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【長編小説】横乗り囚人 episode 6

 三 虚無

 かの川井幸広という、広義では同族であった男が、突如として行方をくらました件で、少なからず喪失感に苛まれているのか、巧はそれからの数日間で、漫然とミスを犯すことがぐんと増えた。彼自身、そのミスを反省する気もなければ、今後改善に努めるといった気もさらさらないのだが、ミスの付録として付き纏う高村からの叱責が、どうも今以て鬱陶しく、今日も今日とて幾度かあの耳障りな小言を聞く羽目となることを思えば、出社して早々陰鬱な面持ちにもなってしまう。

 だがその裏では、過ぎ来し方、運送会社や自動車メーカーなぞ比にならぬ、過酷な肉体労働でへばり、身体を悪くした経験を持つ巧だけに、身体的負担が少ないコールセンターでの業務には、案外適性があるのではないかとも感じ始めていた。それだけに、高村の存在だけがどうしても気に入らないのである。

 あまつさえ、通販会社のカスタマーサポートは、平のオペレーター一人で八割方完結する業務内容であり、同僚との煩わしい雑談や連携が発生しない。故に、何度も繰り返すようだが、スーパーバイザーの高村という悪性腫瘍さえ切除できれば、これより楽な仕事は早々見つけられないと言っても過言ではないのだ。非正規といえど、直の雇用契約を結んだアルバイターである巧は、贅沢を望まぬ限りは前途が安泰である。またまた繰り返すようで諄いが、それ程までに高村は本当に本当に邪魔で邪魔で仕方ないのである。

 結句、柄にもなく業務開始直後の八時三十二分に最初の顧客からの入電を取るまで、巧の脳内は高村に侵食され続けるのだった。


 巧の周囲で明瞭な異変が起き始めたのは、また暫くと空白な時が流れ、五月に入ってからのことである。その頃にはもうくたくたになっていた、手元のトークスクリプトで対応しきれぬような、異端クレーマーに遭遇することは、巧の感覚では日に対応する顧客全体の一割未満であったが、何故か近頃は追い打ちを掛けるように多いのだ。巧にばかりその手の異端者が集中しているのは、もしや高村の嫌がらせに因るものだろうかと、薄々感じ取ってはいたのだが、それが如実となるきっかけは、或る日の午前に彼と交わしたこんな会話だった。

「文元君、ちょっと」

「はあ、なんでしょう?」

「どうだあ? 最近は」

「どうと仰いますと、一体何のことで?」

「ここ最近、癖のあるお客様が多いだろう。あれはな、実を言うと私が君のクレーム処理能力を見込んで、他のオペレーターには少々荷が重いような案件を、重点的にまわしとるんだ。でー、様子を見とったんだがー、まあ、話の通じない相手には話の通じないオペレーターをぶつけるという、私の作戦は間違っていなかったらしい。随分と上手い具合に会社が回り始めたもんだなあ。おー?」

「いやいや、それは御法度でしょう。何故に自分だけがそのような負債案件を背負わねばならんのですか。勘弁してくださいよ」

「ああー? きみー、誰に口答えしとるだあ。私は、コールセンターのスーパーバイザーだぞー? スーパーバイザーの高村だぞー? おおーん?」
「いやいや、役職の問題ではなく、人間性の問題でしょうよ。あなたの一存で、自分にだけ業務上の負荷を重くするなんて、これは職権乱用も甚だしく、自分、はい分かりましたと、素直に頭を下げる訳には行きませんな」

「きみー、なーにを云っとるだあ?」

 この会話からして既に常軌を逸しているのだが、高村は続けざまに云う。
「ちょっと、あかんわ。文元君、一回外出え」

 前例のない提案に、動揺の色を隠せない巧であるが、しかしここで折れては相手の思う壺であると思い直し、毅然とした態度で一度は拒否を試みた。だが、いつものことながら傍若無人な高村に押し切られる形となり、コールセンターでは異例の退出沙汰へと発展するのであった。


