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なんでもアジャイルという人たち

昨日で1,555日の連続更新らしいが、最近どうしても自分自身「近視的だよな」と思うことが多い。進めるプロジェクトにおける違和感、プライベートのタスク増、そりゃいろいろあるんだけど、自身が仕事をしていて一番違和感があるのが、ことあるごとに何でもアジャイルという人たちだ。

けど、ここでアジャイル信仰者の人たちが使うアジャイルって、その場の思い付きで物事を進めていく人たちが「これがアジャイルだ」と言ってるような気がしていて。それを見ておじさんたちが「計画立ててやらないから変になるんだ。ウォーターフォール時代はよかった」云々という。それも同時に違和感があったんだけど、これらの違和感について背景や要因が明確に自身が説明できずにいた。

その違和感に、100点の答えじゃないけど、疑問における一つの視座という意味でいい記事があったので、自分のためにメモしておく。

ウォーターフォールとか、アジャイルとか、乗っかれる枠組みがあって、それに従うというより、自分たちの課題があって、その課題の解決のためにどうしよう?そんな時に、参照できるアイデアが沢山あって、それが「アジャイル」だったり「ソフトウェアエンジニアリングやパターン」だったり、「研究論文」だったり、「事例やベストプラクティス」だったりする。だから先進的なプロダクトを開発しているチームでも、アジャイルラクティス的観点でみると改善の余地が沢山あったりもする。
だから、そもそもの出発点が、「自分のチームの課題」があって、その解決策を探っているのであって型があるわけではない感じ。だから、開発のやり方なんてものは、しょっちゅう変わっていくというイメージ。ただ、「ウォータフォール」はもはや誰も参照してないようなイメージ。自動車が発達した後の「馬車」みたいな感じ。

アジャイルの反対はウォータフォールでは無いんじゃない?という話

そうなんだよね。課題があって解決があって、その手段としての●●なんだよね。どうも、アジャイルとかを旗を振る人はどうしても手段ありきになっていて、そもそもの目的や課題や、どうやって解決するかを整理しない感じがする。よくいう手段が目的になる。そういうやつですよね。もう少し、引いて考えてほしいよなと思ってしまいます。

お互いのコミュニケーション活性化のため、スキ・コメントお気軽に、よろしくお願いします。