中低 青黄(たかなし みどり)

社会とか、倫理とか。勝手なことを喚いていきます。Twitterはこちら→ https:…

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最近の記事

我々は搾取されないために難しい言葉を学ぶ必要がある

 我々日本人はほとんど全員がもれなく日本語を公用言語として使用している。識字率も97.9%という極めて高い水準を叩き出しており、これは諸外国と比しても極めて高い数値であると言え、誇っていいことであろう。だが、私はそのような日本においても言語に対して不自由を感じることがある。  その不自由とは何か。端的に言えば「言葉が通じないこと」である。それをとりわけ感じるのはバイト先だ。私は飲食店で働いているのだが、その時間中に雑談をする機会がある。そして時たま厄介な言いがかりを付けられ

    • 生きる意味を探し続ける私たちのための学問としての哲学

       つい先日、こちらの本を読了した。これまでも哲学という学問に関しては少なからず興味はあったのだが、正直どこから手をつけていいのかわからなかった私にとってこの本は渡りに船というか、痒い所に手が届くような本だった。  本著がテーマとしているのは、そのタイトル通り「死の哲学」である。私自身、常に「なぜ生きているんだろうか」や「死にたくないから生きているだけではないのか」と自問しながら生きている人間であるので、生の理由を探求する思想には深い興味があったのだ。  そして実際に読了し

      • 安楽死から、「最も自由な死に対する制度」を思考する

         つい先日、衝撃的なニュースが耳に飛び込んできた。ALS患者がSNS上で医師に安楽死をしたいと要望し、亡くなったというニュースである。もちろん当人の強い希望であったとしても嘱託殺人は法に触れる。大久保愉一容疑者は逮捕されることになった。  このような前例のない事件は世間に少なくない衝撃を与え、安楽死に対する賛否交々多くの議論が交わされている。  実は私も以前より「安楽死は果たしてなぜ禁止されているのだろうか」という、現行法に対して猜疑的な立場に立っていた時期があった。そし

        • 映画「ジョーカー」に見る、大衆心理とデモの可能性

           劇場で“無関心”を思い知る 2020年7月8日、映画「ジョーカー」がNetflixにて配信開始された。本作品は2019年10月4日に公開され、当時はそのセンセーショナルな内容から賛否両論巻き起こり、世間を賑わせていた記憶がある。  私自身も例に漏れず劇場へひとりで足を運び、本作を観賞した。ただ、そこで感じたのは深い絶望と呆れだった。それは映画の内容に対してではない。映画を見終わった後の客の反応に対してである。  エンドロールが流れ、シアター内が明るくなっても私はしばらく

        我々は搾取されないために難しい言葉を学ぶ必要がある

          言葉と理性と「本当の自分」の話

           久々に筆を取った気がする。生活が忙しいのはもちろん理由としてあるが、正直ちょっと文章を書くことが億劫になっていた。自分の中に乱雑に散らばった思考を違和感のない言葉に直し、それを記事としてアウトプットする作業は正直エネルギーがいるからだ……。  今回はそんな言葉について考えたことを綴らせていただきたい。今回の記事はこれまでのふたつの記事とは異なり、ライフハックや社会に対する問題提起ではなく、私自身の価値観の話だ。これから語ることを強制するものではないし、あくまで「私はこうだ

          言葉と理性と「本当の自分」の話

          気にし過ぎ・ペシミスティックをいかにして乗り越えるか──論理で感情を制御するという一計

           私はかなりペシミスティックな人間であるので、些細なことを気にしてしまって傷つき、ひとり反省会をして傷つき……という非常に面倒臭い性格だという自覚がある。  そんな私は「嫌なことがあったとしても、それを気にしてもしょうがない。前を向くんだ」みたいなメッセージだったりポエムだったりにかけらも共感できた試しがない。「気にしないで前を向く」みたいなことを地で行えるのは、そういった思考回路を持った人間だからできることであり、そうでない人間の立場に本当の意味で立った言葉でないと感じて

          気にし過ぎ・ペシミスティックをいかにして乗り越えるか──論理で感情を制御するという一計

          差別はなぜなくならないのか〜“差別”という概念から社会の構造に思いを馳せる〜

             ノートを始めるにあたり  正直なところこの前置きの項は蛇足になり得るだろうなぁと思いつつも執筆しているところであるし、頭にそんな蛇足を持ってくるなよという意見ももっともだが、所信表明みたいなものをさせていただきたい。  この記事の本旨に絡む話でもない上に、大した内容でもないので読み飛ばしていただいても構わない。  何を言いたいかを端的に言うと、このnoteというサービスを利用するに当たって少なからず葛藤があったという話である。  noteで私は、基本的に時事的

          差別はなぜなくならないのか〜“差別”という概念から社会の構造に思いを馳せる〜