仙島湖[*10]に行った。黄石市の山間部にあり、通りを歩く人もマスクをしておらず、現地の人もここは安全だから、と言う。「誰も自分が病気だったとは知らない、日常から離れた場所」で、一家で緑と水を楽しみ、新鮮な空気を吸い、張慧はやっと気を紛らわすことができた。

[*9]端午の節句:中国を含む華人圏では端午の節句を旧暦で祝う。2020年の旧暦5月5日は新暦6月25日だった。
[*10]仙島湖:武漢から140キロ離れた景勝地で、30平方キロメートル広がる水面に1000あまりの小さな島が浮かぶ。

湖北省東部の某県に住む李亮(仮名)も2月初めに退院してから、親戚や友人が訪ねてこなくなった。6月末に歯茎に膿み出して武漢で手術をした。4人家族だが妻はとっくに離婚して出て行き、父はすでに70代、片目が見えず、高血圧持ちだ。数年前には交通事故で片足を骨折し、大腿にはいまだに鉄の板が埋め込まれている。母はそんな父の世話があり、また子供は学校があるため、彼一人で武漢に行った。

李亮は一人で武漢市中南医院に行った。医師が手術の前に、全身麻酔をかけるからリスクがあるので家族のサインがいると言う。李亮は自分の状況を何度も説明してやっと医師が納得してくれ、彼自身のサインでいいと言った。手術では歯を3本抜いてから歯茎の下の膿を切除した。

●在宅患者たちと家族

新型コロナ回復者にとって、職場復帰は社会に融け込むための大事な一歩だが、復帰はそれほど簡単なことではない。

春、李亮が暮らす農村は田植えを迎えた。母はもう60過ぎだが、まだまだ元気だ。毎年春の忙しい時期には他の家の手伝いをして、1日8、90元(約1300円前後)のお駄賃をもらうことが出来た。だが、今年は誰も彼女に声をかけてこなかった。別に彼女が新型コロナ肺炎になったわけじゃなく、患者の家族というだけなのに。

王穎の母は民間企業で働いていて、社長は友だちでもある。彼女は職場復帰しようとしたら、社長に自宅でのリモート勤務を勧められた。同僚が不安がるからだ。

父は北京で働いているが、8月初めになっても北京に戻れなかった。父は1月に車で孝感に帰ってきて、妻と娘の感染が確定して入院すると、彼も疑似感染者として10日間入院したが運良く感染確定はされなかった。それでも孝感の封鎖が解け、北京市の新型コロナウイルス管理のための外来労働者登録アプリをダウンロードしたところ、すぐに北京から状況を尋ねる電話が入った。

6月5日、北京市が突発公共衛生アラームを第3レベル[*12]に引き下げ、湖北省出身者の北京行き飛行機や鉄道チケットの購入、そして車両の北京入りへの規制を解いた。勤め先は7月に帰ってこい、と言ったが、6月中旬になってまた北京の海鮮市場を発端にした感染が広がると、職場はなんにも言ってこなくなった。

[*11]突発公共衛生アラーム:中央政府が全国に向けて制定したアラーム・システムで、各地で起こる公共事件に合わせての対応を決めるシステム。低から高へ4級から1級までのレベルに分かれている。

父は自宅にいたり、友だちと出かけたりして、あまり家族と職場復帰の話をしたがらなかったと、王穎は感じている。このことで両親がなんどかケンカをしたりもした。母は父に職場に連絡して、具体的な復帰のタイミングを聞くべきだと言った。父の仕事がストップすれば家族の収入も大きく下がり、自宅のローン返済だけで毎月3、4000元(約5、6万円)、そして祖父母の面倒も見なければならないし、母はとても苦しんでいた。

王穎はいくつかの元患者のチャットグループに参加していたが、それぞれのグループの約200人余りの参加者のうち、医師や看護婦を除いてほとんどの回復者たちが日々を自宅で過ごしていると感じていた。「職場が嫌がるとか、同僚が怖がっているとか言うのよね」

武漢市江漢区の馬明はずっと職場復帰できずにいる。感染する前は飲食店を1軒買い取ろうと思っていたが、退院後は精神的ダメージが大きく、2カ月ほど眠れずにいる。また、新型コロナ回復者の飲食業従事に制約はないのかどうかがわからない。自宅で休息しているうちに、以前目をつけていた店が閉店した。彼には景気が後退している状況で、なにを販売すればいいのか、見当がつかない。

荊州の趙東は退院してから数カ月後に武漢に戻った。海鮮市場業界には戻らず、ほかの業種で働いている。彼の勤め先では社長だけが彼の病気のことを知っている。「この病気になったことはできるだけ他人に知られないようにしている。知られると、みんなビビるからね」と、彼は言う。

