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「学び」とは何だったのか?

「学びをとめるな」の声が切実になってきているなか、ふと思うこと。

教科教育において言えば、今まで各教科をどのようなものとしてとらえていたか、教師も保護者も、自ずと振り返ることになるのではないか。

今や「国語」を「漢字を覚えたりグループで発表とかやるやつ」と認識している大人はいないと思いたい。

でももし子どもたちの多くがこのようにとらえているとしたら、この状況以前の教育が何をもたらしていたのか、とらえ直す必要がある。

「オンラインでできること」「オンラインではできないこと」「オンラインだとやりにくいこと」など多々見えてくるはず。


そしてその時必要なのは「今までのやり方だったら、できたのに」ではなく、「今までやってきたこととは、果たして何だったのか?」と教育・学力の本質を問い直す視点だ。

それを問わずにして「学力の低下が心配」などと言ってはいられない。

もちろんオンラインという方法だけではない。誰ともつながらず、その子ども1人で、あるいは保護者と力をあわせてできることもあるだろう。

その場合、家庭はひとつひとつ異なるのだということを良い方向に生かせるか、できる・できないの違いを生むだけに終わってしまうのかが大きな分かれ目になる。

自治体や教師だけが抱える責任ではない。もちろん保護者でもない。ただ「誰も悪くない」という場所から動けずにいると、動かないまま、みんな悪くなってしまう。


子どもが学ぶとは、どういうことなのか。
これまで「できていた」こととは、いったい何だったのか。


ネガティブな変化をポジティブに変えるという単純な試みではなく、この状況においても「学びをとめない」ことが必要なのは、大人のほうだと強く感じている。


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