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「既に回復された中動態の世界」の問題をいかに「ケア」するか――國分功一郎『中動態の世界』『責任の生成』を再読する

別にこのnoteは僕の「初期(?)國分功一郎」への愛を叫ぶための場所ではなく、他にも書きたいことはたくさんあるのだが、一度始めてしまったらある程度まで書かないと今日も國分功一郎再読シリーズの続きを書こうと思う。

(前回までの議論はこちら)

今日は前回までの議論を『中動態の世界』と『責任の生成』を新たに参照しながら話を進めていきたい。

『中動態の世界』については下記に転載した『群像』の連載(「庭の話」)でも、まるまる一回分用いて取り上げている。

ざっと要約すると、國分は人類の近代に至る長い歴史の中で(おそらくは「法」という概念と引き換えに)私達の言葉が「審判するもの」に変化したと指摘する。それが「能動態/受動態」で記述される今日の言語で、これは論理的には成立しない人間の「自由意志」という虚構の存在(少し考えれば分かるが、環境や因果に左右されない意思など存在しない)を、便宜的に「存在する」こと作用を私たちの精神にもたらす。そのため、「能動態/中動態」で記述された古語の人間感に立ち帰ることが、私たちの社会を根源から見直す、果てしなく大きな視点を与える(具体的にはケアの現場や法倫理の問い直しにおいて)、というのが同書の簡潔な要約だ。

 そして僕がこの著作が重要だと考えるのは、ここで國分が述べている能動態/中動態で記述される古語の前提となっている人間観が、今日の情報技術が前提とする人間観に近いのではないか、と考えるからだ。これはそれほど難しい話ではなく、ナッジもゲーミフィケーションも、人間には「自由意志」など存在しないという前提の発想で、その「現代的な」人間観を踏襲する今日の情報技術で作り上げられたこの譲歩社会もまた既に「中動態の世界」は回復されている、というのが僕の理解だ。

 たとえば「TERRACE HOUSE」事件で、直接の加害者(ユーザー)と、「炎上」を煽ったテレビ局、そしてそれを放置(推奨)したプラットフォームが、それぞれ他の二者に「責任」を押し付け合う……という光景は、僕から見れば可視化された「中動態の世界」が各プレイヤーに悪用されている状態だ。

 ここで注目したいのが、國分が『中動態の世界』の出版後に、同書をめぐる熊谷晋一郎との対談をその続編的な内容として出版している(『責任の生成: 中動態と当事者研究』)のだが、そこで紹介されている事例だ。國分と熊谷が紹介する依存症治療のプログラム「AA12のステップ」では加害者が同時に被害者でもあることを前提にし、何%の加害者か、何%の被害者かを問題にする。この「被害者でもある」ことを確認するプロセスが責任を自覚させやすくする。
 そこで國分と熊谷はケアの現場などで誰かに加害してしまった人間に対し、「審判する言葉」を用いて直接的にその責任を問うことは、有効ではないと述べる。その人間が事故の加害を認めるためには、まず彼/彼女の置かれた環境を分析し、どのような因果のもとにその出来事(加害)が発生したかをまずは客観的に分析する。するとその人の被害者であり、加害者でもある自己が浮かび上がる。そうすることではじめて、人間は自己か加害したという事実を受け入れることができる、という。

 この「AA12のステップ」のようなアプローチは、むしろ自然状態では責任を回避することに人間を導くことになる「中動態の世界」が可視化する因果関係を「逆手に取り」、加害者の自覚を促すプラットフォーム外の「ケア」として位置づけるべきだろう。あまりその文脈で読まれることはないだろうが、『責任の生成』を僕は情報社会下の新しい「責任」論として読んだのだ。

 『中動態の世界』で國分が示した世界像は、結果的にーーおそらくはまだプラットフォームの支配が盤石ではなかった執筆時の國分の想像以上にーー今日の情報社会に「実装」されている。しかし、その拙速な回復は、國分の示唆とはむしろ真逆の、「責任」概念からの逃避を促す効果をもたらしている。國分と熊谷が提示する「ケア」的なアプローチは、この弊害への対応であると位置づけられるべきだろう。それは、既に回復されてしまった「中動態の世界」に置き去りにされた人間の営みを対応させるための「ケア」なのだ。

 さて、 ここで、前述の「浪費」の失敗の問題を思い出してもらいたい。人間が事物と遭遇し、インティマシーを感じる。そのため、その人の内面にはその事物の理想形が生じる。そして人間は現実に存在するその事物と、理想形の落差に傷つくことになる。この「傷」が人間を制作に動機づけるーー。このとき重要なのは、この「傷」が回復できないことだ。國分が『暇と退屈の倫理学』で述べる浪費=満足することとは、この傷が回復された状態のことに他ならない。そして『中動態の世界』の議論に照らし合わせればこれはその人、つまり個体ごとに異なるコナトゥス(外部からの刺激に対し、自己を維持する力)を発揮している状態=自由な状態にあることになる。しかし、ここで考えなくてはいけないのは、一時的にでもこのコナトゥスが発揮「されない」状態を発生させることなのだ。

 國分はスピノザに依拠して述べる。

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僕はもはやFacebookやTwitterは意見を表明する場所としては相応しくないと考えています。日々考えていることを、半分だけ閉じたこうした場所で発信していけたらと思っています。

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