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「多様性」をマジックワードにせず、しっかり機能させるために一番大切なものとはなにか

 今日は「多様性」という言葉について考えてみたい。この言葉は今日においてほとんど「正義」という言葉と同義になっている。多様性が低い、という言葉を僕たちは明確に「ダメ出し」として使っているし、しばしば伝家の宝刀のようにこの言葉を振りかざされる。ただ、僕はこの言葉のイメージはそれこそ「多様化」したほうがいいと思っている。というか、用いるときに少し気をつけたほうがいいと思うのだ。
 たとえばあるところに、20代の女性、30代の男性、40代の男性、50代の女性がいたとする。足りないと思うなら性的な方面や年齢はもっとバラついてもいい。仕事もばらばらで、それぞれライター、学校事務員、歯医者、エンジニアだ。素晴らしい多様性だと、一見思うかもしれないがもし彼ら彼女らが同じ雑誌を読んで同じ作家のファンで、同じイベントの打ち上げで同じビジネス系インフエンサーの悪口で盛り上がっていたとき、そこは多様性に溢れた場所だと言えるのだろうか。

 逆にあるところに戦闘力高めの美少年5人組がいたとする。年齢はたぶん、全員ミドルティーンでみんな同じ仕事(ロボット兵器のパイロット)をしている。「普通に考えたら」微塵も多様性はない。しかし一人は無口で冗談が通じない感じのクールガイ、二人目は陽キャの厨二病で、三人目は理屈肌の分析屋、四人目は育ちがいいせいで博愛主義に育った優しいお坊ちゃん、そして五人目は異様に自己完結した求道者だ。さて、「多様性が高い」チームなのは果たして前者なのか、それとも後者なのか。いろいろ解釈はできると思うが、そう単純な話ではないことは少し考えればわかるだろう。何が言いたいのかというと、多様性を高低のパラメーターで考えることそのものがあまり「多様性」という考え方に馴染まないということなのだ。

 誤解しないで欲しいけれど、僕も雑誌の誌面やシンポジウムの登壇者とか、なんとか委員の類がことごとく「おじさん」ばかりだとゲンナリするし、そういうのは今すぐ改善したほうがいいと思う。しかしそれと同じくらい、イデオロギーや文化志向的なもの「も」考えないといけない局面は少なくないと思うのだ。

 言い換えれば、メンバーの(外面の)多様性が高いが同じものを信じる人たちだけが集まる「共同体」と、メンバーの(内面の)多様性が高い、つまり信じているものはばらばらの人たちのあつまる「社会」のどちらが、実質的に寛容で、文化的に豊かな場所になるかを少し考えてみて欲しいと僕は思うのだ。もちろん、両者は単純に対立しているのではなく、外面の多様性がある程度内面の多様性を担保すると考えることができると思う。そして「だからこそ」ここに現代人が陥りがちな罠があると僕は思う。

 もう少し具体的に意地悪な例を出すと、たとえば東京の意識の高いスローフード好きの人たちが地方創生に一生懸命な(人口3000人くらいの)農村に建てられた(総工費30億円くらいの)隈研吾風和モダン多目的スペースで持続可能性をテーマにしたイベントを催して、そこに地元の顔役(高齢者)と中学生たちが招待されたとき、たしかにそこに集まっている人の性別と年齢は多様で、階級も多少ばらつきはある。しかし、それって本当に「多様」な場所だと言えるのだろうか、ということだ。

 要するに、僕は表面的な多様性を追求するあまり、前者のようなイデオロギッシュで窮屈な共同体を無批判に形成してしまっているケースが少なくないと思うのだ。そしてこの罠を回避する方法は一つしかないと思う。

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僕はもはやFacebookやTwitterは意見を表明する場所としては相応しくないと考えています。日々考えていることを、半分だけ閉じたこうした場所で発信していけたらと思っています。

宇野常寛がこっそりはじめたひとりマガジン。社会時評と文化批評、あと個人的に日々のことを綴ったエッセイを書いていきます。いま書いている本の草…

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