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第三章 他者を探し求めるヨーロッパ小説――初期グローバリゼーション再考(後編)|福嶋亮大

本日のメルマガは、批評家・福嶋亮大さんの連載「世界文学のアーキテクチャ」をお届けします。
一八世紀、初期グローバリゼーションによって生じた「他者とのつながり」に文学作品はどう向き合ったのか、『ロビンソン・クルーソー』を象徴的な作品として分析します。
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福嶋亮大 世界文学のアーキテクチャ
第三章 他者を探し求めるヨーロッパ小説――初期グローバリゼーション再考(後編)

6、アジアの帝国から未知の新世界へ

 われわれはふつう、文学の世界認識は狭小な段階から徐々に拡大していったと漠然と思い込んでいる。しかし、ヨーロッパ文学の歩みは決してそういうものではない。繰り返せば、古代ギリシアのアイスキュロスからして、すでに東方のペルシア帝国とのコンタクトを劇の中枢に据えていた。前章で述べたように、「今・ここ」を超越して、他者に憑依するガリレイ的言語意識も、ヘロドトスの『歴史』をはじめギリシア人の世界認識に早くも出現していた。
 標語的に言えば、ヨーロッパ文学史とは他者を探し求める歴史である。ゆえに『ペルシア人の手紙』のなかで、オスマン帝国の退潮が予言され、その代わりに非イスラム的な他者であるロシアが登場することは、きわめて重要である。しかも、その他者に気をとられすぎて、自己が衰亡してゆくというアイロニーまで、モンテスキューはしっかり書き込んでいたのだ。そこから小説史のマクロな展開を読み取るならば、およそこうなるだろう――ヨーロッパの近代小説とはオリエントのイスラム帝国の黄昏とともに生じ、その後は非イスラム的な他者との遭遇を利用しつつ、二〇世紀半ばの世界各地の植民地の独立とともに衰亡したジャンルである、と。
 ただ、その場合、ヨーロッパ文学に世界認識=他者認識のビッグバンをもたらしたのが、新興国のロシア以上に、海を隔てた「新世界」についての知見であったことも指摘せねばならない。そのインパクトをいち早く利用したのは、ロンドンのトマス・モアによる『ユートピア』(一五一六年)である。一五世紀末以降「新世界」(アメリカ大陸)を四度旅したと称するイタリア人アメリゴ・ヴェスプッチの航海記が、当時人気を博していた。『ユートピア』はヴェスプッチに随行したとされる架空の船乗りラファエル・ヒュトロダエウスが、その並外れた体験と認識をアントワープ(アントウェルペン)でモアに語ったという体裁で書かれている。
 エラスムスは盟友モアの描き出したユートピアを「既知の世界の境界外」に位置する「新世界」と評した。「社会の最善政体」とは何かを考えるプラトン以来の政治学を引き継ぎながら、モアは私有財産制を撤廃し、住民たちが自然状態に従って生きる一種の共産主義社会を構想したが、そのラディカルなヴィジョンはまさに未知の「新世界」の出現に強く触発されている。ヴェスプッチの航海はたんに地理的な発見にとどまらず、「既知の世界」に閉じ込められていたそれまでの哲学的な世界像に、ブレイクスルーをもたらす契機になったのである。
 このような文学や思想のグローバリゼーションが一つの頂点に達したのは、一八世紀においてである。非ヨーロッパの「新世界」との出会いを契機として、一八世紀初頭のフランス人は多様なユートピア的想像力を開花させた。その後、モンテスキューの『ペルシア人の手紙』を皮切りに、ヴォルテール、ルソー、ディドロら新興の「哲学者」(フィロゾーフ)たちが続々と小説を手掛けた。そこにも異世界への関心ははっきり示されており、そのエキゾティックな装いのなかに、本格的な文明批評が込められるケースも多かった。想像上のタヒチ人の視点からヨーロッパの性道徳を諷刺したディドロの『ブーガンヴィル航海記補遺』(一七七二年執筆/著者の死後刊行)は、その代表作である[23]。
 さらに、ルソーの『新エロイーズ』(一七六一年)の主人公で、田舎者で純朴な家庭教師サン゠プルーも、ジュリとの恋に破れた傷心を抱えて世界周航の旅に乗り出し、南米のブラジル、パタゴニア、メキシコ、ペルー、さらにはアフリカ大陸をめぐるが、そこではいずれも貪婪なヨーロッパ人に略奪された優しくも不幸な現地人の姿が見出される(第四部・書簡三)。つまり、サン゠プルーと同様に深く傷ついた「新世界」の惨状が、文明の横暴の証拠として描かれたのだ。その一方、この傷心旅行にイスラム世界が含まれないのは、『ペルシア人の手紙』と比較して、オリエントの象徴的地位がさらに下落したことを示唆するだろう[24]。
 広大な環大西洋的世界――大地震の起こったリスボンからアフリカのモロッコ、南米のスリナムまで――をいわばJ・G・バラードふうの残虐行為展覧会に変えてゆくヴォルテールの傑作『カンディード』(一七五九年)も含めて、『ペルシア人の手紙』より一世代後の小説は、陸でつながったオリエントの帝国から、海を隔てた「新世界」へとその地理的重心をシフトさせた。われわれは、このヨーロッパ文学における他者性の座標の変化に注意を払わねばならない。

