月齢20の鈍い光の中で見た、森を切り裂くように走る「治神団」の光。彼らが追っているものは何か。
長編ファンタジー小説 獣の時代〈第1部〉
第一章 鵺の夜④
初めて秋山が夜空で砥上を見つけた時、彼は巨大な鷹の姿だった。
伸び伸びと両翼を広げ月光を浴びて海に向かって飛んでく美しい姿は、ここが人間界であることを忘れてしまうくらいだった。
見惚れるというほどではないが気になって様子を見ていたら、いきなりそれは落下を始めた。
しかも落下を始めた直後に鳥の姿は解け、人間となっていた。
足元は市街地を抜け駿河湾になっていたが、落下地点が海面でも、姿が鳥のままであっても助かる高度じゃない。4分の3とはいえ同じ人間として目の前で人間がペシャンコになるのを目撃するのは気分が悪すぎる。
人助けなんて柄じゃないが、見て見ぬふりも夢見が悪いと必死になってその人間を受け止め、仕方なく最寄りの海浜公園の東屋まで運んだ。
彼は裸だった。
今日び狼人間だって変身の度に裸にならない簡単な魔法を知っている。そんなことも知らない奴はどんな間抜けな奴だとマジマジ顔を見てみた。
基本夜行性の吸血鬼は夜目が効く。いや効くなんてもんじゃない。魔力を表面化している時は昼間よりもよく見えるし人間なら見えないものまでばっちり見えてしまう。そしてちょうど相手も気がつき、両者の目が合った。
一瞬の空白の後、己の霰もない姿に気づいた砥上が悲鳴を上げて秋山の視線から逃れたのはいうまでもない。
「うそ、何これ、俺ないから! そんな趣味ないから! ていうかあんた何! それ何!」
混乱するのも無理はない。身に覚えのない姿に加え寝かされていたのは海辺の東屋。すぐそばには玩具の吸血鬼のソフトビニル面をかぶり黒マントをつけた怪しげな男(多分)がたたずんでいたのだ。
「ば、ばっか野郎、俺だってないわ! 暴れないでこれでも着ろ! 早よ着ろ!」
急いでマントを外すと秋山は、汚い物でも手放すように放り投げた。
相手の顔は知っていた。
同じ会社で、時々車が好きな仲間と話しているのを見る。秋山も何度か話しかけれらて輪に入ったことはあるが、社内の人間とはなるべく距離を置くようにしているため、会話らしい会話もしたことがない。
ただ、時に彼は人ならざる存在の香りを放つ。
先程の鷹の姿でいたときも、魔界人にとってとても魅力的な匂いがあたりに立ち込めていた。
「それとな」どうにかマントを体に巻き付け僅かばかりに得た安堵感にすがる彼に見せるように、吸血鬼のマスクを取った。
「俺だよ」
一重瞼の目が、大きく見開かれた。
その顔には見覚えがあった。
時々行く製造部の事務所の近くでマシニングセンターの操作をしている男だ。昔のハッチバックをレース仕様に改造してあって、たまに食後の話の輪に加わっている。
「(製造)2課の」
「ああ。秋山だ」
はにかんだような口元から、大きな八重歯が見えた。
「お前、何者だ」
だが眼鏡の奥で細められた瞳は、笑っていなかった。
⁂⁂⁂⁂⁂
午後から回復した天気は崩れることはなく、久しぶりに月が顔を出していた。
月齢20。
自室の窓を開け電気を消す。
片膝をつき数回の深呼吸。その時を思い出し頭の中で再生する。
身体が、身体中の細胞が芽を開くのを感じる。
まだだ。
細胞達がその時を渇望する。
体の奥底から湧き出る謎の力に触れたがっている。
あの快感を、あの恍惚を味わったら忘れられない。
いや、きっと忘れてしまうだろう。
人間であることを。
喉元まで競り上がり、脳幹の下あたりで泡の如く弾ける力を解放する。
だが慎重に。
筋肉と骨が音を立てて瞬時に作り替えられていく。
待ちきれない、あの月光に飛び立つ瞬間が。
だがまだ早い。
鋭い鉤爪がもどかしげにカーペットに食い込み切り裂く。
首に揺れるペンダントが跳ね返す月の光を見ることで、人の意識を保つ。
外に出たがる力を抑えなければ。
人間である彼がしゃがんだ時の体高は大型バイクのシートほど。
筋肉質とはいえないまでも、大人の男のがっしりとした姿はやがて柔らかな輪郭へと変化した。
「ふう」鳥の口で溜息をついて立てかけた姿身を見ると、そこにはやや大きめながらも艶やかな羽を持った犬鷲がいた。
こんなものだろう。
体を大きく振るわせて羽毛の間に空気を含ませるとふわり、体を浮かせた。
