資本主義に疲れた現代人が「共同体」を求めてしまうのは、そもそも「物事(商品やサービス)」をきちんと「味わって」いないからではないかという仮説
先週末はPLANETSCLUBの教養講座を開催した。今回の講師は古舘恒介さん。『エネルギーをめぐる旅』の出版以降、エネルギー問題の啓蒙家として知られているが、本業は日本石油を皮切りに、この国の石油供給の現場で長く働いてきた現役のビジネスマンだ。
古舘さんの講義はまず同書をベースにエネルギーの歴史を解説するところからはじまった。
そして僕たちの生きている間にエネルギーと環境負荷の問題が抜き差しならない状況に突入することがまず不可避であることを示した上で、今後取り得る社会のかたちについて古舘さんの見解を述べる、という構成で進行した。
そして講義後のディスカッションで、僕と古舘さんの見解は分かれた。端的に述べれば古舘さんはエネルギーの消費を抑制するために、まずは現状の資本主義を抑制し、共同体の相互扶助を社会のベースにすることを主張して、僕はあくまで個人を単位とする都市的な社会を維持した上で、エネルギー問題にも対応すべきだと考えているのだ。
僕と古舘さんは共に安宅和人さん主催の『風の谷を創る』のメンバーだ。僕は「全体デザイン班」、古舘さんは「エネルギー班」の担当で、結果的にこれはPLANETSCLUBを舞台にした『風の谷を創る』の方針をめぐる議論の「ように」なってしまった。もちろん、僕と古舘さんは前提となる認識は合意している。
たとえば、今日の東京に電力を「売る」ことを前提とした地方の(実質的な補助金目当ての)再生エネルギーへの注力には共に批判的だ。そもそもエネルギーを「売る」ことで、中央が地方を事実上の植民地化し、モノカルチャー経済化してしまうという点においては、原子力発電所だろうが再生エネルギーだろうが、バナナ農園だろうが構造は変わらないから、だ。『風の谷を創る』は、このような構造への依存からどう脱却するかという問題意識から出発した運動でもある(はずな)のだ。
では相違点がどこにあったかというと、それはエネルギー消費の抑制と(地域)共同体への回帰を結びつけるべきか否か、だ。現代の自己目的化した「成長」のゲームへの違和感には共感するが、そのオルタナティブが前近代的な村落への共同体への「回帰」だと、僕は考えることができない。
その理由は(別記事と重複するので少しだけ述べれば)、よい関係があれば、相互扶助のネットワークに加われるのでよい、という考えは共同体に中心と周辺が必ず発生することや、敵を設定することでその結束を維持するという性質をあまりに度外視しているからだ。その共同体という舞台に主役や重要な脇役として立てればよいが、端役や敵役を与えられた人間の惨めさを、僕は忘れてはいけないと思う。詳しくは以下の記事などで述べたので、そちらを読んでほしい。
その上で今日は講座から数日を経て、あらためて考えたことを書きたいと思う。結論から述べれば、この問題の背景にあるのは、実は「共同体か社会か」「贈与か交換か」という問題以前に、僕たちが日々の暮らしの中で物事(商品やサービス)を暮らしの中できちんと「味わって」いない、という問題があると思う。以下、その理由を書いていきたい。
さて今日、問題にしたいのはむしろなぜ人は共同体を求めてしまうのか、という問題だ。大企業の管理職や中小企業のオーナーが弱い立場の人(部下や従業員)に囲まれてドヤ顔したい……みたいなどうしようもない動機はさくっと軽蔑するとして、僕が気になっているのはそもそもなぜ資本主義の抑制が共同体回帰とセットでイメージされがちなのかという問題だ。
本来は大量消費の反省と、共同体回帰は別問題のはずだ。たとえば消費社会の反省としてもっと孤独で、清貧的で、晴耕雨読的な、言ってみれば出廬前の諸葛孔明の生活のようなイメージで資本主義の抑制が語られてもいいと思うのだが……なぜかなかなかそうはならない。それはなぜか。
僕の仮説は、実は現代人の多くは都市にあふれる商品(モノ)やサービス(コト)をしっかり味わっていないのではないか、ということだ。
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u-note(宇野常寛の個人的なノートブック)
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