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【長編小説】横乗り囚人 episode 2

 その日は、会社裏に配置された十数台の大型トラックのうち、最も倉庫に近いトラックを使うこととなった。佐藤は、助手席のドアを面倒くさそうに突き飛ばし、開けた。次いで、雑な手招きをして見せる。この所作にも当然に苛立つ巧であったが、些末な仕草まで気にしていてはキリがないと察するや、大人しく助手席に座った。

 乗用車より幾分か車高が高い視野、やや前方に傾いたハンドル、二つ連ねたサイドミラー、無線機、他に見慣れぬ機器が少々、それらが集合体となり形作っているのが、この重厚なトラックである。してその車内には、どこかSFじみた空気が漂っている。本来ならば、このでくの坊の主となって華麗に操り、全国各地を巡り廻りたい所存なのだが、如何せん鬱陶しい者が横にいる所為で、巧はいまいち身動きが取れないでいた。さらに言うならば、あくまで巧のポストは助手である。もうこの段階で、彼が運送業に抱いていた幻想は、見る影もなく消滅していた。

 と、ここで運転席の佐藤が、

「じゃ、助手席の座り心地を体験してもらったところで、これから積み込み作業に入るから。予め言っとくけど、もたもたやられちゃ困る。三十分で全部積み込んで、さっさと出発しないといけないからな。分かったら、早く降りて倉庫に向かってくれ」

 なぞ相も変わらず高圧的に指示を飛ばしてきた。如何様にして育てばこんな横柄な男に出来上がるのか、心底不思議に思う巧。ともあれここで退いては男が廃ると、半ば粘着的に応酬するのだった。

「ええ、云われなくても、今降りようとしていたところです。で、まあ降りるは降りるで良いんですけれども、さて自分は倉庫に向かった後、何をすれば? 佐藤さん、そこまできっちり教えて頂かないことには動きようがありませんね。何せ、自分は今日が初日なもんで」

「はあ? そんなもん行ってから説明すっからよ、早く行けって。ほら、他の連中を見てみろ。早い奴はもう積み込み終わって出発しようとしてるだろ? お前独りでトロトロしてる分には構わないがな、今日はあくまでオレの助手なんだよ。今日だけじゃなく、今後暫くはオレの助手だ。つまりな、お前がへまをしたらオレの責任になるんだよ。分かるか?」

「分かりますとも。ただね、佐藤さん。あなたはちょっと、言葉足らずな人間とお見受けしました。今後、あなたから業務を教わる上で、コミュニケーションに支障が出ることも大いに考えられますから、今のうちに忠告をしたまでのことです」

「おい、それ以上減らず口を叩くな。早く降りて倉庫に行け。然もないと、こうだぞ」

 巧の戯れ言に痺れを切らしたのか、佐藤は硬く握った右の拳をこちらに向け、殴ろうかと謂わんばかりに振り上げ、威嚇してきた。無論、それが虚勢であることは明確で、その裏付けとして佐藤は、振り上げた右の拳を宙で遊ばせたまま、左手でこちらを押し退けようとする。

 巧は、意図せずともその手首を掴み、捻っていた。佐藤は「うっ」と呻き、顔の皺を数本増やした。だが巧は、それに構わず更に力を込める。すると、佐藤の口の端から痛みによる苦悶の声が漏れ、その果て、

「おい、もうやめろ……」

 と弱々しく譫言のように呟いたのを確認するや、その滑稽な様相を鼻で嗤い、漸く手を離すのだった。今度は、何も言わずトラックから降りて、倉庫へと向かうのだった。

 このとき背後から憎悪の気がひしひしと感じられたが、佐藤という愚物が大した脅威にならぬと察した巧は、爾後一切の重圧を感じることはなかった。

 佐藤との始まりは、こんな風だった。それからの日々は、黙劇の中で海岸に寄せ返す漣を眺めているようだった。ただ一つ明瞭なこととして、このときを境に、巧の人生は目まぐるしく移ろい、流れ出した。

