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「敵」が醜く描かれる世界は果たして「リベラル」であり得るのか(たぶん、難しい)という話

 少し前に映画『デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション』の映画版(前編)を観てきた。作品そのものは、僕はとても楽しめたし、いろいろ考えることもあるのだが、作品自体のことは後編の公開後に批評するとして、今日は鑑賞中に覚えたちょっとした「引っ掛かり」のことを考えてみたい。後編も観ていないし、原作も未読の状態なのでこれは作品への言及ではないとしっかり断っておかなければならないのだけど、僕が引っかかりを覚えたのは、この『デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション』の世界では、肯定的に扱われるものと否定的に扱われるもの境界線が、ぞっとするくらいはっきりと引かれていること、だ。
 たとえば、この作品ではナショナリズムを主張する政治家や大衆は、明確に醜く矮小なものとして描かれる。「意識高い系」のテック企業も、いわゆる「放射脳」と揶揄される陰謀論系の環境保護論者、もそうだ。いや、僕も今挙げた人々は苦手だし、もっと言えば批判を加えたことも多いのだけれど、僕が気になったのはそういった「敵」というか、「バカにしていい」存在に対するキャラクターデザインから台詞回しまでのおちょくり方、だ。
 劇中に、宇宙人の超科学で作られた道具を手にしたヒロインが悪徳政治家を「粛清」するシーンが描かれる。もちろん、ヒロインのこの行為は独善の暴力として批判的に描かれる。しかしヒロインのこの行為が、「正義」のために何をなしても良いのか、という倫理的な問いかけとして、「語る価値のあるもの」として真剣に扱われるのに対し、粛清されるべきこの「悪徳政治家」は徹底して愚弄的に描かれる。容姿も醜く設定され、そして若い女性アイドルに入れ込んでいることを嘲笑的に描写され続ける。ヒロインたちに比して、驚くべきほどに「語る価値のないもの」として描かれる。本作は全体的にこの調子で描かれている。浅野いにおという固有名詞に親和性の高い共同性があって、その文脈の中で嘲笑的に扱われがちなものには、容赦なく冷酷な戯画化が与えられていくーー。

 誤解しないでほしいが、僕はだから「ダメ」とは言っていない。繰り返すが、後編も原作も観ていない状態でこの文章を書いているので、作品時代の評価は「保留」している。その上で言うが、この「他者」に冷酷な態度は、物語の後半で描かれる宇宙人との共存、つまり他者の尊厳への尊重というテーマと、大きく齟齬をきたしているのではないか。後編で、この態度が批判的に自己検証されると、僕は強く期待するが、宇宙人を侵略者として一方的に決めつけ、円盤に搭乗する宇宙人を見つけ次第射殺する政府の対応を、本作は極めて醜く、批判的に描く(そりゃそうだろう)。しかし、僕には本作の「ナショナリスト」や「意識高い系」や「放射脳」を、前提として「おちょくって」描くこの創作態度は、劇中で批判的に描かれる宇宙人を問答無用で虐殺する態度と、どこが違うのかまったく分からなかったのだ……。

 そして、ここから先が本題なのだが、これは誰でも言論で人を殴ることができるこのSNS時代に、忘れてはならない問題を示唆しているように僕は思うのだ。

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僕はもはやFacebookやTwitterは意見を表明する場所としては相応しくないと考えています。日々考えていることを、半分だけ閉じたこうした場所で発信していけたらと思っています。

宇野常寛がこっそりはじめたひとりマガジン。社会時評と文化批評、あと個人的に日々のことを綴ったエッセイを書いていきます。いま書いている本の草…

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