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人と文化が定義するそれぞれの冬

オーストラリアで2度目の冬を迎えようとしている。去年過ごした街よりだいぶ北上してきたとはいえ(北に行くほど温かい)、やっぱりこの寒さは苦手だ。中途半端な気温ゆえ暖房もろくになく、厚着をして湯たんぽを抱える日々がはじまった。

「オーストラリアは南半球にあるので、日本と季節が真逆です。シドニーやメルボルンなどの南のほうの都市には、日本同様に四季があります」

オーストラリア留学・観光の案内には、たいていこのように書かれている。「日本を逆にした」気候であると。しかし実際オーストラリアに住んでみると、これは正しいようで全然正しくない。「季節観」のギャップが激しく、とてもじゃないけど日本の逆などという単純な話ではないのだ。

ちょうど1年前の2019年5月下旬。私は冬を迎えようとするメルボルンに、スーツケースひとつの乏しい装備で乗り込んだ。オーストラリアの主要都市の中では最南にあるメルボルンとはいえ、そこまで寒くはならず気温にして5〜10℃ほど、都市部では雪も降らないと聞いていた。

どちらかというと冬が好きな私は、荷物が増えて面倒だくらいの軽率な気持ちだった。しかし現地で出会うオージー(オーストラリア人)や在住者から、「悪い時期に来ちゃったわね」「なんでまた今の季節に?」などと言われまくる。

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↑メルボルン・サザンクロス駅にあった近場のスノーリゾートの広告

個人の感じ方もあると思うけれど、あまりに多方面から言われまくる「こんな時期に」から私が察したのはこうである。

オーストラリアでは「冬=ダウンサイド、みんなが嫌がる季節」という意識が他の国よりもはるかに強い。冬以外こそが素晴らしい季節で、寒くて辛い冬はみんなで耐え忍びましょう。またやってくる“いい季節”を楽しみに。そんな認識が全体に広がっているように思えた。

少し大袈裟かもしれない。しかし、街や暮らしが明らかに冬を考慮したつくりになっていなかった。中心街の移動は基本的にトラムで、吹きさらしの屋外で何分も待つことも珍しくない。開放的なオープンエアー構造のモールは閑散としていた。日本のアウトレットのように店内はさすがに温かいだろうと期待したが、ドアが全開で暖房も効いていないため外と変わらなかったりする。

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↑閑散とするオープンエアーなモール

耐えかねて少し気温の高いシドニーに移ったが、家にヒーターはないのかと家主に尋ねると、湯たんぽを渡され「それでしのいでちょうだい」と何の悪びれもなく言われた。全体的に謎のあきらめモードで、温まれる場所がどこにもなくてすっかり参ってしまった。

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これはシドニーやメルボルン(南のほう・寒い)で見かけた、ブリスベン(北のほう・暖かい)の観光広告だ。「This is WINTER IN BRISBANE」というコピーが、オーストラリア人たちがいかに寒さをネガティブに捉えているかを表していると感じた。

この広告は日本でも通用するだろうかと考えてみるが、たとえば仙台あたりに「東京にくればもう少しあったかいよ!」という広告があっても機能するイメージはあまりわかない。沖縄ですら、暖かさを訴求した広告はあまり見ないかもしれない。

時間的にも空間的にもオーストラリア全土のなかで「寒い」が限定的なため、人々の意識が四季をフラットに捉えられないのだと思った。この意識の差により、実際の気温よりもずっと惨めな気持ちにさせられる……というのが、「メルボルンの冬は辛い」のからくりな気がしている。

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逆にもっと寒い都市のことを考えてみる。たとえば、かつて少し住んだことのあるカナダ・トロントは、冬はマイナス20度にもなる極寒の地だ。

それを聞いた日本人は「信じられない」という顔をしてまず住みたがらない。しかし実際に住んでみると、快適に暮らす工夫がいろいろと見えてきた。

移動は基本的に地下鉄で、ダウンタウンに張り巡らされた地下道を使えば、地上に出なくても数駅単位で行き来ができる。歩道には凍結防止の塩が撒かれて自然に雪が溶け、交通がストップするようなこともほとんどない。家はセントラルヒーティング搭載で常にあたたかく、暖房を付けたり消したりという概念すら存在しなかった。

日本では真冬でもパンプスを履いたり、寒さ対策よりもTPOを重視することもあるけれど、氷点下ともなればそれどころではない。人目も気にせず強力なスノーブーツとコートで完全防備、それを変な目でみる人は誰もいなかった。

「セブ島やフィジー留学なら年中暖かい」
「ヨーロッパの冬は天気が悪くて鬱になる」
「カナダは寒くて無理だからオーストラリアにしよう」

留学や移住先の街を検討するとき、こんなふうに「天気・気候」を判断材料にするのは、心地よく暮らしていくためには重要だ。けれど、物理的な天気だけを見て判断してしまうのは少し違うのかもしれない。

「季節」は単なる気候や温度だけでなく、文化や国民性、歴史、インフラ、いろいろな人間的要素が絡みあってできあがる。人間がつくる営みによってバランスが取られ、逆にいえば「季節」をどう充てがうか次第で「気候」の捉え方はいかようにも変わるのではないかというのが、この国に来て気づいたことだ。

それに気づくと、日本の四季が恋しくてたまらない。衣替え、風鈴、こたつでみかん、扇子、浴衣、打ち水、流しそうめん、かまくら、日本庭園。涼しさを五感で感じられるようなアイテムや、寒さをさらっと温かみに変えてしまう仕掛けの数々。

それぞれの季節をなんとかして平等に楽しもうとする日本の心が、とても美しく誇らしく思える。そんな母国の文化に思いを馳せながら、今日も今日とて凍えているのでした。

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