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【長編小説】横乗り囚人 episode 7【完結】

 巧は、コールセンターオペレータに転身して以来、高村という男の存在を心底鬱陶しく思っていた訳だが、明確な縦線上にある関係が為に、耐え続けることを余儀なくされていた。それが今となれば、優位に立っているのは彼の方である。

 先刻の愚かな自爆発言を再度引き出し、言質を取るや、然るべき機関に訴え出ようものならば、高村は処分を免れない。これはしめたと思い、服の上から手探りに携帯電話を探してみるが、見当たらない。今度は巧が「しまった!」と言いかける事態となった。

 この期に至るまでのことをじっくり考えて見ると、そもそも業務に一段落がついた頃、唐突な呼び出しから始まった事態なのだ。ということは、だ。業務中、ただでさえセキュリティに厳しいコールセンターの事務所で、携帯電話など肌身離さず持っている訳がない。それは、常日頃から徹底されているセンターの共通認識であり、巧もまた例外ではないのだ。何せ、仮にこそこそと電子機器を持ち込み、発覚しようものならば、それこそ懲戒解雇の対象となる。

 巧は迂闊だったと悔やみ、目には涙まで滲ませた。だがそれでも、かの高村に対し優位に立っていることには変わりない。ならばと、

「生憎ですが、自分は自主退職なぞする気はありませんな。高村さんこそ、自身の不埒な行いを恥じて退職されてはどうですか? まあ、平のオペレーターの戯れ言と聞き流して頂くのは大いに結構ですがね、今後暫く、あなたを軽蔑しますよ自分は。金輪際、あなたの命令には従わぬこととします。仕事だって、これまで以上に適当にやります。それで、文句はないでしょう」

 せめて最後に、後味の悪い珍味でも喰わしてやるつもりで、毅然とそう言ってのけた。高村の顔が、いよいよ引き攣っていく。しかし、巧が優位と見えた幻想は直ぐと砕かれてしまうのだった。高村は再び顔を赤く戻し、

「ああー? なーにを云っとるだー? この私が、何の武器も持たずに君のような訳の分からない男と対峙すると思ったか? ああー?」

 曩の顔色が嘘であったと気づくのに、数秒は遅れた。ここで先手を打っていれば結果はまた違ったのかもしれぬが、このときの巧は高村の狼狽具合にすっかり油断していた。

 高村が誇らしげな顔で差し出してきたのは、巧の履歴書であった。そこには、巧のこれまでの職歴から学歴、資格の有無までもが、事細かに記されていた。嘗てない程の嫌な予感が彼の頭を揺らした。まさか、と。だが高村は容赦なく云う。

「この履歴書に書いてある経歴、ぜーんぶ出鱈目だろう。おおー? こればかりは本当に調べがついているだ。おおー? 経歴の真偽なんてー、探偵を雇えば直ぐに分かるだー。まあ、普通はそんな面倒なことをしないだろうが、今回はわざわざ興信所に依頼して調査済みだから、もう言い逃れはできんぞー。ああー?」

 だが巧も、苦し紛れだが強く言い返す。

「いやいや、仰っていることの意味が分かりません。第一、嘘であることの証拠はどうなさるおつもりで? それこそ、水掛け論になるだけでしょう。学歴や資格ならば、書面での証明を求めれば良いのでしょうが、職歴までは証明できませんよ。自分を懲戒解雇とするには、これでは理由が足りませんな」

「きみー、やっぱりあかんわ。今日はやけに頭が切れるから、どんな反論をするかと思ってみれば、しょーもない詭弁やないか-。おおー? 君、今年に入ってから入社した運送会社を一ヶ月で辞めとるだろー? 雇用保険の手続きと、興信所の調査も併せてその辺りのことは全て把握しとるだ。でー、履歴書にはそれを書いてないようだから、立派な経歴詐称で解雇の対象になるぞ。おおー?」

 巧は、絶句した。結果として、高村の発言は正鵠を射ていたのだ。社会構成を鑑みると、正直に経歴を書く方が阿呆だという、巧の思想に基づいて盛り付けられた彼の履歴書が、このように徒となるとは、なんとも皮肉的な末路だ。また、それだけに痛い。許容しがたい激痛である。

 こうなればもう、俄然暴力に訴えるしかなかった……。


 巧は、得意げに嗤う高村に勘付かれぬよう、能う限り無音で肩を丸め、若干半身になる形で右腕を抱えた。狙うのは、肘鉄だ。だが、ここで初動を悟られては全てがおじゃんだ。ならばと、相手が老翁の高村とて警戒を怠ることなく、いつか見せる隙を探った。その刹那、高村が動く。

