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視点を変えることの重要性

朝の散歩の途中で、ごくたまに起こるのですが「頭の空気が抜けるような脱力感」があって「あ、熱があったら、まずいよな」と、朝ごはんの準備をしながら体温計を測るわけです。

35.8℃、なんとも言えない、体温。

GWから黙々と続ける筋トレも、もしかすると二十代の青年がやったときのほうが、効果が高かったのだろうか。筋肉は地道な努力で少しずつはついてきているのだろうが、自分の期待する成長曲線に対して、笑えるぐらいの下方修正を記録している。

巷では、東京で230人がどうとか、大阪にも飛び火したとか、どうして自粛は続けないのとか、まあいろんなこと言いたい放題の状況です。

昔、中学時代に知ったゲームで「信長の野望」とか「三国志」とかありましたが、そのコマンドの中に「流言」というものがあって、このコマンドを相手国に使うと民忠が下がるんですよね。

コマンドは「意図して、流言を流布する」わけですが、いまこの国で起こっているのは、勝手に流言が撒かれ、人々が疑心暗鬼になっているということです。

それはそうです。発表される数字すらも、公式発表であるにも関わらず、数字の出し方が定義されていないために「その数字は本当か?」と言われる始末なわけです。そりゃ自律的な流言が確定する訳で。

自分の中学時代とかは、某新聞の「天声人語」などは、幼少の自分からするとまさに当時は天の声だったわけですが、いまは読んでないので想像の域は出ませんが、第三者的な視点はもはや皆無なのだろう。

むしろこのnoteのような、さまざま視点を多く見聞きすることで、世の中の全体像を構築するような手間のかかることをしない限り、広角的な視点は持ち得なくなっている。

面白いのは、このような引いた目線での議論と、例えば自分の仕事が急になくなるとか、自分の業界がある日を境に突然暗転する話は、カメラの視点でいうと広角レンズと望遠レンズのそれで。要は視点が全く異なる話なのですが、議論の中では結構一緒になってしまう。

最近はこちらが気づいて、相手の視点に合わせて会話を続けるようにしていますが、本来なら其の視点移動は、お互いの気遣いがあって然るべきなんですよね。

この視点移動は、それこそ最初にあった数字なんていい例で。数字の出し方とか、基本的な統計の基礎とか、そういう視点も相まって、少し調べる、考える、出し手の意図を理解するだけで、全然見え方が変わってきます。

こういう少しずつの視点移動の癖は日々鍛えていきたいですね。

お互いのコミュニケーション活性化のため、スキ・コメントお気軽に、よろしくお願いします。