●職場復帰への苦しみ

張慧の職場復帰はさらに二転三転した。

3月初め、職場が職員復帰に向けて準備を始め、彼女の状況を尋ねてきた。張慧は復帰できると答え、職場は血清抗体検査とPCR検査に行くようにと手配した。

新型コロナウイルス独特の血清抗体検査とは、ヒトの新型ウイルスに対する免疫反応を調べるものだ。3月3日に国家衛健委が公布した「新型コロナウイルス肺炎診療プラン(試行第7版)」によると、血清学検査が臨床に取り入れられたのは、「IgM抗体はほとんどの場合、発症の3日から5日後に陽性を示し始め、回復期のIgG抗体価は急性期に比べて4倍以上に上昇する」ためとしている。

IgMとIgGとは、ウイルスがヒトの身体に侵入すると人体の免疫システムが作り出す免疫グロブリンだ。一般にはウイルス侵入後に真っ先にIgM抗体ができ、発症のほぼ3日から5日後に陽性反応を見せるようになる。そして、IgMを作り出すB細胞がリンパ節に入ると、胚中心がヘルパーT細胞と抗原提示細胞の刺激を受ける。それが成熟して形質細胞に分化すると大量のIgGを作り出し、それが比較的長い期間続く。このため、IgM抗体の陽性反応は最近の感染を意味し、IgG抗体の陽性は感染からしばらく経っていること、あるいは既往感染を示す。

3月5日、張慧は普愛医院で検査を受け、IgM抗体が陰性、IgG抗体は陽性と、予想通りの結果が出た。

4月3日、職場で出勤が再開され、張慧の状況を尋ねてきた。大丈夫、ちょっと咳が出る程度だと答えたが、職場はしばらく自宅で休み、ことがはっきりしてからまた決めようと言った。

張慧は自宅で休みつつ、健康体操を続けた。咳はゆっくりとよくなり始め、食欲も増え、家族と一緒に食事を取り始めた。この時、彼女は親しい友人を訪ねようとしてまた拒絶された。その悶々とした思いを抱えている時に職場が復帰について尋ねてきたが、友人ですら自分を嫌がっているのに同僚はどう思うだろう?と思った。そんな複雑な気持ちになっていた時、彼女の健康コード[*12]がまた黄色に変わった。

[*12]健康コード:新型コロナウイルス感染拡大後に導入されたシステムで、持ち主の健康状態や感染の可能性のある人たちとの接触状況、移動事情などを組み合わせて自動的にその健康レベルを形成するシステム。健康状態に合わせて、スマホに入れたアプリが生成するQRコードが赤(罹患)、黄(要注意)、緑(健康)に変わり、交通機関の利用や店舗への入店などの際にそれを表示することが求められるようになった。

4月8日、武漢市が封鎖を解かれたその日、彼女は薬屋に湿布を買いに行った。団地に入る時にコードをスキャンしようとして、黄色に変わっていることに気付いた。武漢の健康コードは緑、黄、赤の3種に分かれており、黄色の基準は「申請者が密接接触者として記録され、自宅隔離かつ新型コロナ肺炎症状の再検査に合格していない、あるいは集中隔離14日未満である」こととされる。張慧は3月に健康コードを申請して以来ずっと緑色だった。なぜ黄色になったのだ?とコミュニティ監視網のメンバーに尋ねたが、「知らない」という答えだった。

黄色コードに変わってから、職場はまだまだ出勤できないと言い出した。4月11日に受けた武漢市普愛医院での検査では、PCRは陰性だったし、両方の肺の感染病変も基本的にはすっかり終息していたのに。

5月初め、職場はまた彼女を検査にいかせた。振り返ると、彼女の苦しみはここから始まった。その後、彼女はあちこちの病院を駆けずり回り、血清抗体検査をした。太っているので血管が見つけにくく、看護婦がやっと見つけたところのすぐ下をその次の検査で他の人が突く。そうやって次々に検査針の痕がズラリと並んだ。検査に行くたびに、「あなた、何回検査したんですか」とゲラゲラ笑われる始末だ。だが、検査の結果はというと、IgM抗体が陰性だったかと思うと陽性になったりして、彼女は狂いそうになった。

5月8日、張慧は普愛医院で検査を受けた。IgMは弱陽性、IgGは陽性だった。翌日、東西湖人民医院に検査を受けに行ったら、IgMが陽性、IgGが陽性となった。IgMが2回も陽性となったことで、職場は彼女の復帰を拒絶した。5月11日になって普愛医院で受けたPCR検査は陰性だったというのに。

5月の中旬と下旬、張慧は武漢市中医医院の検査を2回受けた。医師は中薬(漢方薬)を出してくれ、その説明によるとこれを2回飲めば抗体は陰性になるはずだった。

5月28日、彼女はまた普愛医院の検査を受けた。PCRは陰性、しかしIgMは弱陽性、IgGは陽性だった。

6月になると、職場は彼女に1000元(約1万5000円)ちょっとしか払ってくれなくなった。長年勤め、成績はずっとトップだったのに、張慧は職場のこの態度はあまりにもシンプルで粗暴だと感じた。寒々としたものを感じた彼女は、市長のホットラインに電話をかけて、職場への不満を訴えた。職場は、上部機関が4月中旬に職場復帰に関する基準を書面で通告し、抗体検査で職員のIgMが陽性であれば自宅隔離を勧め、再検査もまた陽性となった場合、職場復帰はさせないようにと求められたと釈明した。

