たまに自分のnoteを見直してみる
があ~~~~連日の飲み会で体がまだだるい。肝臓が休ませてと叫んでくる。さすがに今日は飲まないので、肝臓さん、ゆるしてください。
昨日、こんな記事を書きました。
僕はたまに自分が書いた記事を読みなおします。誤字脱字がないかはもちろんだけど、内容についても読み返してみています。1時間前に書いた記事なのにちょっと考え方が変わっていたり、数日経っても考え方は変わっていなかったりするので、自分の考え方の変化がわかっておもしろい。
自分が書いたものを見直すってけっこーこそばゆいんですけどね(笑)。そして、昨日書いた記事を読み直してみると気づいたことがありました。
まとめとして書いた「自分という存在をみんな使い分けられるようになってきたのかもしれない。」
という偉そうな言葉。
3日連続での飲み会を経て、飲み会での「自分」を使い分けられるようになってきた人が多くなった。と、書いた時は思っていたけれど、実はちょっと違うんじゃないかと。
コロナや、○○ハラスメントという言葉や、働き方改革といった言葉たちがこの3年世の中を駆け巡ってきた。
コロナ以前から、人間はどこでも自分を使い分けたかったけれど、社会がそれを許していなかった。若手社員に人権などないし(普通はありますよ)、飲み会を途中で抜け出すなど言語道断。
本当は早く家に帰りたい人も、ずーっと飲み会を楽しんでいた人も、みんな一緒くたに扱われていた。
それが社会の変化によって、「飲み会?途中で帰って当たり前でしょ」というのが当然のように受け入れられつつあるし、若手社員は大事に扱われるようになってきた。
つまり、「自分という存在を(個人が)使い分けられるようになった」のではなく、「使い分けることを社会が許容し始めた」ということ。
日本的な村社会の考え方でいうと、個人の変化というより社会の変化が個人に自由やその逆をまたもたらすと思う。だけどだんだん、個人の変化が集団を変えるようになってきた。鶏か卵かみたいな話になりそうな予感もあるけれど、間違いなくこの3年は社会も個人も変化した。
なーーーんてことを読み返しては考えてみています。これに当たりも外れもないとは思いますが、、。自分の考え方がどう変わっていたり、変わっていなかったりというのは、「自分の記事を見直す」ことによって分かりそうです。
最近、noteを書くことを習慣にしてみて、いろんな気付きがありました。実際に手を動かしたからこそ、わかること。まだ1ヵ月ですが(笑)
そんなこんなで、今日の更新で1ヵ月連続投稿になりました(パチパチ)
1ヵ月の振り返りはまた書くとして、みなさんのたくさんのスキやコメント、嬉しいです。「わにのこさんのファンです!」なんて言ってくださる方もいて、めちゃくちゃ嬉しくてフライアウェイできそうです。
僕の言葉がどんな役に立っているのかマジでわかりませんが、引き続き書いていきたいと思います。よろしくお願いします!
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