(公開の場で大勢と)「議論」するとき僕たちが考えるべきこと
今日は少し事情があって、僕より若い世代の人たちにテレビなどの討論番組やトークセッションの振る舞い方、みたいなことについて話す機会があった。その関係で、少しこういったメディアやイベントでの「議論」というものについて考えたことがあるので、それを書き留めておきたい。
僕がもう10年以上もまえにNHKの『ニッポンのジレンマ』に出たときに考えたことがある。この番組は司会の堀潤(当時NHK所属のアナウンサーだった)や駒崎弘樹などその後の仕事仲間と出会うことになった……なんというか、僕の人生にとって結果的に大きな意味を持つ番組になったのだけれど、そこで僕は気づいたことがあった。それは、意気軒昂としてこの番組で自分の溢れる知性をアピールして一気に「持っていこう」みたいなことを考えて乗り込んでくる気鋭の学者先生や実業界のカリスマみたいな人が、ほとんど空回りしていたことだ。それは今思えば、番組の収録方針に問題があったのかもしれないけれど、とにかく多いパターンは自分にバトンが渡った途端に、比喩的に言えば最近自分が出した新書のダイジェストを10分間「演説」してしまうパターンだった。僕にとっては一読者としてとても参考になる「演説」も中にはあったけれど、どちらかといえば「え? 今話している問題とそれ、あまり関係なくない……?」といった類の、無理矢理感のある「こじつけ」が多かった。そしてそういう人は要するに、その場で考えていない、つまり用意してきた話を差し込むだけなので、あまり噛み合った議論ができずに、収録中もあまり活躍できず、せっかくの「演説」もあまり編集で「使われない」ことが多かった。
いや、前もって準備してきた話をするのはいいのだけれど、それを強引に差し込めばよい、というのはさすがに都合が良すぎるんなないか……と当時は思ったけれど、今思えばこれはあの頃の「テレビ」だからだ起きたことだと思う。つまり当時(2010年代前半)は、Twitter(当時)によって一度解体されかけた「世間」というものがもう一度タイムラインの「潮目」として蘇ってきたタイミングだった。このとき、たぶんあの手の番組で鼻息荒くして(そして独り相撲的に失敗していた)人たちは、要するに恋愛リアリティーショーで性急に目立とうとして失敗する若者のようなことをしてしまったのだと思うのだ。彼らは「正しく」このゲームの本質は、テレビで活躍して場外(SNS)での影響力を増すことだと理解していた。そのために、ただ貪欲にそれを追求したのだ。しかし、問題は彼らが思っていたほどただ「演説」すればいい、という単純なゲームではなかったということだ。今だったら、彼らはもう少し場外(SNS)でどう自分の株を上げるかを考えて、慎重に行動するのではないかと思う(まあ、より卑しくなった、と言えると思うのだが……)
で、何度かそういう場にいた僕は何を考えていたのか。
まず、その後の僕の行動が証明していると思うのだけれど、実のところ僕はああ言う場所に半分は編集者として「未来の著者」を探しに来ていた。
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u-note(宇野常寛の個人的なノートブック)
宇野常寛がこっそりはじめたひとりマガジン。社会時評と文化批評、あと個人的に日々のことを綴ったエッセイを書いていきます。いま書いている本の草…
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