6月8日、張慧は協和西医院の検査で、やっとIgM陰性、IgG弱陽性の結果を得た。だが、それでも職場は必ず二つの病院でIgM陰性の結果がでなければ復帰はできないと言った。

6月28日、張慧は普愛医院で検査を受けたが、IgMはまた弱陽性、IgGは陽性だった。6月30日に武漢市第一医院で検査を受けたところ、やっとIgMが陰性、IgGが陽性になった。

「わずか2日間を挟んだ検査で、IgMが一つは陽性、もう一つは陰性になるなんて、一体どうしてなのかしら」。7月1日、彼女はまた普愛西医院でPCR検査を受け、陰性の結果を手に入れた。

●感染が生活を変えてしまった

7月初めになってようやく、張慧は職場に復帰できた。職場は彼女を最前線から外し、もうすぐ定年だからと暇な仕事を与えた。感染前の彼女はネットワーク支店の責任者だったが、その職にはすでに他の人がついていた。

昇格話もおじゃんになった。上級機関はもともと今年を昇格の年としていた。3、4年に1回そういう年が巡ってくる。張慧が担当していた支店は職場の100カ所あまりのネットワークでもトップの成績を上げており、彼女の昇格はどうみても「自然な流れ」だった。しかし、感染拡大中に「下部幹部」である張慧が感染防止キャンペーンに参加しなかったことを理由に昇格はなしとなった。

職場に見捨てられた、と張慧は感じた。2月初めの発症していちばん大変な時に、病院にも入院できなかった彼女は職場に助けを求めた。職場は彼女に団地に頼めと言い、団地は地区に頼めと言い、地区は市長ホットラインに電話しろと言い、結局2月18日、彼女の熱が引いてから、地区の委員会が彼女を病院に送り込んだ。

なんどもの拒絶を受けて、張慧の性格は一変した。以前は自尊心が強く、支店の責任者として顧客と関係構築をし、各部門と関係構築をし、がんがん仕事をこなし、思い切りよく、なにをするにも負けず嫌いで常に一番前を走ってきた。

だが、今の彼女はなにをするにも力が入らない。つまらなくて動きたくないし、考えたくもない。同僚たちとも「彼らが怖がるかもしれないから」と、会話したいと思わなくなった。

7月中旬、ある病院で「ベック抑うつ質問票」[*13]による検査を受けた。成績は17ポイント、「重度」に入っていた。

[*13]「ベック抑うつ質問票」:抑うつ症状の有無とその程度の判断のために開発された、自記式質問調査票。

毎日出勤しているうちに、次第に精神的に楽になり始めた。同僚たちも彼女を警戒する様子を見せず、マスクもせず、彼女の病気のことを気にすることもなかった。彼女はほっとしたものの、オフィスではマスクをはずそうとしなかった。お昼も一人で食べるようにしている。他の人が感染事情について語るのを聞きたくないからだ。

夜、彼女は相変わらずぐっすり眠れず、いろいろな夢を観る。だが、どんな夢を見たのかは思い出せず、起床時にはあちこちに疲れを感じている。毎日発汗がひどいし、食欲もない。お腹が空かず、朝食に主食を少し食べる以外は、お昼はお粥、夜は小さなじゃがいもを二つ食べるくらいだ。

早く人々に融け込みたいと思いながらも、また傷つけられるのが怖くて、人との交流を避けている。それがよくないことであり、回復の役に立たないことは彼女もわかっているのだが、自分を抑えきれない。8月になっても、まだ外の友人と食事をしたり、会ったりもしていなかった。

孝感の王穎もまたほとんど外出せず、「自宅で自分のことにかかりきりになれば、いろんなことを考えずにすむ」が、差別はまだ彼女にまとわりついている。

8月初めのある日、いとこが王穎に言った。彼女が帰宅した時に庭にいた一家が、彼女を見て手で口と鼻を押さえて走って行ったと。いとこは患者ではない、ただの家族なのに。

[原文:謝海涛「被歧視的新冠康復患者:恐惧、誤解、歧視,制約着他們回帰社会」


ここから先は

0字

中華圏の現地でどのような注目の話題があるのか。必ずしも日本とは関係のない、また日本では話題にならない「現地ならでは」の視点の話題をお届けします。そこから読み取れるのは現地の機微、そして人々の思考方法。一辺倒ではない中華圏を知るために。

メルマガ「「§ 中 国 万 華 鏡 § 之 ぶんぶくちゃいな」(祭日を除く第1、2,4土曜日配信、なお第2,4土曜日が祝日の月は第3土曜日…

このアカウントは、完全フリーランスのライターが運営しています。もし記事が少しでも参考になった、あるいは気に入っていただけたら、下の「サポートをする」から少しだけでもサポートをいただけますと励みになります。サポートはできなくてもSNSでシェアしていただけると嬉しいです。