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國分功一郎『暇と退屈の倫理学』の再読から考えた「退屈」が既に攻略された世界の問題

 さて、今日はこれからPLANETSCLUBで國分功一郎さんの講義があるのだけれど、僕は今日の講義とはまったく関係なく、最近彼についてよく考えている。年長の友人としての彼についてではなく、書き手としての彼の仕事について考えている。それは國分さんの『暇と退屈の倫理学』や『中動態の世界』といった、彼の一般向けの著作で展開している議論が、ここ数年僕が考えていることに大きな手がかりを与えてくれるように思うからだ。

 たとえば、僕は『暇と退屈の倫理学』をある種のオタク論として読んだ。
 事物に「ついての」観念、記号ではなく、事物そのものにアプローチすること、そしてそのことにより、現代的な人間主体の再構成を目論むこと、そのために事物に没入する身体に擬似的に「変身」することーー國分さんの議論は共同体の一員として承認されること(SNSは高速で共同性を立ち上げ、承認を交換し、そして一瞬でその共同性を解体するシステムだと考えればいい)ではなく、事物とのコミュニケーション、特に事物を「制作」することを重視したいという、僕の考えにあるレベルではとても近いからだ。

 しかし相違点もまた、存在する。それは國分さんが当時(2011年)仮想敵に設定していた消費社会の構造が、今日(2024年)では情報環境に伴って大きく変貌していることによる議論の前提の相違だ。

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僕はもはやFacebookやTwitterは意見を表明する場所としては相応しくないと考えています。日々考えていることを、半分だけ閉じたこうした場所で発信していけたらと思っています。

宇野常寛がこっそりはじめたひとりマガジン。社会時評と文化批評、あと個人的に日々のことを綴ったエッセイを書いていきます。いま書いている本の草…

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