 二日目三日目四日目と、今思えば馬鹿馬鹿しくなる細切れの諍いばかりで、佐藤との仲は一向に改善しなかった。その要因は、やはり彼の傲慢さに因るところが大きかった。巧が少しでも反抗的な態度を取ると、必ず佐藤は激昂し、暴力を振るおうとする。まるで初戦の敗走がまぐれだとでも云いたげに、どうにか隙を突いて屈服させようとしてくるのだ。一方の巧もまた、その度毎に応戦し、力業で撥ね除けていた。何故ここまで意地になるかというと、巧の経験上では、佐藤のように単細胞な野郎ほど、一度や二度こちらがかけてやった情けに乗じ威張り散らす傾向にあり、それこそ絶対に許容できぬと、頑なに拒んでいる次第だ。

 来る五日目の昼過ぎ。似たような景色が際限なく流れる、首都高のどこか。長い行列が、辺りを埋め尽くしていた。時折どこかで鳴るクラクションと、抑揚のないラジオに厭いてしまった巧は、余暇の計画を練ることで気を紛らわしていた。久方ぶりの労働をとりあえずは一週乗り切ったことで、安堵というか、多少余裕のようなものも出てきたが故に、初めの休日を堕落して過ごす訳にはいくまいと考えてのことだ。
 しかし、彼のその漫然とした様相にただ激昂したのか、或いは渋滞で苛立っていたところに追い打ちを掛けてしまったか、突如として佐藤が怒声を挙げた。

「おい! 助手席は休憩をする場所じゃねえんだ! 早いとこ独り立ちがしてえんなら、一日でも早くこっちに座って、一つでも多くの仕事をこなせるようになりやがれ!」

 巧は不意のことで一瞬怯んだが、いつものように負けじと応酬した。

「自分、休んでいるように見えましたか? だとすれば否定しておきましょう。違いますと。それとも何ですか、佐藤さんはもしや、自分の頭の中にあることまで読み取れる能力があると仰いますか? もしそのような超能力があるのであれば、是非ご教授願いたいもんですが」

「毎度毎度このオレに逆らいやがって。生意気もいい加減にしておけよ。然もなければ、なんだ、その、承知しないからな」

「おっと? 今日はいつもの腕っ節自慢はなしですか? まあ、そうするのが懸命でしょうな。自分のような新参者に屈強なベテランドライバーが力負けしたとあれば、それはそれは大きな恥となりますから。そうそう、自分は別に佐藤さんのことが嫌いなわけではありません。ただ、もう少し建設的な話をしてはどうかと提案しているまでのことです」

 巧は、佐藤の常套句を先回りして封じた上で、更に出方を窺った。
 佐藤は、怒りと羞恥が混合した複雑な表情で、暫時俯きながら唇を噛み締めていたが、やがて胸ポケットから煙草をつまみ、吹かした。で、少し気分が落ち着いたのか、

「あんた、事業所にいるときの様子を見る限り、普段の雑談はてんでダメな癖に、この手の口だけは回るようだな。その話し方、どこで身に着けたんだ?」

 なぞと訊ねてきた。巧は、佐藤の方を見やって答えた。

「元からこんな話し方……と言いたいところですが、これに関しては自分でも分からんのです。大方、生存戦略として自然とこうなったんでしょうな」
「ほお、そうか。じゃあ訊くが、あんた大学は出てるか?」

 佐藤は、唐突な質問をぶつけてきた。巧は、これに面食らいつつも、

「ええ、一応は」

 と正直に答えた。経歴の話は好きではないが、中途半端に身に着けてしまった大卒の肩書きが、それなりに評価される社会であることもまた事実と識っているが故、下手に低く詐称する必要はないと踏んだのだ。意外だったのは、そこからの佐藤の食いつきである。

