【キネマ救急箱#7】ウエスト・サイド・ストーリー(2022年)〜真剣にレビューしたけど結局パウ!って言いたくなる〜
こんにちは。
ニク・ジャガスです☺️
見てきましたよ!
『ウエスト・サイド・ストーリー』令和版!←
1961年版の『ウエスト・サイド物語』のレビューは別記事にまとめています。
↓↓↓
今回の『ウエスト・サイド・ストーリー』(以下、WWS)の率直な感想は、
期待以上だよっ!スピルバーグ様!です。
1961年版は、いい意味でも悪い意味?でもブロードウェイ色が強くて、映画の描写としては不十分な箇所もあったと思います。
ですがWWSは、現代人が見て「この表現大丈夫?」と違和感を抱く箇所を、観客が納得できるように構成を変えていたと思います。
あとは、1961年版でアニータを演じ、アカデミー賞助演女優賞を受賞したリタ・モレノが出演し、エグゼクティブ・プロジューサーを務めていること!
きっと彼女は当時、製作者たちに対して色々なクレーム(主張)をしたかったはず。
「本当はこう表現したかった」というリタの想いと、当時15歳で本作に魅了されたスピルバーグ監督が、想いを結集させて映画化している。
それはもう、傑作にしかならないのです。
丁寧に描写される登場人物
今回、前作と明らかに違うポイントは、登場人物に深みが与えられていることです。
前作は、ロミオとジュリエットの悲恋が物語の中心であり、「運命の糸で繋がっているのに結ばれない私たち」vs「恋路を邪魔するその他」の構造が強かった。
ですが、今回は違います。
トニーとマリア以外の主要サブキャラたちが、一人の人間として深みを持たせた描写がされているのです。
(中でもアニータの存在感は抜群ですが、こちらは次項で述べます。)
トニーは服役した過去があり、大切な仲間を危険に晒した自身を責め続けている。
ベルナルドは差別を受けながらも必死に勉強し、現役ボクサーという地位を得ている。
チノは一見地味だが、シャークスに入団してベルナルドの右腕になるという野心を持っている。
リフとトニーの関係性も、海辺のドックのシーンで台詞に頼らずに表現されてましたね。
そして最後に、亡きドクの妻として登場するバレンティノです。
前作、ドクは少年達を心配する大人の一人で、あまり抗争に深入りしない立場として描かれました。
ですが、バレンティノは違います。
まず、彼女自身がプエルトリコからの移民であり、白人と結婚したという背景を持っているということ。
その立場から、ジェッツの溜まり場を提供しつつも、シャークスが置かれた境遇にもシンパシーを感じている。
そして、本来であればトニーとマリアが歌うはずの“サムウェア”をバレンティノがラストにソロで歌っていること。
自分達の場所、時間がどこかにあるはず
いつか手を取り合って生きていけるはず
悲恋に破れた男女ではなく、アメリカで、移民としての人生を送るバレンティノが歌う“サムウェア”。
現代を生きる我々に強烈なメッセージ性を持って迫る歌です。
声を上げる女の子たち
マリア
わたくし、前作レビューで「どうしてもマリアというヒロイン像が好きになれない」と書きましたが…。
よかった!今回はマリアを好きになることが出来ました!
WWSのマリアは“受け身で待つヒロイン”ではなく、自らの意思を相手にきちんと伝える女性として描かれていました。
まだ少女ですから、どうしてもベルナルドを始めとする大人達の助けは必要です。
ただ、盲目的に全ての運命に従うのではなく、自分が嫌だと思うことは理由と共に嫌!と伝えた上で行動します。
個人的に前作でモヤっとポイントだった、トニーに対する「私を手に入れたくば、喧嘩を止めてきなさい?」問題も払拭されていました。
地下鉄に乗り込む際、「喧嘩を止めてきてほしい」とつぶやくマリア。
悔しいけど、自分ではどうにもできないことだから。
「大丈夫」としか言わないトニーに、マリアは兄が血の滲む努力をしてボクサーになったことを訴えます。
トニーも、リフを含め自分達に家族がいないことだって苦労だと伝え、二人は思いをぶつけ合う。
この時点でかなり納得感が違いました。
トニーもマリアも、自分達の恋路だけでなく、大切な人たちに及ぶ影響を案じ、抗争を止めたいと思っている。
さらには美術館で、トニーが過去をマリアに話すシーン。
ここは追加されて一番良いシーンだったのではないでしょうか!
