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「東京都のマッチングアプリ」問題から考える「子供はもはや親が育てるべきではない」という仮説

 今日はpodcastでも話題にしたことなのだが、東京都運営のマッチングアプリについて考えたい。都が「少子化対策」のために本腰を上げた、という触れ込みで、言ってみればなり物入りではじめたこのサービスだが、案の定「そもそも」のレベルでツッコミが入っているようだ。

 当然のことすぎて指摘するのも馬鹿馬鹿しいが、少子化は消費社会化や技術発展を背景にした人生観とライフスタイルの変化の産物だ。だから多かれ少なかれ、先進国は概ね少子化の傾向にある。
 現代人が子供を設けなくとも自分の仕事や表現が残ればよいと考えるのも、自分のためにお金と時間を使いたいと考える人が出てくるのもいたって自然なことで、政治ができるのはせいぜい「それでも子供が欲しい」という人が経済的、労力的に子供を設けることを諦めなくて済む公的支援をすること、くらいだろう。小池百合子都政は、この点においては積極的だと言われるが、やはりこの官営マッチングアプリの背景にある若者の「出会い」の場のなさに少子化の原因を見る分析はさすがに問題理解が浅すぎるだろう。

 前提の確認はこれくらいにして、僕はこの問題には二つの「真の問題」が隠れているように思う。

 1つ目は、普通に考えて止まるわけのない少子化に「本気で」ブレーキをかけたいなら、僕は「子供は親が育てる」という固定観念を社会が、具体的には国家や東京のような自治体が率先して捨てることが必要だと思う。みんな本当は気づいているはずだ。働きながら現役世代が子供を育てるのはそもそも「ムリ」だ。専業主婦前提の差別的な社会に帰るのは問題外、大家族への回帰も現実的ではない上に親ガチャ格差が激しすぎる。じゃあ、どうするか。
 結論から述べると僕はいろいろ問題は起こるだろうがこれから生まれてくる子供は社会が、究極的には国家が公教育の延長で育てるしかない、つまり親は「設けるだけ」に限界まで近づけるしかないと思う。

 そんなことをすれば家族のかたちが変わってしまう、と言われるのだろうが、変わって何が悪いのか(むしろ、変わるべきと僕は考える)。ただ、これは悲観的な予測だが、あまり変わらないだろうと僕は思う。これが1つ目の真の問題だ。

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僕はもはやFacebookやTwitterは意見を表明する場所としては相応しくないと考えています。日々考えていることを、半分だけ閉じたこうした場所で発信していけたらと思っています。

宇野常寛がこっそりはじめたひとりマガジン。社会時評と文化批評、あと個人的に日々のことを綴ったエッセイを書いていきます。いま書いている本の草…

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