「ほう、大学はどこだ?」

「東京の大学ですが」

「大学名を訊いてるんだ。東京の大学たってまさか、東京大学じゃあないだろ?」

「立教大学ですよ。立教の理学部です」

「ほーう、そうか。知ってるぞ、立教大学。オレが知ってるってことは、それなりに有名な大学だよな? それで理学部ってことは、理系でもあるわけか。ふーん」

 佐藤は、感心したように何度か肯いた。だがその刹那、巧は、佐藤の態度に違和感を覚えた。どうにも会話に要領を得ないものを感じたのだ。何かにつけて上から目線で物事を判断しようとする、あの傲慢さが感じられないのである。巧が抱いている佐藤の印象とはまるで真逆に思えた。
 考えているうちに、佐藤は再び沈黙した。そして、車列も再び動き出した。巧は、先程の話の続きを促した。

「佐藤さんのご出身は?」

「へっ、それを今から話そうか迷っていたんだ。まあ、聞けよ」

 どういう風の吹き回しだろうか。今まであれほど威圧的であった佐藤が、一転して、妙に柔和な口調で饒舌になった。これはこれで気味が悪い。巧は、一層の警戒心を露わにした。そんなことは露知らずか、佐藤は語り出した。

「オレはよ、大学どころか高校も出てねえ。生まれは東京だが、十五まで団地暮らしだった。その後は都内を転々として生きてきたよ。トラックドライバーになったのは、あんたと同じくらいのころかな。それからもう二十年くらいこの仕事をやってるもんで、柳田社長がオレに新人を任せるのはそういう訳だ。で、だな。これまでもあんたのように立派な学歴でトラックをしにきた奴を何人か見てきたが、やっぱり学歴があると飲み込みも早くてな、オレなんか直ぐ追い抜かれていったよ。一年で役職に就いたり、業界の管理側に進む奴もいた。巷じゃ、仕事に学歴は関係がないと抜かす阿呆もいるが、オレはそうは思わねえ。現にあんただって、飲み込みは悪くねえからな。だがよ、どういう訳か、中くらいの奴がいねえんだ。学があるトラックドライバーは、大出世するか、大転落するかの二つに一つなのさ。それであんた、こう言っちゃあれだが、転落組の人間だぜ。学がある癖して半人前、半人前の癖して口答えは一人前、こんな奴で、この業界で上手くいった人間をオレは一人も知らねえんだ」

 巧は、佐藤の言葉に聞き入ってしまった。一見皮肉じみた言葉の端には、自分に対する哀れみや、忠告のような意図も込められているように思えた。無論、中卒風情が何を偉そうに、少ない母数で森羅万象を理解した気になるなよ、という切り口で論破にかかれば、それで勝ち取れる件でもあった。が、少々痛いところを突かれてしまったことで、情けないがいつもとは色の違う怒りを覚えていたのは事実であった。それが為に、巧はつい感情任せなことを口走ってしまったのである。

「仮に自分がここで転落する運命だとしても、佐藤さんよりはマシな最期を遂げる自信はありますよ。そんなことより、不確定な未来の話はここらで終わりにして、現段階までのお互いの過去を比較してみましょうか? そしたらきっと、目も当てられない程残酷な結果になりますよ」

 すると、佐藤はまたいつもの仏頂面に戻り、

「分からねえ奴だな!」

 と強く吐き捨てたのち、さぞ気前が悪そうに頭を掻いた。

 それから二人は、その話題を掘り下げることなく、口を閉ざしてしまった。いつにも増して静寂が深く、鼓動の音までも聞こえてきそうな車内の雰囲気に耐えかねた巧は、ラジオのボリュームを上げることで心の均衡を保つのだった。外の渋滞は解消されるどころか、ますます酷くなってゆくばかりだった。結句、この日の勝負は曖昧なまま持ち越しとなった。とはいえ、翌日が休日であったが為、次に佐藤と顔を合わせたときには、また別の事柄が引き金となり、取るに足らぬ諍いを繰り広げるのだった。

 以来、未だ冷戦状態が続いている巧と横乗りの佐藤だが、互いに雇われの身である以上、ぐだぐだと稚拙な喧嘩を続行する訳にもいかず、それからの日々は、業務的に一応の手順を説明し、こなして、という芝居に臨み、進んだ。