細胞がまだ騒いでいる。冠羽の先から尾羽の軸まで、ありとあらゆる場所で力の気泡が沸き立っている。
その力を制御しつつ、夜空へと身体を漕ぎ出す。
ああ、月光に晒されて澄んだ空気が体を通り抜ける。
研ぎ澄まされた感覚がこの世を満たす全てのものに反応する。
深い昆虫の出す音、
漂う精霊と文明の生み出す金属臭、
化学製品の溶けた油膜に神経を撫でるあらゆる電波。
叫びたくなるほどの爽快感と絶望と自由。
己が何者かなんてどうでもいい。
このまま世界を廻り、世界に埋もれてしまいたくなる衝動に駆られる。
意識を差し置いて前に出ようとする力を必死で抑えた。
この感覚に支配された力に委ねたら、きっと人に戻れなくなってしまう。
翼の先を操り、秋山との待ち合わせ場所の方に体を向ける。
吸血鬼である彼は変身はしないものの、目覚めたばかりの砥上に力のコントロールについてヒントを与えてくれた。
彼の教え方は的確で、シンプルだった。
秋山にも似たような経験があるのかもしれないと考えたが、訊ねてはいない。
きっと教えてはくれないだろう。
やがて砥上は、聳え立つ煙突の上でゆっくりと弧を描き出した。
水分を多く含んだ空気の中を巨大な鳥が緩やかに降りてくる。
欠けた月の光が薄く満ちた中で、誰かがこの光景を見たならばきっと、どこからか逃げてきた鷲木菟か大型の梟の類だろうと思うかもしれない。
しかしバッサバッサと羽音を立てながら前のめりに降りてきたのは、立派な犬鷲だ。
「相変わらず下手くそだな」
危なっかしく煙突の縁に着地し、体制を立て直しながら体をぶるぶるとして乱れた羽毛を整えた砥上は、秋山を見上げた。
「眼が変わるとどうも距離感がついていかなくてさ」
犬鷲は自然界では主に森林に生息し人里に現れることも滅多にないが、この駿河央洲内でも生息が確認されている。
全長は最大で約95㎝、翼開長約220㎝とこの国の動物食の鳥としては巨大だが、目撃されても違和感のない自然界の生き物だ。
最初砥上は、鷹としては中型のオオタカの姿をしていた
彼にオオタカではなく犬鷲の姿に変えるよう指示したのは、他でもない秋山だ。
砥上のオオタカは姿形こそ紛れもなくオオタカだが、オオタカにしては大きすぎた。
全長が120㎝オーバーの巨大すぎるオオタカはどこを探してもいない。
白頭鷲なら誤魔化せたかもしれないだろうが、残念ながらこの国では北海道の蝦夷自治区でしか繁殖が確認されていない北の皇帝だ。
温暖なこの洲でうっかり目撃されでもしたらいい観察対象となってしまう。
身体の大きさもあまり小さくできないというから、犬鷲に似るよう努力しろと言い聞かせたのだが、何とか出来たようである。
「それ、着けてるな」
砥上の首に掛かるチェーンを見て、秋山はニヤリとした。
先端に小さなメダルがついている。
これは秋山が彼に与えたもので、人間の目から姿を隠す魔法がかけられている。
変身時犬鷲の姿をするよう指示したのは、万が一魔法が解けたり砥上がメダルを忘れてしまった時の為だ。犬鷲は昼行性だが、鳥は光があれば夜間も飛べる種がいる。
何かの弾みで夜に人に見られたとしても、異常に巨大化したオオタカや珍しい白頭鷲よりも容易に受け入れられる存在だと考えたのだ。
ま、遠目から犬鷲とオオタカをすぐに見分けられるほどの専門家がそうゴロゴロしているとも思えないが、念のためだ。
風の向きが変わり、周囲の煙突から上がる白い煙が一斉に足元を流れる。
彼らが普段待ち合わせ場所にしているこの煙突は、富士市の海岸沿いに形成されたコンビナート地域の中でも比較的古い工場の付帯物であり、工場自体は現在は稼働していない。
工場が大きすぎるために解体も出来ずに残されているのだ。
新しい工場は性能も良く、よって拡散される化学物質も抑えられているために煙突は低く、大体が排熱に利用されているが、残されている煙突の工場が稼働していた時にはまだ処理能力が悪く、高層での排煙が条例で定められていた。
おかげで残されたこの一本だけが異常に高い。
コンビナート地域のほとんどの工場は夜間操業している。だが民家も近くになく、地域の外縁にある廃工場の煙突を見上げる暇人はいない。
しかも煙突のてっぺんは地上から200メートルの高層部だ。例え姿を隠していなくても夜に肉眼で人間や鳥を視認できるほどの視力を持っている者はいないだろう。
