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書くことの効能と内面への孤独な旅-固定記事アップデート2023

あれよあれよという間に10月が終わろうとしている。2023年も残すところあと2ヶ月となった。第3クウォーターの読書をまとめていないのがずっと引っかかっているが、今日は固定記事のリニューアルだ。

前回のものはこれだ。

要するに自分は何で書いているのか、という話だ。書くこと自体に意味がある、という考えは相変わらず変わっていないが、この2年弱の経験を踏まえて少しばかりアップデートを試みたくなった。

■ 書くことに再び取り組み始めるまで

書くことの自分史を振り返ると、小学校の作文(フィクション)でヒットを打ち、中学校のクラスノートみたいなもので教師を喜ばせ、高校では・・・あんま書いてないな・・・大学時代以降はインターネットという格好のフィールドを得て、ほそぼそと書き続けてきた。

ただ、もう少し真剣に取り組んでみようかと思ったのは、ほんの3~4年前だ。あの頃は確か仕事で、現場の作業員からメッセージを発する立場へのシフト、みたいなものが進んでいた。自分はそれに多少手ごたえを感じていたのもあって、ナントカカントカそのための能力を磨けないか、ということをずっと考えていた時期だった。そんなさなか、コロナで暇になった。

なんのテーマにしても、昨日今日考えたことを話すより、一度深く考えた事を話す方が味があっていいだろう。なんとなくそんな直感から、なんでも一回考えてみることをテーマにnoteなどを書き始めてみた。それ以前にも、仕事上のミーティングや相談対応の準備とかは当然として、飲み会でたまの誰かに会う時にも、前もってメモ帳にネタを用意していたりしていたので、それの強化版、というつもりでやっていた。つまり、仕事で使う基礎体力を鍛える筋トレのつもりで書いていたということだ。

その頃は、知人などを中心に、書いたもの自体も案外面白いというフィードバックがあったりしたこともあって、多い時は毎日のように、その日見たニュースについて、みたいな記事をひたすら書いていた。

たぶん、それを1年ぐらいは続けた。すると、実生活でいくつかの変化があった。

■ 書いたことによって得たもの

・まず普通に忙しくなった

アクシデントのせいも多少あったが、仕事がだんだん忙しくなり始めた。それも、作業量はそんなに大したことなくて、人と会って話すことのウエイトが大きいものが増え始めた。

毎日ニュースをチェックして軽めとはいえ多少検討し、コメントをつけた記事を書いたりするには、当然ながらそれを支えるだけのインプットをしないといけない。そうした日々を続けた結果、いつの間にか自分は仕事の現場で意味不明にインチキ臭いコメンテーターのような謎のパフォーマンスを発揮するようになり、会議に呼ばれる率が急に高くなった。

同時に、歴戦の会議人材と現場が一緒になったこともあって、口火の切り方とか、悪いムードの立て直し方とか、合意に至れない時のイイ感じの終わらせ方とか、そういうワザを実地で学び、テクニック面も磨くことが出来た。

すると、とりあえず困りそうなときは呼べばいいやつ、というポジションがだんだん固まっていくことになる。これはねらい通りだった。

テキストを売るでも、ネットで名前を売って仕事をとるでもなく、書くことで自分を鍛えてカネを稼ぐ。最初の発想は単純であり、それは一定の成果を上げたと思っている。

・書くことが仕事になり始めた

多かれ少なかれ、ビジネスでは書き物が発生する。中でも対外公表用の文書や、シビアなQ&Aのための書類といったものは、それなりにちゃんと書ける人間が手掛ける必要がある。さもなくば、大惨事になりかねない。

とはいえ、これまで自分はそうしたビジネステキストが書けなくて悩んだことはほとんどない。業種的に、周りにそこそこ書ける人が多かったのもあって、まあいざとなればみんな仕事の作文ぐらいは普通に書けるよね、という感覚でいた。

ところが、ある時、とある書き物が多い仕事に現場投入されて自分が見たものは、ホント何言ってんのかわかんない系のヤバ目な作文の山だった。あれはひどかった。自分の文章が素晴らしいものだとは今でも特に思わないが、少なくともこういうのよりは一目でマシだとさすがに思った。

そうなってくると、ドラフトのリライトとか、そもそもこういう趣旨の文章を作って欲しいとか、そういう仕事がマシな人間のところに自然と集まり始める。その結果、知らないうちに自分が担当するテキストの量は膨大となり、ほとんど「書くことで報酬をもらっている」、という状態になった。そうした現場が複数重なったのは偶然だったが、どの現場でも「イザってときはアイツに書かせろ」という状態になるまで、たいして時間はかからなかった。

書くのが好きな人間なら、一度は物書きになれたらいいなあ、などと淡い夢を抱くものだろう。とはいえ、小説家のようなPROになるのはめちゃくちゃハードルが高いし、あいつらは異次元に文章がうまい。ライターだって大変そうだ。現実に文筆のみで身を立てようという覚悟に至る人間は、あんまり多くない。