 だがそれは、断じて隙なぞではなかった。なんということかこの男、巧の至妙な挙動から異変を感じ取ったか、車外へ出ようと動き出したのである。巧は、今度こそ完全に意表を衝かれた。彼にとって不都合な動きであることは勿論、あまつさえ高村の刺すような瞳が、常にこちらを捉えたままであったことには吃驚させられた。巧は慌ただしく腰を上げ、高村を追うように助手席から降りる。その瞬間に感じた違和感は、車外で再度高村を見やったとき、確信へと変わった。何故ならば、彼はこちらの動きを遍く想定し、全て読み切っているかの如く、悠然と待ち受けていたのだ。

 単なる思い違いと、自身を納得させることは容易であった。が、社会の下層に生き、数多の法外な場を潜り抜けてきた巧であるからこそ、高村の背後に垣間見える脅威性を識り、またそれに因って、硬直状態に陥っているのだ。この男、只者ではない。巧はそう確信している。

 すると今度は高村が、車の前方へやおら足を運ばせながら云うのだ。

「ほーん。きみー、なんだーその顔はー。おお-ん? 誰に向かってガンを飛ばしとるだー? あー? 私は、スーパーバイザーの高村だぞ。おおー?」

 巧は、その言葉が終わるのを待たずに、高村へと猛進した。辺りは閑静な住宅街、まして平日昼間とあれば、通りかかる人々に目撃されるリスクもさほどない。であるならば、もはやここで早期決着を狙うしかない。死なば諸共ではないが、あれやこれやとつまらぬ逃げ道を模索するより、余程単純且つ明快な手段だ。

 高村は、少し驚嘆した様子で後退ったが、それでも想定したよりかは幾分も落ち着き払っている。やはり、何かしらの心得があるのだろう。だが、巧としても彼の思惑通りに動いてやる気は毛頭なく、トーシローでは到底扱えぬ変則的な動きで、相手との間合いを詰める。で、丁度同じくらいの背の丈である高村の顎を砕くべく、瞳の高さから右の拳を突き出した。しかし、結果としてその打撃は空を切ることとなった。高村は、まるで予期していたかのように、巧の右腕を半身になって受け流したのである。そして、拳を上げがら空きとなった腹部を、頑丈な膝で以て強く蹴り上げてきた。これは、避けようのない攻撃であった。

 膝がみぞおちにめり込んだ。途端、視界が暗転し、呼吸が止まる。腹を抱えて屈み込む巧に対し、高村はなおも容赦のない追撃を加えた。砂利を纏った革靴が、アスファルトに蹲る彼の後頭部に、二度三度と打ち付けられた。巧は堪らず横に転げ回り、悶絶した。瞳は、小刻みに揺れたまま。頭上では、星が散る。そんな彼に追い討ちをかけるように、高村は言い放つ。

「君なんだあほんとに。喧嘩の方もてんでダメやないかー。ああーん?」

 巧は、負けた。完膚なきまでに。

「それじゃあ改めて、文元君。きみー、経歴詐称でクビや。会社へ戻ったら、荷物を纏めて帰っていいぞー。おおー? それで明日からは、もう出勤して来なくてええわ。分かったか? おおー?」

 言葉を返す余力はもう、ない。敗北感、屈辱感、劣等感。続々と湧き出す負の感情が入り交じり、正常な思考なぞ働く筈がなかった。地に伸びたまま空を眺める。蒼穹は知らぬ間に曇天へと移ろい、いっそ沛雨でこの汚れを流しきってくれたらと願うも、叶うことはないまま暫くの時が過ぎた。


 春にしては冷たい雨が、肌の擦り傷を冷やす。頬を伝い落ちる雫が涙なら、少しは救いがあるのだろう。が、何しろ巧という人間は、己のつまらぬ過ちを省みて悔涙なぞ流す柄ではない。

 雨脚は次第に弱まり、空に束の間の陽が差した。砂埃を払い、蹌踉めきつつ立ち上がった巧は、千鳥足で会社を目指した。

 会社へ着いて早々、砕けそうな腰を壁で支えながらフロアを覗いた。そこでは、既に巧のいないコールセンターが動き始めていた。当然だが、高村、村橋の姿もあった。こうして見ると、オペレーターは機械のようだ。いや、機械なぞ高尚なものでもない。精々、パーツがやっと。会社を作る枠組みがこの気色の悪い雑居ビルだとすれば、机も椅子もパソコンも、その全ては部品の一つで、人間もまた、それらの物体に組み込まれたパーツに過ぎない。であるからには、一つ二つ欠けた程度では何も変わらないのだと、そんな理解だ。

 巧は馬鹿らしくなった。労働もそうだが、人間であることや、命を働かせることにもだ。高村の言葉通りに動くのは癪であるが、そんなことすらもはやどうでも良くなった。

 で、ロッカーに詰めた荷物を掴み、肩で背負うや、折悪しく響いた何かの入電音に合わせるようにして、

「お電話ありがとうございます」

 なぞ嫌味で返したのち、また文句をつけられても面倒なので、そそくさとフロアから立ち去るのだった。


 
 黄昏の空気は案外新鮮なものだった。時刻にして十六時前、町は見慣れぬ色に染まっている。見惚れながら歩くうち、いつかの居酒屋が目に入った。ゆき。そうだ。言葉にできなかったあのときの感情を、今夜の酒ならば上手く纏められるやも知れない。そう思ったときには、店の扉に手を掛けていた。

