【エッセイ】自己肯定感が高いとは思わないが、傘があるのに雨に濡れたくなるくらい自分に酔いたい時もある
子どもの頃、自分のことがあまり好きではなかった。
自分の性格や能力を嫌に感じたり、自分の言動に後悔したり、落ち込んだりすることが多々あった。
その度に、“自分なんて……”と気持ちを暗くしたものだ。
そんな、いわゆる、自己肯定感の低い子どもであり、青春時代を過ごしてきたのだが、あくまでも、自分のことが好きではなかっただけで、自分のことを嫌いになることはなかったと思う。
結論から言うと、大人になり、30歳を超えた今も、自己肯定感は高くないままだと思う。
ただ、年齢を重ね、自分の能力もある程度把握できるようになり、良いように言うと悟りのような、悪いように言うと諦めのような境地に至ったことで、年々、自己否定感は薄くなってきているように感じている。
自分の中で、「自己否定感が低い」=「自己肯定感が高い」ということにはならない。
自己肯定感を、「ありのままの自分を肯定する感覚」と定義するとしたら、自己否定感は「ありのままの自分を否定する感覚」となる。
つまり、自己否定感が低いというのは、ありのままの自分のことが嫌いではないということ。
嫌いではないというだけで、決して、好きということでもない。
ありのままの自分を受け入れたというよりも、自分は自分のままでしか生きられない、生きていくしかないと理解したという感覚に近い。
そんな、自己肯定感が高くない人間だと自覚しているが、子どもの頃から、悲劇の主人公よろしく、悲しみに浸る自分に酔いしれる、ナルシストっぽい一面も持ち合わせていると思っている。
楽しいことや嬉しいことには、もちろんテンションが上がるが、悲しいことや辛いこと、切ないことがあると、初めは気持ちが落ち込むが、途中から、自己陶酔してしまう節がある。
漫画やアニメ、映画やドラマの登場人物への憧れもあるだろうが、今考えれば、一種の自己防衛でもあったのだと思う。
悲劇の主人公といえば、身内や仲間の不幸、自身の夢を諦めなければいけないような挫折、絶望、などなど。
悲しみのシチュエーションはいくらでもある。
こういった状況は、自分で意図して起こすものではないし、起こしてはいけないようなことばかりだ。
そんな中、お手軽に悲劇の主人公感を味わえるのが、雨が降っているのに、あえて傘をささずに歩くことだ。
周囲の人が傘をさす中、思い詰めた表情で、足取り重くずぶ濡れになりながら歩いていれば、それだけで悲劇の幕は上がる。
他に、悲劇の主人公感が味わえるのは、「電話に出た時にハッとした表情でスマホを思わず落とす」、「夜の公園でブランコを漕ぎながら、ふと空を見上げる」、「駅や空港に息を切らしながら駆けつける」、などなどがある。
ちなみに、「甲子園など、高校生のスポーツの大会の中継を祈るように見る」と幼馴染のヒロイン感が出ないこともない。
このように、自己肯定感が高くない人間でも、自分に酔いたくなる時はある。
ただそれは、ありのままの自分ではなく、悲劇に見舞われたキャラクターという仮面をつけた自分ではある。
人間誰しも、相手によってさまざまな仮面を付け替えて生きているもの。
その相手には、自分自身も含まれると思う。己を欺き、何がありのままの自分のなのか、どれが本当の自分なのかわからなくなる瞬間は、嫌気がさすほど好きだ。
これから、歳を重ねていくにつれて、自分のことを100%好きになるのはよっぽどのきっかけがないと難しい。
ただ、自分のことを過剰に卑下したり、否定したりすることもないだろう。ないようにしたい。
そんな生き方ができたら、自分のことをちょっとだけ肯定してもいいのかもしれない。
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