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「消費社会」と「個人主義」を守りたければむしろ「政治的」なコミットが必要なのではという話

実はこの2日ほど、風を引き寝込んでいた。今日から仕事に復帰しているので、このnoteも通常通りの更新に戻したい。

先週末、PLANETSCLUBに福嶋亮大さんを招き、中国、ロシアを中心とした「ユーラシア」の思想についてのオンライン講義を開催した。CLUBのメンバーで当日参加できなかった人はぜひ、動画アーカイブで追いついて欲しい。そして毎回グループディスカッションと質疑応答で盛り上がるのでぜひとも次の講義はリアルタイムで参加してほしいのだけれど、今日はこの福嶋さんの講義を経て、僕が考えたことを書きたいと思う。

この日の福嶋さんの講義は中国、ロシアに加え香港、台湾、韓国といった東アジアのリベラル・デモクラシー陣営の国家に焦点が当てられていた。特に福嶋さんが重点的に論じたのは台湾で、講義ではこの決して大きくない国が戦後史の中でどのような問題を抱え込み、そしてどのような経緯をもってアジアの「民主主義の優等生」的な存在になっていったのか、そしてとは言いつつも、決して胡座をかいてもいられない現代に抱える困難について解説してくれた。

そして僕は彼の話を聞きながら、ずっとこの日本のことを考えていた。僕は安易に外国のモデルを理想化して、だから日本はダメなのだという紋切り型の思考こそが安易だと強く思う(福嶋さんの講義は当然こうした常識を前提にしていて、だからこそ僕は彼の分析を他の誰よりも頼りにしている)。

しかし今のこの国の民主主義のことを考えると、単純に政権交代の可能性がほぼ存在せず、戦後80年近くを経ても実質的な開発独裁に毛が生えた程度のものでしかない……という現実を直視して絶望的な気分になってしまう。しかし文句を言っていてもはじまらないので、少しでもマシなシナリオを考えないといけないだろう。

そして例によって結論から述べてしまうと、僕はこの国の民主主義をもう少しマシに機能させるためには、なんだかんだで政治的であることに忌避感をもつ「普通の人」(という発想自体が僕は好きではないが……)を啓蒙し、しっかり政治化していくしかないようにと思うのだ。

いま、投票率を上げると自民党がより集票して体制を強化するだけなのだとしたり顔で述べる人も多いだろうが、その程度のことは承知の上で述べている。もちろん、先健康体の可能性自体(野党を育てることそのものに価値がある)ことも、全力で啓蒙していくのだけれど、その過程で、「リベラルな」知識人の皆さま方が(表立っては言わないが、仲間うちの飲み会では)軽蔑を隠さない愚民大衆がこぞって自民党に投票するという国政選挙を、数回経験してしまうリスクは引き受けるしかないと思う。そうやって少しずつでも、この国の政治文化を育むしかないというのが僕の結論なのだ。

ベタな啓蒙は即効性が低いので、とりあえずSNSでインスタントに自分を賢く見せたい人には不人気な手法だけれど、これしかない。むしろSNSでイキって自分を賢く見せたいといった幼稚な発想しか持てない人たちからいかに民主主義を防衛すべきか、というのが今後の課題なのだと思う。

なぜそう考えるのか?
手がかりは台湾と韓国、とりわけ前者の歴史にある。

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僕はもはやFacebookやTwitterは意見を表明する場所としては相応しくないと考えています。日々考えていることを、半分だけ閉じたこうした場所で発信していけたらと思っています。

宇野常寛がこっそりはじめたひとりマガジン。社会時評と文化批評、あと個人的に日々のことを綴ったエッセイを書いていきます。いま書いている本の草…

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