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映画「暗黒街のふたり」_ギロチン、ギロチン、シュルシュルシュ…

フランスの映画俳優、アラン・ドロン。70年代の彼は、日本人の恋人だった。
時に情熱的な男(冒険者たち、山猫)を演じ、時に狡い男(太陽がいっぱい、地下室のメロディー…)を演じ、そして時に寡黙な男(サムライ、仁義…)を演じる。

どの役を演じても共通するのは、純粋で一途で、全ての身振りが潔癖そのものと言いたいくらい明快で、澄んでいるということ。直線的であること。単純であること。それをただの「分かりやすさ」に陥れることなく、崇高なまでに倫理的な美学へ昇華させたひと。彼が影を背負った男を演じる時、その佇まいが、美学となって、打ち上げ花火のようにぱっと華やぐ。そして演じる役の死とともに、しゅんと消える。そのはかなさに、誰もが思わず、感嘆の息をつかされた。

本作は、彼の美学が爛熟期に達した73年に作られた。
ひとつの不幸を描き、社会を告発した 物語だ。

銀行強盗の罪で12年の刑を受けたジーノが、保護監察司ジェルマンの力添えで仮出所し、彼の出所を待ってくれていた妻ソフィーと新生活を始めることに。昔の仲間から再び手を組んで大仕事をしようと話を持ちかけられても毅然と断り、モー市に移住してからもジェルマンと家族ぐるみの付き合いを送って社会復帰を目指していた。ところがある日、自動車事故でソフィーを失い、以来ジーノは自暴自棄の生活に陥っていく…。
【スタッフ】 監督 ジョゼ・ジョヴァンニ
【キャスト】 アラン・ドロン、ジャン・ギャバン、ミムジー・ファーマー、ミシェル・ブーケ ほか

洋画専門チャンネル ザ・シネマ 公式サイトより

本作でドロンが演じるのが、ムショ帰りの男:ジーノ。
12年前やんちゃだったこの男も、いまでは真人間に更生した。「自分はもう若くはない」だから生活を一からやり直そうとする、生真面目な男だ。

だが、ジーノが出所し、妻に迎えられた直後から、執拗に彼を追跡する影がある。白い車だ。ジーノが愛車のギアを上げれば、白い車もギアを上げ、ジーノがギアを下げれば、白い車もギアを下げる。つねに一定の距離を保ちつづける、監視者だ。
ドロン一味が起こした銀行強盗は大騒ぎとなり、機動隊も出撃、流血沙汰と大惨事になってしまった。そのことを検察側はいまだに許していないのだ。
白い車に乗るのは、白いフロックコートの警部。「人間がそう簡単に生まれ変われるものか。」いっけん和かな顔の奥に猜疑心が眠っている。
少しでもジーノが幸せな顔を見せたりしたら、即刻その顔を曇らせようとする、悪魔のような性格の男。悪人顔ではない、どこにでもいそうな顔をしているというのに。

監視に構わず、ジーノはまじめに一からコツコツ働き出す。
そして彼は愛する妻と、仲間たちと一緒に、さんさん輝く太陽のもと、休暇を満喫できるようになるまで、人間生活を取り戻す。勤め先の印刷会社の社長から、共同経営者にならないか、とまで引き合いが来る。ジーノは笑顔でいう、「12年を取り戻す、俺は幸せになってやる!」


その幸せは、自動車事故、それによる妻の死で、あっけなく壊れてしまう。
12年間、彼がムショの中で壊れずに済んだのは、外に残してきた(そして、甲斐甲斐しくも待ち続けれくれた)妻の存在があったからだ。
その妻がいなくなった。心の支えを失った孤独の中で、忘れかけてた凶暴性が牙を剥きかける。それを、孤独な部屋で、じっと押さえつける。

「本性を現したな、バケモノ。」
ふたたび警部が、ジーノの元に舞い戻る。彼の本性は残忍で好色。手出しされないのを良いことに、罵詈雑言でジーノを愚弄する。ジーノ一人なら耐えられた。しかし、警部が、孤独なジーノにも優しく接してくれた女に、手を出したのは許せない。我慢できなくなって、ついに白いコートの警部を殺めてしまう。

ここまでで全99分のうちの半分。
ここから30分が、(フランス映画らしからぬ、異色の)ジーノの罪の重さをめぐる法廷劇となる。死刑で罪は拭えるのか?と問う弁護人の努力もむなしく、判決は「死刑」。


クライマックス、怒涛の10分間が、我々を待ち受ける。
死刑の朝、薄暗い牢屋から刑吏に引きずり出され、ただひたすら長い物音ひとつない廊下を声もなく歩く。
ただ歩く。ただ歩く。
ジーノの顔は何も表さない。
ジーノの目にも何も映らない。
死にたくない、もっと生きたい…そんな人間らしい涙はとうに流し切った。
涙も、心も、枯れてしまった。

抜け殻となった彼が辿り着いた先、目の前一面に垂幕が掛かっている。
最後の告解の時間が来る。それはまだ姿を現さない。
判決を読み上げる執行人の声がある。それはまだ姿を現さない。
ジーノは、ただ首を垂れるのみだ。

刑吏の手で、ついに垂幕が剥ぎ取られる。聳え立つ、ギロチン。
土台からは後光が差し、刃先は虹色にひかる。

不気味な物体に自分が殺される。あんなものに殺されたくない。
その恐怖に、彼はいっしゅん後ろを振り向く、しかし刑吏が彼の身体を強制的に台に括り付け、刑は執行される。
何かが落っこちる音だけがする。それで、映画は終わる。

本作でも彼は、ただひたすらまっすぐに死へと向かっていく。
しかしその行程は自分で選び取ったものじゃない、ただレールに乗せられ運ばれて、行き着く先が断頭台だ。やるせない。


ジーノは、間際となって、どうして後ろを振り向いたのか。
そこに、自分の父親とも言える男、保護観察司ジェルマンがいたからだ。
演じるはフランスの名優、ジャン・ギャバン。若い頃、
30年代の彼は、日本人の恋人だった。時に情熱的な男(望郷、我等の仲間)を演じ、時に狡い男(現金に手を出すな、鉄格子の彼方)を演じ、そして時に寡黙な男(大いなる幻影、ヘッドライト…)を演じる。
どの役を演じても共通するのは、遊侠無頼、生真面目いちず、ニコリともせず前方を直視していること。そのブルドッグ顔の裏側に、高潔な美学を隠していること。彼もまた、崇高なまでに倫理的な美学へ突き詰めたひとだった。
ストイックという共通項。この性格を持った役者、ドロン=ジーノとギャバン=ジェルマンは結び合う。もともと12年間、塀の中で長い付き合いを経た身。出所後も家族のような付き合いを続けたふたり。ジーノが人を殺めても、常にそばにあり続けたふたり…。

ジャン・ギャバンは確かに見た。
ドロンが一瞬振り返ったとき、その目にうすら涙が浮かんでいたのを。
たしかに、一途に、生きたいという意思があったことを。
若い男が死に、老い先短い自分が生き続ける。 それは、切ない。


本稿では、ドロンの伝えたかったメッセージ:死刑の是非は問わない。
これが、2人の名優の最後の共演となったこと(ギャバンは76年に逝去)だけは触れる。

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