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社会的、経済的に恵まれない「弱者」のためにこそ「ひとり」で生きていくための公共的なインフラが必要だという話

先週「庭プロジェクト」で久しぶりに南後由和さんの発表を聞く機会があった。

テーマは「ひとり空間」。つまり、都市における単独行動車を対象にした場所だ。これについては、南後さんの著作『ひとり空間の都市論』(ちくま新書)に詳しく、発表は出版後の状況(とくに「コロナ禍以降」)を踏まえたアップデートが中心だった。今日は、その南後さんの発表を聞いて考えたことを、かんたんにまとめてみたい。

僕が会社員時代、「うわ、キモ……」と思っていたのが「ご機嫌取りのために上司に(ほんとうはしなくてもいい)相談をしに行く社員」の姿だ。いや、相談する方は上司を「転がす」メリットがあるのだろうけど、「相談」されていい気になっている上司は本当にバカだなと思っていた。そして、こういう無駄なコミュニケーションがあるからこの国の「生産性」は低いのだとつくづく思う。

こう書くと、「職場の人間関係をスムーズにするための時間は無駄じゃない」とかいう人が出てくると思うのだけどちゃんと考えて欲しい(そしてちゃんと考えてそれだとすると、本当にダメなので仕方ないと思うが……)。君が言っているのは、準備運動に1時間かけて疲れ果てた結果、本番の100メートルダッシュで5%もパフォーマンスが出せないことを肯定しているのと同じだ。そしてこうした「雑談」が創造性を生むとどこかで聞きかじったことをしたり顔で話したくなる君も同じだ。いつも同じメンツとのメンバーシップの確認のための儀式からは、何の創造性も生まれない(それは「雑」談にはならない)。

さて、僕の考えはシンプルで人間は不必要に群れている。群れるのは必要だ、しかし、どう考えても現代の日本人は必要以上に、しかもかわりばえのしないメンツで群れすぎている。少なくとも大抵の職場では、現在より「おしゃべり」よりも「作業」に時間は使われるべきで、そのための環境を「オフィス」は提供できなくなっている。だから、カフェ(特にチェーン店)はいつもラップトップを抱えた「作業者」に溢れている。職場にいると「(不必要に)話しかけられて」仕事にならないからだ。そして、場所と時間のどちらかに「恵まれて」しまうと、これらのカフェはいつも「混んでいる」のだ。

僕はその光景を目にするたびに、少なくともこの東京の都心部にはもっと「ひとり」で事物に向き合える場所が必要なのだ、と思うのだ。

南後さんの発表の話に戻ろう。南後さんは、都市文化の多様性を保つためには、単独行動者のためのサービスとそれと結びついた空間が不可欠だと述べる。僕もそう考える。しかし、なかなかこの主張は受け入れられにくいのではないかと思う。なんせ「孤独」が「福祉の敵」として国家の「ケア」になるような時代だからだ。

ではどうするか。

僕は「ひとり」であることのメリット「も」もっと訴えていくことが必要だと思う。それは別に経済的に自立した強い主体になれということではなく、むしろ逆で社会的、経済的に恵まれない「弱者」のためにこそ「ひとり」で生きていくための公共的なインフラが必要だ、という議論を積極的にするべきだと考えてるいるのだ。

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僕はもはやFacebookやTwitterは意見を表明する場所としては相応しくないと考えています。日々考えていることを、半分だけ閉じたこうした場所で発信していけたらと思っています。

宇野常寛がこっそりはじめたひとりマガジン。社会時評と文化批評、あと個人的に日々のことを綴ったエッセイを書いていきます。いま書いている本の草…

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