”読書”を凄いと思わないで!
先日、友人から僕の読書量の多さを褒められた。
他にも大勢の人たちがいる中で言われて恥ずかしく思ったのだが、この恥ずかしさはどこから来るものなのだろうと疑問に思った。
前提として褒められたのは嬉しかった。
でも、読書量が多いことは凄いことなのか? とも思う。
これにまつわる最近の話をする。
Twitterでの自己啓発本dis論争
Twitterで読んで良かった本ベスト100というものが流行っている。
それをめぐるある騒動が起きた。
我のベスト100はこれだ! とツイートしたある方の選書の大半が自己啓発本だったのだが、それを見た人の自己啓発本dis心に火がついた。
すぐさまそのツイートにリプや引用リツイートをして放火が始まり、放火犯に対しても火のついた矢を飛ばす輩が現れ大きな読書論争が巻き起こった。
「読書の対象に優劣はあるのか。」
「小説であれ新書であれ自己啓発本であれ漫画であれ、読書自体が素晴らしいもので内容に優劣はない。」
「いやいや自己啓発本乙w」
「読書家はどんな本もそれなりに読んでるんだよ。」
などとさまざまな意見が飛び交った。
ここで疑問が一つ湧き上がる。
読書をしている/していない に優劣はなくね?
読書ってそんなに偉いかね
元のツイートでもそうなのだが、前提として{「読書は人生を変えるほど凄いもの」で「読書をすることで人間の上位〜%に入れる」くらい読書は良いものだ}
みたいな読書優生思想がある気がする。
これが気持ち悪い。
実際の統計として読書をする人が成功する傾向があるかもしらんが、好きなものを道具にしないでくれ。
読書を良いと思う気持ちは素晴らしいと思うし僕も本を読むことが大好きだ。
でも、読書の対象に優劣はないと主張する人が読書自体の優位性を当然のように前提とするのは悲しく感じる。
旅行も人生を変えるし、部活動だって人生を変える。
惰眠を貪ることも人生を変えるし、何もできない時間も何もしない虚しさも人生を変える。
そしてその全てが人生を変えないかもしれない。
というか人生は一回なんだから変わるも何も比較対象がねーだろって思う。
好きってだけじゃダメですか?
読書に対して、ただ「面白くて好きだ!」だけで終わることはできないのだろうか?
僕が読書家であることを褒められて恥ずかしいと感じた理由は、僕が読書家であることを誇りに思っていると勘違いされた気がしたからだ。
僕は僕の好きを長所にしたくない。
そういう気持ち。
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