「それで、どの方向に行く」
よっこらせと重そうに体の向きを変え、砥上は煙突の林から街の方角を見た。
港があり夜間操業の工場の灯りで不夜城のようなこの一体から内陸に向けて、徐々に光が少なくなっていく。今日は週末ではあるが、たいした盛場もない地方の都市なんてこんなものだろう。
やがて光を放つ建物の中の生物達は眠りにつく。
活動を止めて空っぽの光だけになるのだ。
生物の放つ光ではなく、生気のない光。
ただの白い点であるそれを、冷たいモノだと砥上は感じた。
遠くを見る砥上を秋山は見下ろして答える。
「津宮だ」
「それ富士宮じゃん」
呆れたように砥上がすぐに返した。
彼の家は富士市だがちょうど富士宮市との境にある。
元の方角に戻る形になるなら、わざわざここまで来なかったのに。
津宮は富士宮市にある区だが、彼らが務める会社もまた津宮区にあった。
「さっきな、妙な感じがしたんだけどよ、消えちまった」夜空に浮かび上がる富士山の方を向く秋山の瞳がほんのりとワイン色に発光していた。
魔力が強くなる満月期や魔力を使うとき、彼の瞳はヴァイオレットに変わる。魔力が強い時、魔力を使う時の視力は眼鏡が必要ないくらいだが、レンズには砥上に与えたメダル同様瞳の色を隠す作用がある。
「妙なってどんな」
それはいつのことだろうか。
家の窓を出た時からここに来るまで、砥上には何も感じられなかった。
もっとも、自分の意識を保つことで精一杯だったのだが。
「妙なモンは妙なモンなんだよ」
答えながらズボンのポケットから例の吸血鬼のマスクを出してかぶり、マントを揺らして浮かび上がった。
ビニール製の吸血鬼のマスクに胡散臭いマジシャンが付けるようなマント。
本人曰く「万が一の場合の仮装」というこの姿が、秋山が空を散歩するときの定番スタイルだ。
一方砥上は煙突から前のめりに落ちた。
すぐに足元を流れる風を捕まえ、揚力を得て秋山の横に並ぶ。
「確かに何かよくわかんねぇ感じのモンがいる気配がするぜ」
マスクの下でしきりに鼻を動かしている様が思い浮かぶ。気配というのだから臭いではないのだろうが、そんなイメージを浮かべてしまう。
「まあ、とにかく行けばわかるっしょ」
『鵺』を探しにいくといってもどうせアテはないのだ。
「だな」
彼らは影のように暗い富士山の麓を目指して移動を始めた。
津宮区はその昔蓬莱と呼ばれた富士山のすぐ下にある富士宮市にある区で、御影山という名の小さい山とその麓を含めた面積は市内の区としては1番広い。
本来は邑として独立した行政組織を持っていたが、玉都に置かれた中央政府の行政改革の都合で富士宮市に組み入れられた。
故に富士宮市民とされる事を快く思っていない津宮の住人も多い。
とはいえ会社内ではそんな隔たりは感じられないが。
かつて独立していた名残か、津宮と市内の間には森と低い山が溝のようにあり、空から見ても一度街の灯りが途切れる様子は違う領土に入るようだ。
北側の暗い森の上で秋山は止まり、地上を見下ろした。
「あれは何?」
横にぴたりとついてホバリングをする砥上も、森の中を移動する光に注目した。
どうやら大勢の人間が明かりを手に移動しているようだ。
祭りでもあるのだろうか
目を凝らすと、森の中の他にも走る洲道を進むバイクの集団が見えた。皆それぞれ合わせたように、白い行衣に身を包んでいる。
「治神団だ」
「へえ、初めて見た」
「この辺は行政がやるからな。俺の爺さんとこはまだあるぜ」
秋山の父方の祖父母の家は東北の山間部だと聞いている。
「けど夜に治神なんて、聞いたことねぇな」
治神はその土地にある地の神を管理し、人間の世界の穢レや漂う穢レ神から地の神を守り管理する土地に根付いた氏子のような団体だ。
古くは地域の社や祠を中心に行っていたが、現在は多くが市役所の管轄となり、市の方で取り行っている。その活動は神社の月次祭に似ていて、月の決まった日に神社の神職と治神に関わる数人が参加し、土地神の社を清掃したり祝詞をあげる祭りを行う。
他にも市民からの要請により神事を行うが、大抵は国神である天照にちなみ陽があるうちに行われる。
「ここは夜なんじゃないの」
「いいや、こんなんは初めてだぜ」
やがて、光は合わせたように洲道の一箇所に集まり始めた。