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人間はとにかくドラマに弱いからー『ストーリーが世界を滅ぼす』ジョナサン・ゴットシャル

■ 『ストーリーが世界を滅ぼす』ジョナサン・ゴットシャル

「物語」というものに対する懸念や関心が高まっているように感じる昨今である。

これには納得する部分もある。話をシンプルにしてしまうと、どうして人々は合理的でないのか、という事なんだろうと思う。社会が近代化する中で、様々な分野で「サイエンス」が物事の仕組みを解明し、我々の生活は大きく変わってきた。簡単に言ってしまうと、人々の暮らしというのはずいぶんと良くなってきたわけである。しかし、世間では未だにいわゆる非科学的なナゾの論争みたいなものがなくならない。

もちろん、まだ世界には科学的に解明されていない事が多々あり、最新の物事について、色々な見解があったりすることもある。ただそれ以上に、地球が丸いか平面か、みたいな議論が目につくようになってきたり、ナノマシンが注入されて人類が5Gに接続されるみたいな話を真面目に信じている人がいたりと、うそでしょ?みたいなことを目にする機会が増えたりすると、さすがに大丈夫か?人類、と言いたくもなるものだろう。

個人的には、人類はあまりだいじょばない存在であると思うわけだが、それはなぜなのかを知りたいと思うのもまた人類のサガ。そこで昨今ストーリーとかナラティブとかそういうものが注目されているのかなと思う。本書は、そういったなんとなしの危機感みたいなものを取り上げた本なのだろう。

一言でまとめてしまうと、人々はファクトよりもドラマの方が好きだから、どうしようもない、といったような話だ。そういう意味では、特にこの問題に興味がある人でなければ、さほど必読といった感じのものではない。全ての情報をドラマとしてとらえた場合、科学的客観的な真実みたいなものよりも、とんでもない陰謀とか争いとか悲劇とかの方が面白いのは当たり前だ。問題は、じゃあこれから世の中はどうなっていったらいいのか、というところになるわけだが、その答えはまだ先になりそうだ。

物語は長らく、集団内の規範からの逸脱を防止するといった部分ではポジティブな役割を担ってきたとも言える。物語で描かれる「悪」は、コミュニティを存続させる上であってはならないことを利己的にやってのける存在であり、だいたいそういうものは正義と旅の仲間みたいなものにより打ち倒される。ただそれが、世界を牛耳る謎の存在と我々みたいな陰謀論的構図、そしてポストトゥルースみたいな話になってしまうと、やはりそれは少々行きすぎなようにも思う。

物語には、そういう負の側面のようなものがあるということを認識しておくことは重要なことなのだろう。組織のカルチャーを育みましょうといったことは、プラスのこととして語られるが、それはともすると、ファクトを物語化する際の認識パターンみたいなものを共有できない人を排除し、気が付いたら過激な何かになってしまう可能性を秘めている。何千人もの人が関わっている組織が、信じられないぐらい稚拙な間違いを冒すのもよくあることだ。

人類はだいじょばない。コミュニティを維持するために道徳的に良からぬことをする輩を咎めることは重要ではあるが、だからと言って、年がら年中芸能人のゴシップを追いかけることが生産的なわけではない。村みたいな暮らしで必要だったシステムがグローバル、インターネットみたいな時代にうまくフィットしないということは、昨今の人々のビヘイビアではよくあることだ。

我々がそういった人類の弱点みたいなものを克服するのは困難なことなのかもしれない。だとしたら、それとうまく付き合っていく方法を考えよう、となるのか、もうそういう難しいことはAIに任せよう、となるのか。いずれにせよ、そこにフロンティアがあり、もしかしたらビジネスチャンスもある、何となくそういう風に思う。

ずいぶん前に、『ナラティブ経済学』を買ってあるのだが、まだ途中までしか読めていない。読まねば。


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