 外に出るや、高村はこう告げた。

「近くに会社が借りている駐車場があるもんでー、ちょっとそこまで着いてこんか」

 これは、あまりにも予想を覆す展開となった。無論、巧とて馬鹿ではない。会社の敷地外にまで連れ出された時点で、何かしらの嫌な予感はしていた。が、これ程までの暴挙に出るとは思いも寄らなかったのだ。巧としては、これに背き逃げるという選択肢もあったが、そうなると今度はより質の悪いトラブルを招き兼ねないと踏み、どうで徒労に終わる話なら、望む限りどこまでも付き合ってやろうと、腹を括った次第である。

 高村曰く、向かう先は会社の駐車場とのことだが、巧にすればその存在自体が初耳で、あまつさえ足を進める方向が船橋駅から正反対となると、いよいよ不安感が増してくる。

 小さな石橋を渡り、来たこともない住宅街に迷い込んだかと思えば、直ぐとまた広い道路に突き当たり、駅前の滅茶苦茶な繁盛ぶりには及ばずとも、それなりに栄えた様子を見せる商店街に出た。ここまで既に十分弱も歩き続けており、急勾配の坂を登り切ったところに、漸くそれらしきパーキングが見えた時には、思わず安堵し胸をなで下ろした。

 右端の白い軽バンが社用車だと、高村は云う。で、さらに耳を疑うようなことを口にした。

「ぼーっとしとらんで、早く助手席に乗らへんか。今日はこれからみっちり研修したるぞー。おー?」

 何が何だかさっぱりと分からない巧であったが、高村に云われるがまま、大人しく助手席に乗り込んだ。で、まず驚かされたのは、車の内装だった。カーナビやオーディオ類の電装品は一切なく、加えてシートにせよハンドルにせよ、使用感が皆無である。新車という印象を植え付けられてしまいそうになるが、それもまた違う。なんというか、淡泊過ぎるが故に汚れ事だらけにも見えるというべきか、ごく普通の軽バンに乗り込んだと納得させるには、少々違和感を覚える雰囲気が充満しているのだ。

 高村の身体の隙間から覗くドアポケットには、数枚の書類があった。瞳を凝らし、それが従業員たちの履歴書であると気づく。それが何故、かのような孤立した場所に保管しているのか、如何様に推理を張り巡らせようと、武に突出して構成されている巧の頭では答えに辿り着くことはできなかった。

 車だが、発進する気配は一向に感じられない。横に座る高村は妙な沈黙を貫きつつ窓の外をどこ吹く風と眺め続けているし、ハンドルこそ握ってはいるが、エンジンはいつまで待っても掛からない。なんとも奇っ怪な空間、及び時間である。巧は、すっかりとその空気に飲まれてしまったようで、高村に倣って窓の外に視線を遣ることしかできずにいた。というのもやはり、下手をこいて職を失うことが、今は何よりも怖いのである。失業なぞ屁でもなかったこれまでの巧が知れば、きっと鼻で嗤うような有様である。

 崖っぷちに追いやられたことで、再び社会から脱線することへの恐怖心が、嘗てない程に増大し続けた所為か、元来彼の軸となる短気であるとか、加虐的思考というものが、連れてきた猫の如く微動だにしなくなっているのだ。でなければ、かの巧が高村風情に後塵を拝することなぞ、万が一つにもありはしないのだから。

 十五分が経過した頃、高村は漸く切り出した。

「もう、陳腐な探り合いはやめへんか」

 当然ながら理解が及ばない話だ。巧は、何かを探っていたつもりなどなかった。だが、高村はなおも続けた。

「気づいてないとは言わせへんがな。村橋のことでー、きみはどーせどっかから聞き及んどるんやろ? おー?」

「は? いえ、何のことだかさっぱり」

「この期に及んでしらばっくれるのは辞めへんかー。おおーん? 私は、スーパーバイザーの高村だぞー? 現場の空気は、この私は一番良く分かっとるんだ。いつも彼女の隣で、ぬくぬくと油を売っている君が、まさかこのことを知らないわけがあらへんがー。おー?」

