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メディアや機械と、自分の主導権

Instagramって気がつけば写真じゃなくてショート動画の基盤に変わってしまったような気がしていて。純粋な写真を上げている人も多いけど、アプリの画面構成上、ストーリーズを押す人も多いのではないだろうか?動画ってどうしても時間軸を持っているため読み手の自由度を奪っている。そういう意味で写真と本(書籍)は、読み手が自分のペースで見る、読むことができるメディアとも言える。

でも、一方でお風呂の中で、NHKの番組を聞くケースもあったり動画という意味では、作りてのコントロール配下なんだけど、聞く専を自分で選ぶことで適当に都合よく聞くという自分のペースでもってきたり。こうメディアにおける主導権を誰がどうのって考えると面白い。

よく考えてみたらnoteもそうだ。これをノートパソコンで書くのと、外でスマホで書くのと文章量も書くペースも違う。おそらくノートパソコンのほうがよいのだろうけど、スマホのどこでもいつでもには敵わない。これはつまり、機械と自分のイニシアチブを競っているともいえる。そんな感じで僕たちは媒体や機器と常に綱引きをしているのだろう。

それは読者もそうだ。最近の傾向でいうと何かしら撮った写真を上げたほうがいいのかもしれない。でも、おしゃべりな僕は写真より文字で雄弁に語りたくなるときもあるし、ひっそりを写真で感じてほしいときもある。それも含めて自分自身なんだろう。それはみんなもそうだと思う。自分らしさを期待される自分、どっちの仮面がいいか日々悩んでいる。でも、それでいいじゃないか。悩まず無思考で行動する人より遥かに健全だ。

そういう風にして日々生きていきたいです。

お互いのコミュニケーション活性化のため、スキ・コメントお気軽に、よろしくお願いします。