見出し画像

ダスティン・ホフマン主演「トッツィー」_くさった男が、シンデレラになる。

アカデミー賞には、複数:ときに十以上の部門にノミネートされながらも、一つの部門にしか賞が与えられない作品が、得てして存在する。
第55回アカデミー賞で10部門にノミネートされた「トッツィー 」など、その代表例だろう。11部門にノミネートされた「ガンジー 」に多くを攫われ、「トッツィー 」は1部門で受賞したのみ:助演のジェシカ・ラングにだけ与えられた。
相手が悪かったとはいえ、何ら落ち度はない。名優ダスティン・ホフマンの名演を見るだけでも、じゅうぶんにお釣りが来る。

原題の"tootsie" とはアメリカ英語の俗語で、親しみを込めて女性に呼びかける時に使う言葉だ。中身を見れば、なるほど意を得ていると、わかる。
この映画のキモはダスティン・ホフマンが女性に変化する、という点にある。
性が変わるといっても、イマドキ流行りの男の娘 あるいは「おれがあいつであいつがおれで」とはまるで違う。
当時45歳の彼が、語尾に「ざます」が似合いそうな、おばさまに変装するのだ。

俳優マイケルは向こう気の強さからニューヨーク中のプロデューサーを敵に回し、さっぱり仕事が回ってこない。窮地に立ったマイケルは、女装し“ドロシー”と名乗ってオーディションに出場、見事大役を勝ち取る。すべてがトントン拍子に進んでいたが、共演者のジュリーを好きになったことから歯車が狂い始め・・・。

スタッフ
監督・製作:シドニー・ポラック
製作:ディック・リチャーズ
脚本:ラリー・ゲルバート
脚本:マーレイ・シスガル
音楽:デイブ・グルーシン
主題歌(君に想いを):スティーブン・ビショップ

キャスト
マイケル/ドロシー:ダスティン・ホフマン(山寺宏一)
ジュリー:ジェシカ・ラング(弓場沙織)
ジェフ:ビル・マーレイ(青山 穣)
サンディ:テリー・ガー(渡辺美佐)
ジョージ:シドニー・ポラック(谷 昌樹)
ジョン:ジョージ・ゲインズ(小島敏彦)

ソニー・ピクチャーズ  公式サイトから引用

ダスティン・ホフマンが、変身するよ。

私は化粧する女が好きです。そこには、虚構によって現実を乗り切ろうとするエネルギーが感じられます。そしてまた化粧はゲームでもあります。

「さかさま恋愛講座 青女論」から引用

とは、昭和を代表する詩人・寺山修司の言葉だが。切羽詰まった大物役者マイケルの態度もまさにこれだ。ここに男も女も関係ない。
化粧をすることで、役者人生始まって以来の危機を乗り越えようとする。
それ以上の壁「業界の旧習」というものに挑んでいく。

いまなお「封建的で男性中心的」な性質が、解決すべき課題として取り沙汰される、ビジネスの世界。
まして、約40年前の、それもショービジネス業界であれば、尚更だ。
野心的な企画は揉み潰され、大根役者でもイエスマンであればそれなりのポジションがもらえて、女優たちはマネージャーの良いなりとなりがちで、肉体関係を求められることもある。

マイケルも、そんな旧弊な体質に「怒れるひとり」だ。
だから意趣返しとして、「ドロシー」に化けて、颯爽と斬り込む。
男勝りで、正義感が強く、社会の腐った因習に片っ端から切り込んでいく。
そして「ドロシー」も力一杯演じる:役者だから「演じる」のは当然だ。

カツラをメンテナンスしたり、日々のファッションを研究したり:楽屋裏で「ドロシー」を大真面目に徹底的に作り込む描写が、ユーモラスでとても良い。


実のところ、マイケル本人にも問題があった。誰とでも衝突し、業界内での評判の悪さではトップクラス。意中の女性ジュリーからは「ガサツな男」だと思われ、やはり評価はよろしくない。

「クレイマー、クレイマー」でもそうだが、ホフマンは、自分のことしか考えていない男を演じるのが、ほんとにうまい。

女性を演じ、女性として周囲の人々と接する中で、彼は、自分の中の新たな可能性を見いだす。自己主張しながらも他者と調和する能力や、柔和でありながら同時に主張的であるという、新たな自分の側面:優しくあれる自分を見いだしていくのだ。そう、外面の変化が、彼の内面の変化に見事に、つながっていくのだ。

このドラマの組み立て方、ひじょうに上手い。
「男が女装する」「(ジェンダー意識の薄い)80年代の作品」という色眼鏡を外すと、自分自身のバイアスを自己認知する、骨組みのしっかりした成長譚として読み取れるのだ。


ダスティン・ホフマンには、なれないよ…。


とはいえ、良いことづくめではない。こんどは彼を「男性」「女性」どちらかの面でしか見ない、周囲のために四面楚歌に陥る。
すなわち、年配の二人の男性から告白され、女友達からはゲイ扱いされ、ジュリーからはレズビアンとみなされるのだ。

まだ80年代の作品:だから同性愛を異端視する世間が、きわめてナチュラルな形で描写される。



神経衰弱ぎりぎりに至った挙句、彼は「ドロシーが作り物」であることを、生放送中にカミングアウトする。その時の表情はものすごく清々しい。
それは冒頭に引用した寺山修司の言葉の「つづき」に呼応していて。

顔をまっ白に塗りつぶした女には「たかが人生じゃないの」というほどの余裕も感じられます。

「さかさま恋愛講座 青女論」から引用

ドロシーとしての役者人生を捨て、マイケルとしての役者人生に戻っていく。
そして、最後は手に入れた「優しさ」に勇気を得て、ジュリーに告白するのだ。

たかが80年代の作品と侮るなかれ。こと男性/女性の規範について、そうそう世の中は変わっちゃいないこと、この作品が教えてくれる。
この物語を土台から支えたのがダスティン・ホフマンだ。彼は、胸高鳴るようなユーモアも、地に足ついたペーソスも、華麗に演じきる。
超人的な人物演じる役者はいっぱいいても、彼の代わりは、早々、いないよ。そう気づかせてくれる傑作だ。

※本記事の画像はCriterion公式サイトから引用しました。

この記事が参加している募集

この映画の話は面白かったでしょうか?気に入っていただけた場合はぜひ「スキ」をお願いします!