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生きる意味を探し続ける私たちのための学問としての哲学

 つい先日、こちらの本を読了した。これまでも哲学という学問に関しては少なからず興味はあったのだが、正直どこから手をつけていいのかわからなかった私にとってこの本は渡りに船というか、痒い所に手が届くような本だった。

 本著がテーマとしているのは、そのタイトル通り「死の哲学」である。私自身、常に「なぜ生きているんだろうか」や「死にたくないから生きているだけではないのか」と自問しながら生きている人間であるので、生の理由を探求する思想には深い興味があったのだ。

 そして実際に読了してみて強く感じたのは、死の哲学とは「無意味に生きることと、そもそもの死への恐怖感」から生まれたモノだということ。

 そういった意味で、哲学は一見「これこれこうだから生きているのだ」と提唱しているように見えて、その実本来無意味な生に意味を与えることで生きること・死ぬことを肯定する試みなのではないかと感じたのだ。ではなぜそのように感じたのか──具体例を挙げつつ説明しよう。

 哲学と宗教は大きな結びつきがあるので、まず一例としてキリスト教を挙げたい。私自身カトリック系の幼稚園・小学校に通っていたので、キリスト教の教義には少しばかり馴染みがある。

 その教義へのとっかかりとしてキリスト教の教えの中でも有名というか、一般にもやや耳馴染みがあろう単語である「黄金律」と「復活」について触れたい。

 黄金律とは簡単にいうならば「他人からしてもらいたいことは他人にも施すべき」とする思想のことである。また、それの派生的な考え方として「敵ですら愛しなさい」「右頬を張られたなら左頬を差し出しなさい」など、やや行き過ぎた自己犠牲的なことを説いているのは、キリスト教の特色をよく表しているように思える。

 そして復活であるが、有名なのは磔刑に処されたキリストがその3日後に弟子たちの前に現れたエピソードだろう。その他にもラザロという男をあっさりと復活させた逸話もある。キリスト教は、これまで当然としてあった死という概念を奇跡という形で超越したのだと言える。

 さて、ここで見えてくるのは「復活を目標として黄金律をはじめとした信仰という徳を積ませる」という構造だろう。人は皆死を恐れる。それに対し、あらゆる奇跡を以てして「私ならばそれを克服できる」という希望を与えたのだ。そして、その恩恵を受けるためには信仰と行動を要求する──という、ある種のギブアンドテイク的な関係性が見て取れる。もっとも、テイクも信仰者にとって決して悪いものではないのだが。

 本著でも紹介されていた哲学者 キルケゴールはそんなキリスト教に大きな影響を受けており、その思想は「肉体的な死は信仰によって克服できる。だから真なる絶望(死)は生の中で信仰をまっとうできないことだ」というモノだった。一見清らかな死生観であるように思えるが、巧妙なレトリックによって本来の肉体的な死の意味を”取るに足らないモノ”であると仮定することで死への恐怖を克服しようと試みていたのではないか、と感じるのである。

 そして、その発想は決してキルケゴールだけに見られるものではない。その他の哲学者の思想にも「生は死を境に輪廻するという考え方」や「生前に哲学をしていることによって賢い神の元へ行けるとした思想」などがあり、あるがままの状態というより世界を物語的な論調から記述し直し、壮大な意味を持たせることによって無意味な生や死への恐怖を払拭しようとする傾向が哲学には見られた。

 しかし、それらの傾向と色を異にする哲学者もいる。私が本著において最も興味深く感じたのはヤスパースの思想である。彼は医者であり、その立場から”死に接する機会”が多かった。そのような立場から彼は死を「最も身近な人の死」と「この『わたし』の死」のふたつに大別した。 

 前者においてヤスパースは「他者の死はただの一客観的事実でなく、深淵であり神秘的な問いを我々に投げかけるものなのだ」と著書『哲学』において語った。やや簡単に言うなら、死は我々に多くを学ばせてくれると言うことであり、これに関しては誰しもが覚えがあるのではないか。 私自身もこれまで幾度か親類の葬儀に参列したことがあるが、その度にその雰囲気から「彼は幸せに生きられただろうか」「どういう感情で死んでいったのだろうか」と勝手に感じ入ってしまった。それだけの意味が、他人の死にはあるということなのだろう。

 では後者はどうだろう。彼は「自己欺瞞なしに本当に真実に死ぬこと」の勇気を説いた。つまり「死ぬことが怖いと塞ぎ込み、死と向き合うことなく生きること」と「死が怖いから天国など架空の設定を信じ込み、逃避しながら生きること」を批判したのである。後者に関しては覚えがないだろうか。そうだ、彼は先述したキルケゴール的な思想をバッサリと逃避であると断じたのだ。では、どう生きることが理想だと説いたのか──彼の理想は、「意味のある死のために人生を歩む」という態度だった。

 このような態度はこれまで紹介した哲学者たちの思想と「善い生き方をすべきだ」という主張と共通してはいるものの、脚色をしない生と死に向き合うという点において突出しているように思える。

 と、ここまで哲学の入門者としてそれら思想の概観と所感を記述してきた訳だが、私としては別段そのどの思考をも肯定している。理論としての整合性やそもそもの好みなどに差はありえるが、私はこのような哲学する姿勢を素晴らしいと強く感じたのである。

 少しばかり自分語りを容赦いただきたい。私自身、いまだに人生における意味を本質的に見つけている訳ではない。それどころか以前は「死ぬことが逃げであるとの観念から生きている」あるいは「死の取り返しのつかなさと苦しい生を天秤にかけたときに、死に対して能動的になるほどの理由がないから生きている」という側面が強いと言えるほどだった。しかし、それでもその意味を見つけ出したいという気概、また平等な社会とは何かという壮大な問題を解き明かしたいという探究心を抱き始め、それを生の目標に据え、少しでも生き抜こうという光明を抱いたのである。

 そんな凡百たる私の微々たる決意を哲学者たちになぞらえることはとんでもない傲慢なのかもしれないが、もしかするとそういった等身大の悩みこそが哲学の発端なのかもしれない。考え続け、苦しみ続ける者たちの学問こそが哲学なのではないだろうか。

 世の中にままならないことを感じ、それでも明日への一歩を踏み出さなければならない──そんな地獄に立ち向かうための一歩。そう哲学を捉えると、途端に哲学の存在が我々に寄り添ってくれたように感じる。

明日をより強く生きるためならば宗教に片足を置いて、やや現実離れした理由で徳を積むのもいいではないか。もちろんヤスパースのようにありのままの生に向き合ってもいい。人生が十人十色であるように、人生における目標設定だって一通りでなくてよい──そんな力あるメッセージを私は苦しめる知者たちの苦慮の末の思想に見た。

 死を恐れる心。無意味な生に対する無気力。

 どちらも大いに結構。これからそれらを克服しようとすればいい。できなくても考え続け、”より良い”を死の瞬間まで探求し続ける他ないのだ。だからまだ答えなんて出ていなくて、生きている価値なんて見出せなくてもある意味当然なのだろう。

 だってヤスパースの言葉を借りるならば「われわれは途上に立ち続けている」のだから。

 

 

 

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