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教育とはバケツを満たすようなものではなく、火をつけるようなものだ

この世界には「サイコパス」と呼ぶにふさわしい人が必ずいると思う(中略)心が分厚い脱脂綿か何かで包まれていて、ダメージを受けにくくなっている。

「教育とはバケツを満たすようなものではなく、火をつけるようなものだ」(中略)周囲の人々から違った扱いを受ける。それで世界が違って見えてくるんだ

イエスは言った。「行って同じようにしなさい」(中略)「善きサマリア人」と言えば、困っている人を進んで助けるよき隣人のことだ。もともとは聖書の物語だが、 聖書のなかの「善きサマリア人」はそれ以上に深い意味を持つ(中略)現代の読者のために、背景を補足する必要がある。物語に登場するサマリア人は、ただの善人ではない。彼は、社会的立場の大きな違いを乗り越えて怪我人を助けた善人なのだ。当時、サマリア人とユダヤ人(他の登場人物はすべてユダヤ人だ)は激しく敵対しており、サマリア人は今で言う「無神論者の暴走族」と同じくらい社会ののけ者だった。

「私の隣人とは誰ですか?」と尋ねたのは、「隣人を自分のように愛しなさい」というイエス・キリストの勧めに困惑した法律の専門家だった。とても愛せそうにない人もいるので、彼はもう少し範囲を狭めてもらいたかったのだ。イエスは善きサマリア人の寓話でそれに答えた。道の傍らに放置された瀕死の旅人は、まず祭司に無視され、次にレビ人(びと)〔祭司の下で神殿に奉仕する役目を世襲で司っていた人々〕に無視された。どちらも倫理の細部まで熟知している信仰者だった。

聖書にある「善きサマリア人(びと)」は、殴られ身ぐるみはがされて道ばたに倒れ苦しんでいる旅人を見かけたときに足を止めて助けた人の話だ。その旅人の姿を見た人はほかにも二人いたが、その二人は自分の身に降りかかる危険を案じて、道路の反対側に渡り、通り過ぎてしまった。 マーティン・ルーサーキング・ジュニアは、旅人を助けなかった二人は 「ここで足を止めてこの男を助けたら、自分の身に何が起こるだろう?」と考えたのであろう、と指摘した。しかし、「善きサマリア人」は別のことを考えた。 「もしわたしが足を止めてこの男を助けなかったら、この男の身に何が起こるだろう?」と。 同情は共感の上に成立し、共感は他者に対する集中を必要とする。自分のことしか考えていなければ、他者のことには気づかない。困っている人がいても、まったく気がつかないまま通り過ぎてしまう。しかし、いったん気がつけば、その他者に波長を合わせ、気持ちや窮状を察し、その人を心配して行動を起こすことができる。

道を尋ねられた時、サイコパス傾向の参加者で立ち止まって教えた人は少なかった。書類を道にばらまいて慌てて拾おうとしている女性を助けたのは、サイコパスの人もポジティブな人も同じ割合だった。見知らぬ怪我人が不自由しているのを見て親切に手助けした割合は、サイコパスの人たちの方が、ポジティブな人たちよりずっと高かった(中略)関わり合いになるのに不安があるような状況では、サイコパスの強みが光る。そういう状況では、ふだん親切な人たちの方が、かえって何もせずに通り過ぎてしまう。

同調と服従に関する私の結論にふさわしい言葉を揚げておこう。ハーバード大学の心理学者、マーザリン・バナジの言葉だ(中略)善きサマリア人とは、イェルサレムからエリコへ向かう道の脇で苦しんでいた人を立ち止まって助けたただひとりの人のことだ。ルカによる福音書には、この人物は天国で当然のほうびをもらえるだろうとある(中略)実験では、神学生に時間の余裕があるときほど、助けてくれる可能性が高くなった。このことから。“時間的なプレッシャー”  という状況の要因が、助ける者と何もしない者の違いを生むことがわかる。

モーセ集団(モーセは死ぬが)は、BC1200年ぐらいに、ヨルダン川を渡って、エリコの都市を攻め落とす。そして次々と他のペリシテ人の町を奪い取る。この時から数えて「ユダヤ人3200年の歴史」と私は推定する。すぐにエルサレムに到着すべきなのに、どうもそこには別の人々がいたようだ。ペリシテ人(phikisine フィリスティーン)が、今のパレスチナ人だ。彼らはモーセ集団よりもエジプトから少しだけ(何十年か)早く来た先住民だ。彼らの町(都市、集落)に次々にモーセ集団は襲いかかって、攻めて取って回った。これが「出エジプト記」の後半の「士師記」の200年間(BC1200 - BC1000年)(中略)士師の始まりは、モーセの後継者のヨシュアである。ヨシュアは優れた軍事指導者だった。ユダヤの民をよく率いて戦いに勝ち続けた。こうやってエズレル平原=イスラエル平野を自分たちのものにした。『旧約聖書』では、ここを大きくグルリと回るようにして、最後にエルサレムに到着したように書いてある。エリコ占領のあと、なぜ、さっさと、エルサレム(シオンの丘)に向かわせなかったのか。分からない。どうもエルサレムに別の王がいたようだ。カナーンの土地には、ペリシテ人の他にアッカド人という人たちもいた。聖書の中によく出てくる。モーセ集団はこのアッカド人を、北の方に追い払って、「自分たちはユダヤの民だ」と言い出した。あるいは、「イスラエル人だ」と言い出したようだ。ペリシテ人、ユダヤ人より1000年後のイエス・キリストの時代に、「パリサイ人(びと)」という人々が現れる。『新約聖書』にたくさん出てくるイエスを虐めた人々だ。パリサイ人は、英語では、「ファラシー」( pharisee )と言う。パリサイ人というのは、紀元後30年に、キリストが36歳で処刑されたときに、「神官職」だった人たちとされる。パリサイ人が、イエスというおかしな男をさっさと処刑しろと騒いだ。このファラシー(パリサイ人)も、本当はペリシテ人と同じだろう。今のパレスチナ人だ(中略)今はみんなイスラム教になって、即ち、アラブ人になっている。彼らはずっとこの地で農民だった(中略)『旧約聖書』ではモーセが引き連れて来たとされるユダヤ12支族が、今のイスラエルの全土に、それぞれ分かれて住んだ、となっている。でもペリシテ人たちもいいる。きっと混在している。今もそうなのだ。

ブタの去勢を巡る議論(中略)多くの国々で、これは麻酔なしで現在でも行われている(中略)この問題を検討する委員会では、その慣行に反対する人たちは科学者と獣医師たちの猛烈な抵抗に遭った。痛みについて何がわかっているのか、いったいそんなものがどうしたら計測できるのか、というのだ。「ブタがどう感じているかなど、私たちにはわからない」という、陳腐な理屈だった。次の会合に、反対派はビデオを一本持ってきた。彼らは議論は手順に関するものなのだから現状を見るのがいちばんだと言っただけで、とくに意見は述べなかった。それから、意識あるブタが去勢される場面を映し出した。ブタは大暴れし、何分間もキーキー泣きわめき続けたので、しまいには部屋じゅうの男たちが真っ青になり、両手を股間にしっかりあてがって座っていた。どんな筋の主張にもまして、このビデオは麻酔に関する意見の流れを変えた(中略)この寓話に込められた教訓はまだある。その一つは、たとえ自分に似ていない人であっても、誰もが隣人であるということだ。

時間を節約するためには言葉(用語)を覚えることが重要───堀江貴文氏↓


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