見出し画像

リュック・フェラーリの言葉、引用について思うこと。

リュック・フェラーリはフランスの前衛作曲家で、晩年は「あまちゃん」や「いだてん」の音楽を手掛けられた大友良英さんとの共演もありました。
フェラーリは電子音楽の作品がよく知られています。例えば下記リンクのような楽曲です。

 僕がフェラーリを知ったのは、その音楽からではなく、音楽雑誌の記事でした。当時、アルバイトをしていた出版社から発売されていた『ストレンジ・デイズ』という洋楽系の音楽を紹介する月刊誌でした。その中に現代音楽を紹介するページがあったのです。

 大学院時代、同じくフランスの電子音楽家、ピエール・シェフェールのことは知っていましたが、恥ずかしながらフェラーリは知りませんでした。

『ストレンジ・デイズ』を読んだときに印象的だったのは、フェラーリのある言葉でした。それは、70年代に出版された本からの引用でした。たぶん、その抜き出し方が絶妙だったのだと思います。というのは、先日、この引用元の本を買ったのですが、その部分の文章を探して読んでみると、そのフェラーリの語った言葉は少し違って僕の中には響きました。
 もしかしたら、あの切り取り方でなかったら、自分の心には響かなかったかもしれません(笑)。そう考えると、引用の文だけ読んで、例えばそれに対して感想を書く、というのも怖い気がしますね^^;
 少し違う部分もありますが、似たようなことが、SNSでは日常茶飯事のように思いますが、自分も気をつけたいと思います^^;
サンプリングはその時点で主観が入る、というわけですね。

 ちなみに、今回の『ストレンジ・デイズ』の引用に関しては、実際の内容を曲げるような意味合いは全くないように思います。むしろ紹介していただいて良かった、という気持ちです(まあ、これも僕の主観ですが、良きサンプリングの例かなと考えています)。

 というわけで、下記、引用元からです。一応ですが、この原本も当時のフランス前衛音楽を紹介する目的で書かれたものなので、作曲家の言葉を含め、何かしらの著作からの引用が使われていることはお断りしておきます。
 最初の部分は、後から知りました。

 機械(オルディナター)による音楽という項目からです。

「私はあまり計算機だとかオルディナターなどの機械に興味を持っておりません。人間は機械であると同時に動物です。機械を使うことは動物を使用するようなものです。しかし機械がまだ完成されていない以上、われわれの機械は時どき病気をすることはあっても、五十年ぐらいはよく動きますから、われわれ自身の機械を使ったほうが簡単だと思います。しかし、個人的には、神秘性を機械に与えないという条件で、機械を利用することに反対ではありません。機械的な物質的な素材の処理と、ある種の哲学をすることの二者の間にはまったくの矛盾があります。

(ここまでが元々の本に書かれていた箇所です。そして、ここから先が、ストレンジ・デイズで読んだものです)

機械の使用を哲学化し、神秘化するほど愚かしいことはありません。私の性格からかもしれませんが、哲学や、信仰を持っていて自分はいつも正しい理由があると信じている人びと、すなわち、何か信仰なり、主義なりを持っていて伝導なり、義務なりを課する人びとには反対です。われわれの人間構造は誤りを犯しやすいもので、正しい理由をいつも持ち得るということはあり得ません。自分が正しいと思った時はすでに自分に対して過度の自信を持っていることで、誤りを犯していることだと思います。」
(総意と想像 現代フランスの作曲家たち/丹羽明 著 音楽之友社より)

今週の楽曲は来週12日から目黒クラスカギャラリーで行われる「water "composition"」の会場で流れるサウンドを短く、組み合わせ編集したものです。今回のものは配信用に2ミックスにしたものです。実際は、いくつかのスピーカーを使います。会場では組み合わせは徐々に変わり、さらに時間帯によっては僕の即興演奏と絡み、その都度違う色合いを見せることとなる予定です。即興演奏では綺麗なだけではない、また違った力学がかかった状態の水をイメージした表現もあるかもしれません。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?