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「新NISA(的なもの)」が可視化してしまった「日本は当面よくならない」という諦めが社会にもたらす(悪)影響について

先日、山口揚平さんと別件で打ち合わせをしていて、来月にちょっと変わった講座をやることにした。

要するにこれは揚平さんの短・中期的な日本の社会、経済予測をベースにその対策を社会のレベル(日本をどうする)と個人のレベル、つまり現役世代の自己防衛(私たちはどうする)という2つの議論を併置する……という講座で、いままで僕がまったくやってこなかったタイプの講座になると思う。僕は割といい加減に生きてきたところがあり、あまり人生をうまくやる、セーフティにする……といったことに関心をそれほど払ったことがないのだけれど、少し考えるところがあって、実験的にこういったタイプの講座を企画してみることになった。

今日はその理由のようなものを書いてみたいと思う。そして例によって結論から述べると、僕はここ数年でこの国は、(みんなまだ、それほどハッキリと口にしていないが)この国は(少なくとも向こう数十年の間についていえば)「もうダメだ」と感じていて、それぞれがもう社会をどうするかではなく、自己防衛のフェイズに入ってしまったと考えていて、その前提の上で僕たちもメッセージを発しないとといけないと考えているのだ。

これはあまり良いことではない、というか確実に「良くない」ことなのだけど……最近、気がついたら周囲の人間が「守り」に入っているな、と思うことが増えた。誤解しないでほしいが「守り」に入る人が悪いと僕は考えているのではなくて、その背景にある「この国はもう、ダメなんじゃないか」というぼんやりとした絶望のようなものが「悪い」と思う。さらに言えば、シビアな現状認識をもつことはむしろ重要なことで、僕が「悪い」と感じているのは、こうしてしっかりと自分の人生を考えている人に「見切り」をつけさせはじめているこの「社会」の現状なのだ。

たとえば、僕の周囲には(僕とは違い)いわゆるパワー・エリート的な階層の人が少なくないのだけれど、彼ら彼女らの多くがその子供をインターナショナルスクールに入れたり、留学させたりしている。そしてその意図を尋ねると、この人たちは基本的にこの日本という国の未来をまったく信用していなくて、子供に「日本じゃなくても生きていく力」を与えたいと考えているのだと口を揃える。僕には子供がいないが、もし子供がいたら僕もそう考えていたかもしれないな、とは思う。しかしそれ以上に強く感じるのが、もうこの国は(少なくとも自分の現役時代には)良くならないという諦めが、この層にうっすらと共有されていることなのだ。

これは多少なりとも社会に対して発言してきた人間には、堪える現実だ。「実際に厳しい現状が存在すること」と「この厳しい現状はもう(少なくとも自分の子供が暮らし続けられるレベルには)改善しないというコンセンサスができてしまうこと」とは、関連してはいるが別問題だ。要するに厳しい現実があるからこそ、そこに立ち向かっていくために僕たちは言葉を重ねてきたのだけど、その言葉がこの「もうこの国はダメなんじゃないか」という「空気」に上書きされてしまっているのだ。実際に、今日の言論空間は政権は愚かだというガス抜きと、野党はバカだという弱い側に石を投げて自分は強いと思い込む「イジメ」的なヒーリングに二分されて、ほとんど機能していない。実際にそういう無内容な罵詈雑言のほうが、SNSのサブスクなどで「即金」になるので、どんどん支配的になっている。

この流れの象徴的な位置に結果的に置かれてしまっているのが、変な話だけど僕は「新NISA」だと思う。いや、これ自体はただの控除枠の話でしかないのだけれど、政府の意図しないところで側面からこの「空気」を可視化する役割を果たしてしまっているように思うのだ。

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僕はもはやFacebookやTwitterは意見を表明する場所としては相応しくないと考えています。日々考えていることを、半分だけ閉じたこうした場所で発信していけたらと思っています。

宇野常寛がこっそりはじめたひとりマガジン。社会時評と文化批評、あと個人的に日々のことを綴ったエッセイを書いていきます。いま書いている本の草…

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