 腐っても大卒で、実は理系人間でもあった巧からすると、業務の内容自体はさほど難しいものではなく、当初は疲労困憊こそしたものの、問題なく遂行していた。その上で、佐藤の方も熱りが冷めてきたのか、張り詰めた空気は次第に緩んでいった。
 そして、時は現に戻る。

 覚悟を決めて力強く扉を開けた巧は、柄にもなく「おはようございます!」なぞ気張って挨拶を飛ばすや、室内をぐるっと見渡し、朝礼まではまだ時間があると判断したのち、奥のソファーに腰を下ろした。

 入社してひと月も経てば、少しでも社交性がある人間ならば、気兼ねなく話すまでは求めずとも最低限暇を潰せる程の仲は構築しているものだが、巧は言うまでもなく全くのゼロで、威風堂々と孤立を受け入れている。

 孤立という意味では、かの佐藤も巧同様ロンリーウルフな一面を持ち合わせているらしく、大抵は性懲りもなくフロアの片隅で煙草を吹かしているものだ。それは今日も、例外ではない。端から見ても犬猿の仲である二人だけに、始業前なぞは部屋の対角線上に居座っていることが多かった。それが為、無難な人間関係の渦中で蠢く一般社員からすれば、二人はまるで前門の虎後門の狼だ。いつからか、或いは元からか、無愛想でつかみ所のない性格である巧は勿論のこと、佐藤すら、腫れ物に触るような扱いを受けるようになっていた。やはり根源では、似たもの同士なのだろうと、巧自身も薄々は感じ取っていた。

 また、類似というか関連する話ではあるが、五十過ぎの佐藤の体たらくを観察する中で、眇々たる彼の姿形に自身の将来を投影することが度々あった。佐藤に家族がいるという話なぞ聞いたことがなく、それどころか、どこに住んでいるのかさえ知らなかったが、恐らくは独身だろうし、結婚願望など微塵もないに違いないと踏んでいた。事実、佐藤には結婚歴がないという話を耳にしたことがある。何やら金遣い荒く、浪費を共有して楽しむ馬鹿な友もいないから、週末はいつも酒と女を買って帰るとの噂までそこらをほっつき歩いている。

 境遇だけならば、巧とて佐藤と似たようなものだ。年齢こそ巧が二回り近く下であるが、それで生じる差など微々たるものだ。このままでは間違いなく追いつくだろう。かの哀れな背中に。巧は、そっと額の汗を拭った。

 朝礼から乗車までは、何一つ変化のない時が過ぎた。止まっているも同然だった。そして相も変わらず、巧の隣には佐藤の姿があった。
 巧は迷い、困惑していた。何故だ。何故、独立のことを誰も口にしないのだ。今でなければ、いつなのだ。まさか、何食わぬ顔で業務を終えたのちに、すっかり忘れていたなぞいうまい。そのようなことがあろうはずがない。あって良いものか。幾ら阿呆の佐藤や能天気な柳田とて、自身が何度も何度も口にしてきた約束の日が今日であることを、忘れている筈がないのだ。しかし現実として、誰一人として話題に触れようとせず、ただ黙々と業務に向かうばかりだ。その様子たるや、あたかも巧が存在しないかのように振舞っている。おかしな話だ。つい先週も、来週には新人が独立するからより一層気合を入れて云々と、かの柳田がほざいていたではないか。

 底気味わるい平穏に吞み込まれ、巧はいつも通り倉庫前までやってきてしまった。で、この日乗り込む車両の点検を済ませ、積み込み作業へと移行していた。

 兎にも角にも、何かがおかしい。頭が、身体が、空間が、世界さえ、全てが歪んで高速で回転している。このとき巧の肢体は、意図せずともまるでプログラムを組まれた機械のように動いていた。
 そうして荷を積み終えたところで、漸く我に返った巧は、意を決して傍らの佐藤に言うのだった。

