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人間は事物によって不可逆に変化し、「回復」しないときに「制作」に動機づけられる(という仮説)――國分功一郎『暇と退屈の倫理学』を再読する

 今日も前回、前々回の國分功一郎『暇と退屈の倫理学』再読シリーズの続きだ。

僕はこの本が、書かれた当初はあまり想定されていなかったであろう(そりゃあ、2011年の本なので……)SNS社会を考える上で、重要な手がかりを与えてくれるように思い、ここしばらくこの本についてよく考えている。考えていることはたぶん、9月頃発売予定の『庭の話』という本に反映されるはずなのだけど、これはその思考メモのようなものだ。

 それでは早速、前回の続きから始めたい。

 では、人間を変身「させ続ける」ことの条件とは、変身の「継続」の条件とは何か。
 
 ここで前述の『SLAM DUNK』の小暮と三井の二次創作を描き始めた同人作家のケースを思い出して欲しい。ここで忘れてはならないのは、二次創作が物語内の架空の存在を脱構築することは決してないことだ。
 彼/彼女に意外な側面が二次創作で与えられるほど、原作の中での彼/彼女に与えられた人物像は強化される。気さくで明るい綾波レイが描かれるほど、そのオリジナルの感情表現に乏しく、孤独な人物像は強化されるのだ。多くの二次創作の語り手たちが直面するのは、この現実だ。彼女がどれだけそれを願っても、その願いを叶える可能世界上の物語を作り上げたとしても、いや、作り上げれば作り上げるほど木暮と三井が性愛で結ばれることは「ない」ことが、あるレベルでは強調されることになる。そのため、より強くそれを求める二次創作者は結果的に新しい物語を、自らの手でゼロから生み出すようになっていく。このときはじめて、人間はある物語に別の物語を対置することになる。二次創作ではなく、まったく異なる物語がこの世界に併置されることを求めるようになる。このようにして人間は本質的な意味で、この現実とは異なる世界を求めるようになるのだ。

 ここで重要なのは、コミュニケーションの非対称性だ。彼女はその出発点においても、そして二次創作を反復することによってさらに小暮と三井が性愛では結ばれないことに、「損なわれた」「傷ついた」はずだ。彼女は最初の段階で井上雄彦が、小暮と三井が性愛で結ばれる物語を描き、それを与えられば満足したのだろうか。間違いなく、違う。彼女は小暮と三井の友愛の物語を与えられたからこそ、「そうではない」可能性、つまり彼らが性愛で結ばれる可能性を夢想したのだ。
 このとき人間は事物に襲われている。そして否応なくその心身を変えられている。ある意味においては損なわれ、傷ついている。そしてその回復のために手を動かし始める。しかし決してその回復は実現しない。なぜならばそれはどれだけ追求しても、決して小暮や三井といった固有名を書き換えることはなく、むしろ彼らに与えられた既存の物語をあるレベルでは強化してしまうからだ。そして、同時に彼女の中に芽生えた観念とそれについての彼女の欲望は、二次創作を生むごとに自らが描いたものからフィードバックを受け、変化してしまう。もしかしたら小暮は三井と赤城との間で揺れているのではないか、と考え始める……

 このように考えたとき、むしろ問い直さなくてはならないのは、國分の言う「浪費」の概念だ。果たして人間が「浪費」するとは、つまり「満足」するとはどういうことだろうか。果たして人間の精神にそのようなことは、本当に起こり得るのだろうか。起きるとしたら、それはその人がその事物に触れても何も変わらなかったとき、変身「しなかった」ときだ。言い換えれば「浪費」が成立する=人間が「満足」するとは、損なわれた状態からの回復が可能なときだ。

 喉が渇く、水を飲む。そして満足するーーここには乾きからの回復が行われている。人間は満足(浪費)する。しかし、このケースはどうか。灼熱のシナイ半島を、徒歩で横断した青年(仮名・ロレンス)がいたとする。彼はようやくたどり着いたカイロの職場の食堂で、レモネードを大きなグラスに注ぐように頼む。彼は思いっきり飲み干す。最初の一杯で、彼の乾きが癒える。しかし、まだ足りない。もう一杯彼はレモネードを頼む。やはり、うまい。それから彼はカイロに滞在している間、休憩時間にレモネードを飲むのが楽しみになる。しかし、毎日のようにレモネードを飲む間に、次第にこう考えるようになる。もう少し甘くないほうが、いいのではないか、と。このとき彼の味覚は、変化している。それも毎日レモネードを飲んだことによって不可逆に変化している。このとき彼は浪費に失敗、つまり「変身」している。

 人間は欲求や欲望を満たすために、事物に触れる。しかしときにその事物とのコミュニケーションにより、心身の状態が変わる。この変化が人間をそれ以前の状態に回復させるとき、人間は満足=浪費に成功する。しかし、その過程でそもそもの人間の心身が事物の影響で変化してしまうことがある。このとき人間は満足しなくなる。つまり浪費に失敗するのだ。そして「変身」するのだ。

 言い換えればそれは小暮と三井という登場人物に魅了されながらも、彼らの関係性が友愛に留まることに、傷つくことだ。

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僕はもはやFacebookやTwitterは意見を表明する場所としては相応しくないと考えています。日々考えていることを、半分だけ閉じたこうした場所で発信していけたらと思っています。

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