 巧は、押し黙る他なかった。何せ、全く心当たりがないのである。かの村橋という人妻オペレーターは、以前数度気に懸けたことはあるものの、もはや彼にとっては興味の対象ですらなく、川井のように、外面と内面に多少の乖離がある人間であらばいざ知らず、村橋は見るからに浅薄というか、人目を引く為に生温い不幸を装い、取るに足らぬ駄文を綴り、あまつさえ既婚の身でありながら惨めな男漁りを続ける病人という認識なのだ。それが為に、巧は彼女と個人的に関わり合おうとは思わなかった。というか、どう転ぼうともそんな風には思えないのであった。確かに、彼女の落ちぶれた毎日が何かの間違いでも上昇気流に乗ってくれれば、それはまた観察のし甲斐があるだけに、喜ばしいことではある。であるのだが、つまるところどちらでも良いというのが本音だ。どうなろうと構わない。やはり、それに尽きる。

 巧は、かのように荒れ狂う困惑の中で、それでもどうにか高村の云わんとしていることを察した。漠然とだが、ただ一つ確信したのは、話そのものは業務に直結するようなことではないということだ。要するに高村は、村橋に関する何らかの情報を掴んでいる。そしてそれを、巧に対して開示しようとしている。と、読み取れた。だがそれはあくまで、巧側でも本件に関してあらかたの検討がついているという前提の上に成立する話で、生憎こちらではさっぱり分からぬとなれば、寧ろその開示に因って、巧の持つ何かが犠牲となる可能性があり、であるならば恐怖こそすべきであって、暢気に興味なぞ抱いている場合ではない。が、ここまで来たからには識りたい。社用車の車内に上司と二人きりという不可思議な現も相俟って、トラックドライバー時代の巧を酷く悩ませた、いつかの煩雑な葛藤が、奇しくもここで蘇ることとなった。それで、巧はまた同じ過ちを犯すことになるのであった。


 返答に迷うこと数秒。たったの数秒の筈が、高村は痺れを切らしたようにこちらへ顔を向け、いつになく縦皺を寄せた顔で云うのだ。

「きみー、村橋と不倫しとるだろ-」

「はぁ?  何を馬鹿なことを!」

 内容が内容だけに、思わず声を荒げてしまう巧である。

「おー、やっぱり図星やったんかいなー。あの女狐と、毎晩しっぽりやりまくっとるんやろー」

「自分、何故そのような疑いをかけられているのかさっぱり分かりませんが、きっぱりと否定させて頂きます」

「しらを切るのも大概にせえへんかー。社内じゃ有名な話やぞー。ああーん? 村橋の方が、文元に色目を使ってるちゅう話だー。おおー?」

「自分は彼女と個人的な話をしたことすらありませんし、村橋さんが既婚者であるということは、他のオペレーターのプライベートに疎い自分ですら識っている周知の事実ですから、その上で彼女と関係を持つわけがないでしょう。仮にそのようなことをしでかそうものならば、瞬く間に社内に広まってしまうじゃないですか」

「ああー? もう裏は取れてるんだぞー? この高村が、村橋に直接訊いたんだ。そうしたら村橋は、文元君に好意を寄せていたのは事実ですと、それに、彼と親しい関係にあるのも間違いありませんと、あっさり認めただー。これはどう説明する気だー? おおー?」

 巧は、呆れた。何が悲しくて、こんな無茶苦茶なこじつけを信ずる者がいるのか。それに、どこか妙な話だ。高村のでっち上げにしては不可解な点が多く、何より作りが甘すぎる。

 ここでふと巧の脳裡に浮かんだのが、村橋の色恋に対する尋常でない執着であった。巧に惚れていると云う、村橋の言葉が真実だったとして、彼女に何かくだらぬ思惑があり、大層激化した言い回しで高村に伝えたとすれば、ここまでの辻褄が合わぬこともない。

