教師の仕事は自己表現である
先日読んだ論文の冒頭に引用されていた一文に「教えるという行為は『その教師が何者であるかということを表現すること』」とあった。約20年の日本語教師生活を通して、学習者とともにしている自分の仕事を定義するとしたら、これほどぴったりの言葉はないとおもう。
わたしは養成講座でも現役講師の研修などでも「なぜ日本語教育をするのか」と受講生の皆さんに問う。その答えは「学習者のサポートをしたい」という答えがわりと多くて、その先を見ていないことが多い。しかし、問うべきはその先なのだ。「なぜ、自分は学習者のサポートがしたいのか」その先にきっと自分の教師としての「思い」があるはずなのだ。そして、その「思い」は教師が学習者の前に立つと自分の意識していないところで垂れ流されている。
わたしは自分の仕事の本質を学習者のサポートなどとはおもっていない。結果的にサポートになっていたとしても、それは本質ではない。本質は、「自分が大切にしていること」をどのようにして伝えているかだ。おそらく文章を書く、絵を描く、音楽を創る色々な自己表現の行為があるが、授業をするということもその種の行為に含まれる。だからこそ、その行為そのものが結果的に学習者に「自分が何者であるかを表現している」ことになるのではないだろうか。
では、私が伝えたいこととは何なのかというと、それは三つあると思う。「二度と戻らないこの瞬間を大事にする」「新しい未知の扉を共に開く」「学習者の中に言葉を創る」だと思う。
それぞれについては詳しく書かないけれど、この三つを達成するために、私は授業の流れをデザインしている。基本的な作り方はこうだ。
授業の開始から終わりまで一人の学習者が、他の学習者や教師と、または自分自身とどのように向き合うかを考える。その時のメンバーはその時にしかいないし、人は変わるから、その時のその人はその時にしかいない。そういうことを考えて授業をデザインする。そのうえで、どういうものが学習者にとって未知の扉となるか、思わず開けたくなるような扉となるかを考えて教材を選ぶ。そして、その教材から受け取ったものを学習者がどう表現するかを待つ。
これには、わたしの長い人生の出会いや別れ、知識や経験、全てが詰めこまれている。そして、私の人生は現在も進行中だから、さらなる、出会いと別れがあり、知識と経験も増えていく。そして、私は変化していくだろう。それにともなって、表現したいことも自然と変わっていく。
だから自己表現とは生きることそのものだし、生きることの喜びを伝えるのが教育でもあると思うのだ。