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参議院選挙がはじまるその前に「第三極は、なぜ機能しないのか?」を考える

5月3日の憲法記念日に、大阪で憲法についてのパネルディスカッションに登壇してきた。そこでは、憲法9条についてイデオロギッシュに擁護/批判する、といった紋切り型ではなく、日本国憲法の条文そのものが非常に抽象的で大きく解釈に依存したものになっていること、そしてそこにあぐらをかいて、与野党も霞が関も最高裁判所までも、ことごとく事実上の解釈改憲的なアプローチを(9条ではなく、むしろ他の条項に対して)行うことが常態化していることが問題として指摘され、この種の議論としては例外的に有意義だった。

さて、それはそうとしてここで少し話題に登ったのが、なぜこの国の議会制民主主義において「第三極」は機能しないのか、といった問題だ。たとえばこの憲法についても、9条をめぐるイデオロギッシュな問題は少し考えれば分かることだがかなりの部分が擬似問題にすぎない。実質的な国軍(自衛隊)の必要性はもやは日本共産党さえ認めようとしている自明なことである一方で、自由民主党の改憲案に見られる時代錯誤の封建的で、基本的人権に対する最低限の尊重すら疑わしい人間観や社会観があらゆる意味で問題外なのも自明だ(と、いうよりもこうした幼稚なイデオロギーを掲げることで、コンプレックスが強い層を票田にする戦略はトランプ現象を引き合いに出すまでもなく大きく民度を、ひいては国力を損なうだろう)。僕は改憲論者だが、残念ながら現状のこの国で改憲が進行することにはリスクのほうが大きいと考えざるを得ない。そして改憲そのものの必要性は自明だが、現状では残念ながら9条をめぐるイデオロギッシュな疑似問題に引きずられ、まともな議論を期待することは難しいだろう。

そこで重要なのが、いわゆる第三極の存在だ。第一極(主流派)と第二極(反主流派)が、擬似問題に基づいた対立に陥っているときに、実際の問題は他にあることを指摘し、問題を再設定すること。これが第三極に期待される役割だ。しかし、現状のこの国の民主主義や言論において、第三極的なものが機能しているとは言い難い。いま、この国の第三極は問題を再設定することよりも、第一極を補完し第二極を攻撃することを選択しがちだ。なぜ、このようなことが起きるのかを、今回は少し考えてみたい。

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僕はもはやFacebookやTwitterは意見を表明する場所としては相応しくないと考えています。日々考えていることを、半分だけ閉じたこうした場所で発信していけたらと思っています。

宇野常寛がこっそりはじめたひとりマガジン。社会時評と文化批評、あと個人的に日々のことを綴ったエッセイを書いていきます。いま書いている本の草…

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