「いらっしゃい」

 相も変わらず客に媚びない声が出迎えた。かの長い白髭も健在のようだ。閑古鳥が鳴く店内は、夕暮れ頼りの薄暗さであったが、かえってその暗がりが心地よく思える。巧は、一番奥の席に腰を下ろした。店主は何も云わず、メニューを渡して来る。まったく無愛想な老翁だ。

 いつかの夜とは違い、巧の方から論争を仕掛けてゆく。

「生ビール、頂きましょうか」

「はいよ」

「マスター。自分の顔、覚えていらっしゃいますか?」

 すると彼は、カウンターの奥で目は背けたまま、

「……お客さん二度目かい。そういや、見たことのある顔だ」

 なぞと、呟くのだ。巧としては、何を耄碌しているんだと問い質したいところである。しかし、馬鹿な説法をしたとはいえ、嘗ての自分、それから川井もだが、月を跨いで記憶する程の客ではなかったのだと、自ずと納得した。

 して、運ばれてきたビールで喉を鳴らすや、いつかのことを思い出させてやろうと口を開けた。

「自分ともう一人で来たのは、三月のことでしたかな。もう一人ってのは自分より十も若い青年で、二人揃って非モテを拗らせていたもんで、あなたが色恋至上主義を語ってくれたわけですよ。まあ、片っ方の耳には良く届いていたみたいですがね、何せもう片っ方は、吹き抜けるように飛んじまってるみたいですから、よろしければ今一度ご教授願いたいものです」

 言いながら苦笑を漏らすと、店主もまた動じず返した。

「ああ、あのときの。へえ、ほんなら青年の方は上手くいったようで、あんたはダメだったと」

 この皮肉じみた云い草に、巧はカッと来た。単純な怒りの純度ならば、昼の件よりも高い。そしてその激情に任せ、捲し立てた。

「マスター。あなた、何を勘違いしておられるのかさっぱりですが、自分は女なぞに現を抜かす人生を望んではいないと、きっぱり申し上げておきましょう。それどころか、仕事さえ適当で良いと考えている口です。現に、今日は会社をクビになって来ましたから。で、何が言いたいかというと、とどのつまり人は孤独から逃れられないということですよ。あなたの云う成功の先にある性交なんて、愚の骨頂です。馬鹿馬鹿しい。人なんてものはね、裏返せばドロドロの内臓と、スカスカの骨と、クサクサの糞尿で構成された汚い妖怪なんですわ。自分、三十二年も生きて、それがよく分かりました。そんでもって、その汚い妖怪が同じように汚い妖怪とくっ付いたとて、最後は無惨に塵となるだけです。その過程に何があろうと、別に大した問題じゃあないんですよ。仕事をして生きようが、女を抱いて生きようが、ゴロゴロして生きようが、そんな生き方如きに意味なぞ求めることがナンセンスで、つまるところ無に勝るものはないのです」

「ほう……それはまた捻くれた考え方だ。大方、あんた自身が取り返しがつかない歳になっちまったもんだから、必死に正当化しようとしてるだけだろうがね」

 今度は、動揺なぞしなかった。何らかの感情が動くこともなく、ああ、デカい口を叩いても結局はこの程度かと。で、ここからは推測であったが、どうせ来たのならもう一泡吹かせたいと欲張る巧は、

「マスター。正当化したいのはあなた自身では? この店だって、嘗ての女の名前を看板にするくらいだ。情けない。くだらない。あなた、人に物を云えるような立場じゃあないでしょ」

 するとこれがドンピシャだったのか、店主は急に顔を強ばらせ、早い足取りでこちらへ寄るやうんと凄み、巧の胸ぐらをカウンター越しに掴んでは引き寄せた。そして一言。

「余計なお世話だ。そいつを飲んだらさっさと帰れ」

 なぞ吐き捨てると、乱暴に手を離した。巧は、反撃に打って出ることも考えたが、やめた。そして、ビールを飲み干すこともなく店を出た。無論、予め右のポケットに忍ばせておいた、五○○円を投げたうえで、だ。もう、ここに来ることはないだろう。


 
 町は夜だ。夜は好きだ。この町の夜は、特に。それなのに、今は何もかも汚れて感じる。行き交う人々の火照った顔も、町の淀みを演出する喧噪も、見慣れた提灯の連なりも、どこまでも深い大河のような空の紫さえ。

 無の持つ自然美に取り憑かれた巧は、行き先も決めず歩き出した。ただ、雲間から差す月の光に背を向けて。

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