 巧はいつもの繕いを捨て、訊いた。

「高村さん、彼女に何を吹き込まれたか知りませんが、どうであれ自分にはまったく心当たりのないことです。とばっちりなんですよ、完全に。ですが、それ以前に妙なのはあなたの言動です。仮に自分と村橋さんが邪な関係であったとして、あなたに何の関わりがありますか? こんな辺鄙なところまで呼び出して、狭苦しい密室で、顔が赤くなるほど必死になって、自分を問い詰める必要がありますか? 正直に申し上げると、その辺りに強い違和感を覚えております」

 高村が顔を紅潮させていることにはとうに気づいていた。昨夜飲みすぎた酒の所為であるならば、殊更に気にすることでもないのだが、なまじ仕事への意識が高い高村だけに、そのようなつまらない真似をすることは考え難い。で、気になるのはその訳だ。酒の線を捨てて考察すると、浮かび上がるのは二つ。緊張、若しくは焦燥である。

 前者はどうだろう。無能な部下に対しどこまでも傲慢で、根が図太く見える高村に限ってそれはない筈だ。まして、年頃の成人男性二人が、平日昼間から秘め事に高じるような妄想を張り巡らせ、鼓動をバクバクと早くしていることもあるまい。彼にそのような性癖があるとすれば、状況は最悪だ。

 で、後者だ。何かしらの焦りを覚え、自身も最善でないと知りつつ、仕方なしにかの奇っ怪な空間を生み出したとすれば、案外筋が通る。ここで仮説として挙がるのは、村橋との不倫を口実に、巧を社内から排除しようと企んでいる可能性だ。やっていないことの証明は不可能とする、悪魔の証明なぞいう理屈を用いれば、コンプライアンスやら社内風紀の乱れやらで、幾らでも誇張して遍く言い回せるだろう。ならば、だ。何故そのような回りくどいことをするのかという論点に移る。巧が隠れ武闘派であることを知らぬ高村は、その持ち前の傲慢さで、過度のパワハラでもして退職へ追い込もうとするのが自然ではないか。

 あと一歩、あと一欠片、どうしても届かない最後の空白を埋めたのは、他ならぬ高村自身であった。

 反論を受け、高村の表情は見る間に歪んでいったのだ。「しまった!」と謂わんばかりの歪み様である。これではっきりした。

 高村は何らかの理由で、巧を社内から追放しようとしているのだ。そして、彼の反応を見る限り、それは決して気まぐれではないし、村橋のとんでも発言を真に受けての奇行でもない。彼が、何か明確な意志を持って、そう行動している証拠だ。巧は、今なお押し黙ったままの高村に追撃を試みる。

「もしや、あなた自身も一枚噛んでいるのでは? 自分、あなたの狼狽具合を見たうえで、この不穏な考えも浮かんでおりますが、いかがでしょう? 違うなら違うと、先刻自分がそうしたように否定ななさってください」

「……ぶん!」

 今度は顔を青くして、あまつさえ不機嫌そうに鼻息を鳴らす高村。肯定とも取れる態度だが、そののちに零した言葉は、やはり予想通りの内容であった。

「きみー、どうして仕事のときにそれくらい頭を回転させなんだー。ああーん? まあ、ええわ。どうせ君とは今日でお別れだからなー、言ったるわ。村橋と関係を持ったのは、この私、高村だー。スーパーバイザーの、高村だー。このところの君の様子を見ているうちに、どうも杜撰になったその仕事ぶりを見ているうちに、席が隣だってこともあって、もしかしたら気づかれたんじゃないかないかと思ってなー。それで、揺すってみることにしたんだ。クレーマーからの入電を集中させたのも、不倫の疑いをかけたのも、全ては君を自主退職に追い込もうとして、恣意的にやったことだ。ああー?」

 巧は心の中で舌打ちをし、刹那には白けた気分にもなった。どこまでも愚物である目前の男が、あまりにも哀れに見えたからだ。

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