「自分、確か今日から独り立ちだったと思いますが、出社してから今に至るまで、それに付随する話が何もありません。一体全体、これはどういう訳でしょう?」

 すると佐藤は、ぽかんとした表情でこう答えた。

「何を寝ぼけていやがんだ。あんた、まだまだ半人前だろう。独り立ちなんて、とてもじゃないが無理だってことが分らんのか? なあ?」

 これには、怒りより先に戸惑いの波が押し寄せる巧であった。して、馬鹿なことを言うなと謂わんばかりに顔を緩ませ、

「いやいや、それは話が違うでしょう。自分、確かに今日からということで伺っています。でなければ、とうに辞めているはずです。独り立ちが叶うならと、その為に根性で続けてきたようなものなんですから」

 と返す。

 しかし佐藤は、何か素知らぬ様子で、

「さあ、オレはそんなことを言った覚えはないな。勘違いじゃないか? 仮に今日から独立なんてことを、過去のオレが口にしていたとしても、大した問題じゃない。何の意味もない。横乗り研修ってのはな、担当者の判断……つまりこのオレの裁量で、幾らでも期間を伸ばせるんだよ」

 なぞほざく始末。杳として彼の云うことの意味が分からない巧は、なおも続けざまに反論するが、答えは変わらなかった。「そんなことは言っていない」と、一点張りだ。

 巧は、次第五臓六腑が煮え返るような感覚に襲われた。考えてみると、先週末の佐藤の態度は、どこかおかしかった。更に言うならば、このところずっとそうだった。巧は、何かしら裏があるのだと、確信を抱くに至った。
 で、ここで下手に言い争っても、得られるものはないだろうと踏み、渋々引き下がることにした。が、決して許しはしなかった。必ずや穴を突き止め、そこから罅割れた壁を一撃で粉砕してみせようと、静かなる闘志を燃やしていた。

 あの日から相も変わらず銀箔に揺られ、次第に加速する景色の中、嫌気が差していた。それで巧は、信号待ちには目を閉じて座席から身体へ伝う振動をじっくりと堪能して気晴らしを試みるが、直ぐと右方からの嘆息で意識を戻されてしまう。やはり孤高の空間なぞ、どこにもありはしないのだ。

 この日、飯田橋の裏路地から始まり、午前は蒲田の営業所に行く手筈となっていた。朝の件を境とし、再び初日のそれを彷彿とさせる緊迫感が漂い始め、長い静寂が二人と荷物を運び届けた。

 蒲田の営業所であるが、そこでの対応は、下っ端の巧が全てこなすのだ。他の営業所に於いてもまた、同じように巧がやり取りをし、その間佐藤は助手席でうたた寝でもしているのが、今となれば当たり前の風景だ。

 昼休憩では、佐藤は決まってコンビニ飯を食らう。本来であれば、巧もその間横で雑談に花を咲かせながら食べるべきなのであろうが、何せ初っ端から大喧嘩を演じた二人だけに、業務と業務の狭間でも空間を共有するというのは、些か気まずさを感じ、結句、巧の方が近くの店で腹拵えをするようにしていた。

 さて、配送先であるが、どうやら横浜にある水産会社のようであった。蒲田から横浜までも、先刻と同じ程度の静寂が二人を運び続けていたが、午後の或るとき、代わり映えのない高速の情景とすれ違っていると、したり顔で睡魔がやって来た。精々十数分間のうちの出来事だが、当たり前に危険である。

 実はこれが、巧の社会不適合たる所以のひとつで、彼は如何なる職に就いても、決まって午後のひとときに猛烈な睡魔に襲われてしまうである。それが為、自動車工員時代なぞあわや眠りかけた際のケアレスミスで、製造ラインを止める惨劇を巻き起こし、当時の上役から大目玉を食らったものだ。

 この悪い癖も、助手席に座っていられるうちは、案外儲けものであった。曲者の佐藤にしても、既述のように運転で両手が塞がったままケチをつけて俄然暴力に訴えらては、二人仲良く地獄の血の池へ直行せざるを得ないと小さな脳なりに理解し、そこについては特段注意をするようなことはなかった。が、巧が運転席に座る今、眠ってしまえばそれはまごうことなき居眠り運転となる訳で、唇を強く噛みしめるか、頸部にありったけの力を込めて意識を逸らすことで、どうにか押さえ込む他ないのであった。