前作では自分達の恋にしか目をくれずウフフアハハと裁縫店で戯れあいながら結婚式の真似事にたどり着きましたよね。
てやんでい!!
WWSでは、マリアはスペイン語で、トニーは英語で愛を誓い合います。
自らの生い立ち、アイデンティティを互いに受け入れ、立場の違う二人が一緒になれると信じ、手を取り合うのです。
そしてポツリとつぶやく。
「やっぱり喧嘩を止めないで」と。
とても良いシーンでした。
細かいところですが、チノが職場に乗り込んでくるシーン。
前作は
「兄がトニーに殺されたと知る→それでもなおトニーの心配しかしない」
でしたが、今回は
「トニーの心配しかしない→兄がトニーに殺されたと知る」
の順番になってました!
良かった!家族よりも、数時間前にあった男を優先する女になってなくて。笑
アニータ
WWSにおけるアニータのカリスマ性はエグい。
エネルギッシュで求心力があり、マリア役が飲まれるのでは?という程。
アニータがベルナルド達と歌う“アメリカ”。
前作では「アメリカ最高!私、アメリカ娘になるの!」と、アメリカ称賛と「アメリカ娘」というステータスを手に入れたい、という思いが表現されてました。
ですが、WWSでは「アメリカという自由な国で、自分らしさを高らかに歌って生きていきたい!」という表現に変わっていたように思います。
ベルナルドとマリアと3人でいるシーンでも、スペイン語が出てこようものなら「英語で喋って!」と何回も言っていましたね。
そんなアニータが、バレンティノの店でシャークスに襲われるシーンで叫ぶ「私はアメリカ人じゃない!プエルトリコ人よ!」という台詞。
アメリカに憧れはあれども、自分のアイデンティティはプエルトリコにあるということを、自信と誇りを持ってシャークスに叩きつける。
移民であり、女性である。まだまだ世界ではマイノリティとして位置づけられることも多い境遇。
そんな状況をモノともしない、気高いアニータの姿に拍手を送りたいです。
衣装に見る、人物像の表現
体育館でのダンスシーン、圧巻でしたね!!
“マンボ”がかかった瞬間、全身にブワッと鳥肌が立ちました!
今回の衣装は、シャークスが赤メイン、ジェッツが青メインでした。
そんな中、私が注目したいのはマリアとアニータのドレス。
マリアは「中立的立場、かつ何色にも染まれる」という白色のドレスに、アニータから譲ってもらった赤いベルト(シャークスのカラー)を締めています。
一方のアニータは、「何色にも染まらない」カラーである黒を基調にしつつ、その下に情熱的な赤を潜ませたドレスです。
それぞれのキャラクターを端的に表現しているのではないでしょうか。
また、WWS版ラストシーンでは、マリアのワンピースは青色でしたね。
(1961年版では赤色)
マリアの初登場シーンでアニータに対し「白なんてダサい。赤色がいい」と言っていたのは1961年版とWWSに共通しています。
ただ、ラストの服の色が赤と青で異なっている。
ここには製作陣の思いが込められているのではないかと思ってます。
青は聖母マリアのシンボルカラーです。
また、ジェッツのチームカラーでもあります。
息絶えたトニーをシャークスとジェッツのメンバーが担ぎ、その後ろに真っ直ぐな瞳で彼らを見つめるマリアが続きます。
その名の通り、争いを止めたマリアを「聖母の象徴」として描きたかったのではないでしょうか。
スピルバーグ監督が込めたであろう想い
最後のto dadのクレジットがジーンときました。
スピルバーグ監督が15歳の頃、両親に連れられて見に行ったのが『ウエスト・サイド物語』だったそうです。
サウンドトラックを購入し、何度も聞いて、家族のテーマ曲になっていったとのこと。
大人になり、自分の子供達にもたくさん聴かせたそうです。
念願の映画化。
自身の思いを存分に詰め込んだであろう『ウエスト・サイド・ストーリー』は、古典名画に現代の息をたっぷり吹き込んで蘇らせた傑作でした。
ここまで読んでいただき、ありがとうございました!😊
これからも「クスッと笑えて、ちょっぴり元気になる」文章をモットーに記事をUPしていきます。
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