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『デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション』と「自意識」の問題

 今日は久しぶりに、アニメについて書こうと思う。先日、ニッポン放送の吉田尚記アナウンサーの視界で(後編が)公開中のアニメ映画『デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション』についての座打開に参加した。今日は、そこで話しきれなかったことを中心に改めてこの作品について考えてみたい。

 この『デデデデ』は浅野いにおの原作マンガ(全12巻)がすでに完結しているのだが、既読の読者はご存知の通り、お世辞にも成功できているとは言えない。広げた風呂敷をたためず、たたまないことに意味を持たせることもできず、内輪ネタでお茶を濁しながらグダグダと、はっきり言ってしまえば作者自身が納得の行く終わり方を見つけられずに迷走したまま完結している。

 そしてこのアニメ版は、浅野自身が大きく参加し原作とは異なる結末を用意していることが予め宣言された。まあ、作者の公式アナウンスなど参考の参考程度にしかならないのは前提だが、それを差し引いても実際にこのアニメ版が、しっかりか完結することのできなかったマンガ版のある種のリベンジであることは想像に難くない。

 さて、僕はこのアニメ版を観たあとに、別の記事で以下のようにコメントしている。

 少し長くなるが、大事な論点なので引用しよう。

 たとえば、この作品ではナショナリズムを主張する政治家や大衆は、明確に醜く矮小なものとして描かれる。「意識高い系」のテック企業も、いわゆる「放射脳」と揶揄される陰謀論系の環境保護論者もそうだ。いや、僕も今挙げた人々は苦手だし、もっと言えば批判を加えたことも多いのだけれど、僕が気になったのはそういった「敵」というか、「バカにしていい」存在に対するキャラクターデザインから台詞回しまでのおちょくり方、だ。
 劇中に、宇宙人の超科学で作られた道具を手にしたヒロインが悪徳政治家を「粛清」するシーンが描かれる。もちろん、ヒロインのこの行為は独善の暴力として批判的に描かれる。しかしヒロインのこの行為が、「正義」のために何をなしても良いのかという倫理的な問いかけとして、「語る価値のあるもの」として真剣に扱われるのに対し、粛清されるべきこの「悪徳政治家」は徹底して愚弄的に描かれる。容姿も醜く設定され、そして若い女性アイドルに入れ込んでいることを嘲笑的に描写され続ける。ヒロインたちに比して、驚くべきほどに「語る価値のないもの」として描かれる。本作は全体的にこの調子で描かれている。浅野いにおという固有名詞に親和性の高い共同性があって、その文脈の中で嘲笑的に扱われがちなものには、容赦なく冷酷な戯画化が与えられていくーー。
 誤解しないでほしいが、僕はだから「ダメ」とは言っていない。繰り返すが、後編も原作も観ていない状態でこの文章を書いているので、作品時代の評価は「保留」している。その上で言うが、この「他者」に冷酷な態度は、物語の後半で描かれる宇宙人との共存、つまり他者の尊厳への尊重というテーマと、大きく齟齬をきたしているのではないか。後編で、この態度が批判的に自己検証されると、僕は強く期待するが、宇宙人を侵略者として一方的に決めつけ、円盤に搭乗する宇宙人を見つけ次第射殺する政府の対応を、本作は極めて醜く、批判的に描く(そりゃそうだろう)。しかし、僕には本作の「ナショナリスト」や「意識高い系」や「放射脳」を、前提として「おちょくって」描くこの創作態度は、劇中で批判的に描かれる宇宙人を問答無用で虐殺する態度と、どこが違うのかまったく分からなかったのだ……。

https://note.com/wakusei2nduno/n/n6f1078044114

要するに、本作は「絵柄」的にも描写的にも、さまざまな人たちが揶揄されている。それはいい。しかし、ここまで醜く歪めて相手を描くのなら、自分たちはどうなのだろう、と僕は思う。すごく意地悪な言い方をすれば、ネトウヨも意識高い系も放射脳もSEALDsもバカにするあなたは、どれほど立派な人なのだろうか、と思ったのだ。

例外的に尊く描かれている門出とおんたん、つまり織田りらやあのちゃんのような若い女性アイドルに自己を仮託しているサブカルおじさんが、これらのバカにされている人たちよりマシだとはどうしても僕には思えなかった……というかこのようなかたちで隣のムラをアンフェアなやり方で冷笑して喜んでいるのは、むしろ自分たちがバカにしてる層よりもみっともないんじゃないかと思ったのだ。

もし仮に、門出やおんたんの提示する価値のようなものが、これらの「冷笑されている人たち」のそれよりも、魅力的に描かれていれば、まだ(卑しいアプローチだとは思うが)作品として批判力を持ち得たと思う。しかし、それすらもない。

マンガ版の結末は、ただの門手の父を通じた「なにもできなかった俺たち」に対する自己憐憫でしかない。では、アニメ版の結末で門出やおんたんが到達する場所はどうだったろうか。残念ながらこれも、かなり既視感のあるーー既に乗り越えられてしまったものだったように思う。

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僕はもはやFacebookやTwitterは意見を表明する場所としては相応しくないと考えています。日々考えていることを、半分だけ閉じたこうした場所で発信していけたらと思っています。

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