しかしながら、世の中には、文章単独で売り物になるほどのクオリティやオリジナリティは求められていないが、それなりにちゃんとしていないと困るという微妙なライティングの仕事が山ほどある。特にある程度の専門性が無いと書けない分野では、職業ライターではない誰かが、その役割を担わざるを得なかったりする。世界中にあるテキストは、AIを使っているのでなければ基本的に人が書いたものだ。些細なものも含めると、文字通りそこら中にテキストが存在し、つまり仕事は膨大にある。考えてみると当たり前のことだが、自分がそうなるまではそういう作文への関わり方があることに気付いていなかった。

文章力に終わりはない。うまいやつはいくらでもいる。それでも戦う場所を選べば、書くことを仕事に出来る。これは意外な成果だった。

そして、言語力は加齢とともに衰えにくい能力であるなどということが言われてている。自分はマネジメントみたいな事よりも現場で手を動かす事のほうがずっと好きだ。これから先を考えた場合、書くことを仕事のメニューに加えておくのは良い事なんじゃないかとも思った。

■ 言葉が出てくる体験と内面への旅

そんなこんなで、ビジネスタイムにひたすら書いてることが多くなったこともあって、noteの更新頻度は明らかに悪くなった。その一方で、たまに書きたいときに書くものはだんだん長くなり、同時に取り留めのないものが昔より多少書けるようになって来たように思う。

ちょっとした日常の一コマや思い出を写生のように書いてみること。なぜそれを書くのか、何を伝えようとしているのか、それはわからない。しかし、そこには自分が言葉で考えている以上のことに届くような可能性があるように感じている。たぶんまだ上手ではない。今後もたまに練習してみようと思う。

また、淡々と描写するのではない論じる系の文章であっても、書いているうちに、自分がタイプした言葉に気付かされるという体験をすることがある。ひとつは、うまく書けなくて、または書いたものを見たときに何か違うなと思って、うんうんうなっている内に、思いがけない考えが浮かぶ、というやつ。もうひとつは、考えたことが無かったような言葉がスルスルっと出てくるような体験。ものを書いていると、そういう場面にもしばしば出くわす。

自分は自分が意識している以上のことを実は考えているのだろう、というのは日ごろなんとなく思うことだ。書くことは、それを引っ張り出す方法のひとつなのではないだろうか。そういうことを最近考え始めていて、自分はこれを「内面への旅」と呼ぶことにしている。これは単に考えている事を整理する事とは少し違う体験なように思う。「内面への旅」では思いがけない自分や自分がすっかり忘れていた自分に出会うことがあるからだ。

自分を理解することは難しい。分かる必要があるのかどうかも正直よくわからない。ただ、自分と向き合うことは人生にとってプラスになることが多いように経験上思う。カネや現実の地位の他に、最近ではページビュウやインプレッシヨンそしてイイネのようなものが、人間を虜にするもののラインナップに加わっている。そういうものを自分なりに追及することは悪いと思わない。問題は、そうしたスコアには他人との比較が付き物だという事だ。

冷静に考えてみると、自分の人生と他人の人生を単純にある側面から比較しても特に意味がなさそうな事はすぐわかる。しかし、SNSみたいな場所が社会の一部として存在感を増して来た昨今、その場所で自分の発言が何回イイねされたか、そうしたインパクトみたいなものにより、何かそれが自分の価値であるかのように錯覚させられそうになってしまうのも無理のないことだ。おまけにカネも生む。そこにさまざまな意味をくっつけるなというほうが無茶な注文なのかもしれない。

自分とて自分の書いたものが沢山の人にイイねされたらうれしいし、何か自信になるような気もする。しかし、じゃあ次に書いたものがイイねされなかったら?自分の価値は下がるのだろうか。そんなこともないだろう。でも、多少寂しくは感じるのじゃないだろうか。

だからこそ自分の内側みたいな他人との比較が関係ない世界を旅する経験の重要性が増している。そんな風に思う。そこでは、価値を決めるのは自分自身である。他の誰も文句を言わないし、助けてもくれない。イイねもくれない。

そうした世界の中で見つけた自分の存在意義や価値は、社会やトレンドがどう変わろうともそう簡単に揺らぐことは無いだろう。何か根拠があるわけではないが、自分はそう思うし、そういう経験が自分をタフにしてくれているようにも思う。

内面への旅への扉を開くためのひとつの方法が「書く」事だ。つまり、自分の書いたもの、思いがけず自分の中からこぼれ出てきたものと対話をすることだ。最終的に内面への旅の先に何があるのかはわからない。何の意味もないかもしれない。でもそれは少し確かめてみたい。

つながりや交流が良きこととされがちな昨今に、敢えて、誰とも繋がらず、ただ自分の内側を向いた時間を持つこと。いつでもつながれるソーシャルネットワークの時代だからこそ、内面への孤独な旅の経験は、むしろ貴重なものになってきているのではないだろうか。そんな予感がする。

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