7、初期グローバリゼーションと世界像の爆発

 歴史家のC・A・ベイリは、国民国家の最盛期以前にあたる「一七世紀・一八世紀のグローバリゼーション」の性質を考えることの重要性を説いている。彼はこの時期の奴隷プランテーションのシステムや新世界の銀のような経済的ネットワークが、すでに世界を連結しつつあったことを強調し、それを「初期グローバリゼーション」と呼んだ[25]。私もこの名称を採用することにしよう。
 初期グローバリゼーションを背景として、一八世紀は新世界とのコンタクトの体験を文学と思想に登録した。それはたんに地理的テーマを多様化しただけではなく、人間像や世界像そのものにも劇的な地殻変動を引き起こした。それを「思想の地震」と呼んでも言い過ぎではないだろう。一七五五年のリスボン大地震が、ヴォルテールに『カンディード』を書かせ、後にカントの地理学にも影響を与えたことはよく知られるが、認識論的なレベルでの地震はすでに『ペルシア人の手紙』の段階で予告されていた。
思想史家のダニエル・モルネは、ジョージ・アンソンやクック、ブーガンヴィルの世界周航記をむさぼるように消費した一八世紀フランスの知的傾向を、次のように要約している。

大作家の著作は、真面目なものであれふざけたものであれ、広大な世界を巡り歩くこのような趣味を反映していた。小説、コント、悲劇、市民劇、喜劇、オペラ・コミックには常に中近東、中国、エジプト、ペルー、インド趣味が見られるか、そのような装いをされていた。おそらくは、この異国趣味は作品では往々にして、意匠や変装にすぎなかったであろう。バビロンはパリであり、トルコの僧侶は我々の司祭だった。けれども、異国趣味が本格的であった場合も少なくなかった。パリの住民でも、フランス人でも、ヨーロッパ人でも、文明人でもないように努力がなされたのだ。[26]

 グローバルな探検を背景として習慣の自明性を問い直すこと、それによってヨーロッパ人の限界を超えた新しい人間像を描き出すこと――この超‐人間性こそが「啓蒙の世紀」における核心的なテーマとなった。そこにはシリウス星人や土星人の登場するヴォルテールの哲学小説『ミクロメガス』のように、ほとんど『ガリヴァー旅行記』のSF版とでも言うべき諷刺性を発揮した作品もあれば、後のサドのリベルタン小説のように「自然」の名のもとに、人間の怪物性を驚くほどの高解像度で象ってみせた作品群もある。
 小説という新しいメディアを活用しながら、人間的なものの臨界点にまで到ろうとするフィロゾーフたちの言論は、革新的な運動であり、それまでのフランスの旧態依然としたイデオロギーを破壊するものであった。ヴォルテールは『哲学書簡』(一七三四年)――フランスの遅れを批判しつつ、イギリスの先進的な政治や文化を称賛してベストセラーとなった――において「本を読む人間でも、その内訳は、小説を読む人間二十人にたいして、哲学を研究する人間はひとりという割合だ。ものを考える人間の数はきわめて少ないし、また、こうしたひとびとは世間を騒がそうとは思いもしない」と嘆いたが[27]、その彼自身が小説によって思想を広めたのである。上品で老成したフランス文化を敵視したドイツのゲーテは、まさにこの反フランス的フランス人である「哲学者」たちの活動に魅了されていた[28]。
 むろん、彼らの「小説」は危険視されたが、哲学者はその流通の自由を何とか確保しようとした。特に、厳しい検閲をやめて、出版の自由を守るよう君主に強く訴えたのはディドロである。当時、非合法化された作品については海賊版が横行し、著者の立場はろくに守られなかった。その状況を憂慮したディドロは、フランスが率先して質の良い出版物を刊行する一方、海賊版を摘発して、著者の利益を守ることが社会の利益にもなると主張した。そもそも、彼の考えでは、既成観念に反する危険な書物――その例としてディドロは真っ先に『ペルシア人の手紙』を挙げている――ほど、法の網の目を軽々とくぐり抜けてしまうので、規制は意味をなさない。

閣下、国境にそってずっと兵士を配置なさり、姿を現わすあらゆる危険な書籍を押し戻すために銃剣を装備させてください。そうしたとしても、こうした書籍は、こういう表現をお許しいただきたいのですが、兵士の脚の間を通りぬけ、兵士の頭の上を飛びこえ、われわれに達するでありましょう。[29]

 ディドロによれば、商品としての書籍にはいわば足が生えている。ゆえに、どれだけ厳重に国境を封鎖したとしても、それはウイルスのようにフランスに侵入し、国民のあいだに感染を広げるだろう……。ディドロはこの出版物の特性を、むしろ公共の利益に変えるような政治を望んだ。こうした発想は、小説という野生のジャンルの勃興と切り離せない。

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