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他者評価から離れてみませんか#44

こんにちは。わくわくらすです。

今回私の言いたいことはすでにタイトルで言っています。この後の内容では、他者評価から離れるための心構えについてお話していきます。1つの方法、考え方と思ってお付き合いください。


まず、なぜ私たちは他者評価を求めてしまうのか。私はこれを存在価値の証明だと思っています。良い評価であろうと悪い評価であろうと、評価されるということはそこに自身が存在しているという証明になります。逆に言えば、自分で自分の存在を証明できない人が他者評価に依存する傾向にあると思います。

自分で自分の存在を証明できない人が最も感じる感覚は不安です。不安を拭い去るために誰かが自分を認識してくれるという他者評価を求めます。

私見に過ぎないのですが、日本人は不安が強い集団だと思います。うつ病にかかる人や自殺する人は世界各国と比べても多いです。もちろん不安だけが原因ではないと思いますが。

ここまでの説明だと、不安を感じないのであれば他者評価は悪いことではないのでは?と思う人もいるでしょう。

そうです。私は全ての他者評価が悪いとは思っていません。そもそも他者評価は善か悪か?という問い自体があまり良くないと思います。これは哲学者であり教育学者でもある苫野一徳さんが提唱する「問い方のマジック」です。もし興味がある方は調べてみることをおすすめします。

他者評価は良い時もあれば悪い時もある。でも長期的に考えると悪いことの方が多い気がします。

そもそも自分を評価する人は、自分の何を見て評価をするのでしょうか。テストの点数?仕事のやり方?勤務態度?そのどれもが良いか悪いかなんてその人の主観でしかありません。

テストの点数で言うならば、80点とってもやばいという人はいるし、50点でもやったと思う人はいます。仕事のやり方だって、評価する人の好みのやり方をしている人の方が良い評価を得ることが多いでしょう。

つまり、他者評価は基準が一定ではないのです。

基準が一定でないのにもかかわらず、評価者に合わせようとするのは難しいと思いませんか?

評価者が変われば評価は変わる。そんなアンバランスなものに自分の存在価値を求めるのはいささか無理があると私は思います。


では他者評価以外の方法で自分の存在価値を証明する方法はあるのかというとあると思います。それはあるがままに自分という存在を受け入れるということです。

自己評価ではないのか?と思う人もいるでしょう。自己評価ももちろんありですが、自分ってこんなものだよね、存在しているものはしょうがないよねって思うことが一番いいんじゃないかと思います。

自己評価だと結局、自分の求めた基準をクリアできないと落ち込むし、自分で自分に失格の烙印を押すとさらに苦しくなります。

それよりも自分は生きているだけで、存在しているだけで価値があるよねって思った方が楽に生きられると思います。事実、あなたや私が生きているだけで喜んでくれる人はいます。親かもしれないし、友達、パートナーかもしれません。評価なんてされなくても十分生きています。

人生を語れるほど私は生きていないし、経験もしていません。でも他者評価でつぶれた経験を持っています。自分は自分で楽に生きることが今はできています。

言語化って難しいですね。自分の気持ちを伝えるのってなんでこんなに難しのでしょう。

お読みいただきありがとうございました。


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