 横浜から飯田橋に戻る帰り道、黄昏。佐藤が吹かした煙草の煙を吸い込んでしまい、これに因って堪忍袋の緒が切れた巧は、直ぐと殴り飛ばしてやりたいところをぐっと堪え、事務所に戻るや、今日一日の業務中、常に脳裏で思い描いていた或る凶行に出ることを決意した。

 そして事務所に戻る頃となれば、夜の帳も下りており、佐藤と巧を除く他の従業員は、いつ戻ったかまでは定かでないが、既に手持ち無沙汰で油を売っていた。定時を三時間と超過していたが、それに苦言を呈するような質の高い労働者は、かのような暗がりの中にいる筈もなく、こうして作られた陰湿な空気というか空間が、常日頃から残業への同調圧力を生み出すことはもはや日常茶飯事である。

 それから更に遅れて来た柳田が、ひとしきり視線を回し、大して疲れていないことは見え見えなのに、あえて疲労感を主張するような声色で、

「ふう、みんな週の始めにも拘わらず、よく働いてくれたな。お疲れさん。ワシからの連絡事項は特にないが、何かある者はいるかね?」

 なぞわざとらしく戯けた。これを受け、いつもならば首を横に振り、無難な労いの言葉でも投げたのち、颯爽と帰宅へ転じる巧であるが、今日は違っていた。敵意を隠そうともせず柳田に近付くや、微かにざわめく場を右手で鎮め、またその静寂を発言の許可と勝手にみなし、口を開いた。

「それじゃあ、これまで温めておいた小噺でもお披露目しましょう。あなた方、底辺労働者には勿体ないくらいの傑作ですよ」

 泰然たる口調で強く言い放った。ここ最近の恐縮しきった彼の態度からは想像も出来ぬ豹変ぶりに、十数の視線が集中する。今度は、誰もが彼から視線を離すことはなかった。すると、柳田は流石に狼籍、慌てて制止しようと何か云いかけるが、巧はさもお構いなしに続けた。

「自分、トラックドライバーという職業に憧憬を感じて飛び込んできた訳ですが、ひと月やらせてもらい、そんな感情はすべて消え去りました。教育担当の佐藤さんは、口下手で腕っ節が滅法弱く、柳田社長の威を借らねば喧嘩も出来ぬ哀れなおやっさんでございますし、その柳田社長もまた、普段はニタニタと人当たりの良い男を装っているようでございますが、実際の所、法外な労働環境を黙認し、横乗りなぞいう不必要な研修制度まで徹底させ、立場の弱い労働者をこき使う豚野郎とお見受けしました。本来約束されていた自分の独り立ちを、まるでなかったかのようにゴミ箱へ放り込んだのは社長の指令だと重々承知しております。思えば、ここ数日佐藤さんのご様子がおかしかったもので、そこで気づけぬ自分もまた未熟であったことは認めますが、こちとら縋るくらいの気持ちでやってきただけに、所詮口約束と軽んじられたことだけはどうにも許せません。で、かように腐爛した弊社でございますので、自分は金輪際関わりを断たせて頂きたい所存ですが、その前に……」

 そこまで言い終えると、周りで驚嘆している者には目もくれず、柳田だけを一直線に睨み据えた。次いで、未だ余裕綽々な態度を見せている柳田に向かい、ファイティングポーズを決めると、刹那には挑発的な笑みを浮かべ、狼狽し泳ぐ彼の瞳を、なおも睨み続けるのだった。これには一同呆気に取られ、ただ唖然とするばかりであった。当の柳田は、暫くとまるで意表を突かれたような表情を浮かべていたものの、やがて真顔になり、凄んだ。

「おい、誰か片付けろ」

 このとき、真っ先に飛びかかってきたのは、やはり佐藤であった。大方、預けていた喧嘩の続きをしようという魂胆だろうが、トラックの車内という特異な密室ならばいざ知らず、通い慣れた事務所内の、あまつさえ社長公認の治外法権下で思う存分やり合えば、老体とはいえ、巧如き半端者に後れを取る筈がないと踏んだに違いない。だがそうだとすれば、なんと愚かな思い違いだろうか。

 巧は、俯瞰すると中肉中背の覇気がない一般男性であるが、実のところ、過去に幾多もの暴力沙汰を潜り抜けてきた百戦錬磨の喧嘩屋である。しかも、その暴力行為は、己と己が大切に想う者を守る為にのみ行使するといった、所謂高尚な手段ではなく、あくまで己の主張を貫き通す為、また気に食わぬ相手を打ち倒す為に、当たり前のように行使するものだ。常識人のようで、世捨て人の方に半身乗り出している巧だけに、他者を殴ることに対する畏れや抵抗は、微塵もないのである。それどころか、殴り合いこそが彼の本領発揮の場でもあるのだ。故に、相手が佐藤であろうとなかろうと、並のトーシローが相手では、赤子の手をひねるより容易い。その証拠に彼は、佐藤の腕が伸び切る前に手首を掴んでそのまま横へ躱したうえ、間髪入れずに半歩踏み込み、一気に間合いを詰めた。そうして懐に飛び込んだのち、がら空きとなった彼の腹部に、空いた方の腕で肘鉄を食らわせる。で、立て続けに掌底を放ち、顎先をモロに打ち抜いた。トドメは、すっかり怯みきった佐藤の足を弾いて床に転ばせ、その胸板を踏みけた。一連の動作はわずか数秒のことであったが、決着がつくには十分過ぎる時間だった。

 そして巧は、目前で無様に横たわり悶絶する佐藤を、勝ち誇ったように見下ろしながら言うのだった。

「哀れな社長の犬は暫く寝ていてください。自分、五十過ぎの老体をこれ以上痛めつけるのは些か気が引けるもので」

 この一部始終を見ていた他の社員たちは、ただ唖然としていた。それも当然か。やや老齢とはいえ、それなりに図体が大きく圧がある佐藤を、こう真っ向から圧倒したとなれば、巧はもはや、この場にいる者の大半が敵わぬ相手であるのだ。たとえ数人で戦ってもうち数人は致命傷を負うだろう。そう悟った彼らは、一斉に身構え、中にはあからさまに慄く者まで現れた。しかし、巧にとっては好都合なことに他ならない。何故ならば、これからの本番で彼らを巻き添えにするつもりはさらさらないのである。だから彼は、先手必勝とばかりに、曩に見せた凄みの面影もなく立ち尽くす柳田に、激しく襲い狂った。その柳田も反射的に応戦しようと拳を振るったが、巧は難なく躱し、今度は腹部への肘鉄なぞいう生温い攻撃ではなく、鼻頭をめがけて渾身の右ストレートを繰り出すのだった。その一撃は見事に直撃し、ギャグ漫画の如き血飛沫が吹き上がった。

 かくして、柳田も佐藤と同様、ものの数秒で倒れ伏し、勝負ありと相成ったのである。

 だが、鈍痛に悶える柳田と佐藤の姿を目の当たりにしても、巧の心はこれっぽっちも動くことはなかった。寧ろ、もっと苦しめてやりたいという加虐心すら湧いていた。だが、これ以上殴れば殺してしまうかもしれないと思い直し、その衝動を自制した。

 それから巧は踵を返し、涼やかな表情で事務所を後にするのだった。至極当然のことではあるが、このことを境に、彼はかの運送会社との繋がりを断った。

 これ程の大暴れを披露したが為に、後日警察沙汰となることも十分想定はしていたが、どういう訳かそのようなことにはならず、風の噂では反社会勢力との関わりがあったとして、会社そのものが解体まで追い込まれたらしい。であるならば、その筋の者からの恨みを多く買ってしまったことは紛れもない事実であり、今後夜道は背後に気を遣って歩かねばならなくなってしまった訳であるが、仮に何かしらの脅威が襲来しようものならば、陳腐な邦楽よろしく、喩えば世界中が敵になったとしても、降りかかる全てを返り討ちにしてやろうと意気込む、武闘派の巧であった。


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