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差別はなぜなくならないのか〜“差別”という概念から社会の構造に思いを馳せる〜

  

ノートを始めるにあたり


 正直なところこの前置きの項は蛇足になり得るだろうなぁと思いつつも執筆しているところであるし、頭にそんな蛇足を持ってくるなよという意見ももっともだが、所信表明みたいなものをさせていただきたい。

 この記事の本旨に絡む話でもない上に、大した内容でもないので読み飛ばしていただいても構わない。

 何を言いたいかを端的に言うと、このnoteというサービスを利用するに当たって少なからず葛藤があったという話である。


 noteで私は、基本的に時事的な気付きから正義であったり平等であったり幸福であったりを考察したことを記事にしようと考えている。


 「なぜ生きているのか」とか「何が正しい」なんて正直人生をつつがなく生きていく上では考えなくても済む問題であるし、見ようによっては中二病的だと感じる方も少なくないかもしれない。

 ただそれでもこういったところに記事を投稿するのはひとえに「発信するという行為が好きだから」に他ならない。理解していただきたいのは「私はこうまで考えているから偉い」だとか「この思想を理解していただきたい、あるいは強要したい」といったメッセージではないということである。

 あくまで一意見として捉えていただきたいところであるし、それに対して「これは違うんじゃあないか」と思われても構わない。ただそれで人格否定だとかをされてしまうとメンタルがお豆腐な私は本気で傷ついてしまうので遠慮していただきたいところではあるが……(笑)。

 それに、私は別段そういった学問に関して特段の知識がある訳でもないので誰かしらの意見だったり議論され尽くした問題を再考しているだけに過ぎないこともありえそうだし……。(今後そういった文献にも手を出そうと考えているので現時点では不勉強はご容赦願いたい)

 とかく、「こんな人もいるんだぁ」くらいの寛容な気持ちで受け止めていただければ幸いだ。という自己防衛的な前置きがしたかった、ということである。情けない話ではあるが。

 では早速、本題に入ろう。



社会は暴力性を認知すべきである


 結論から言うならば、私は「差別は直近どころか永遠になくならない」と考えている。なぜそう考えるか、それを説明するために現在の社会の状況から考えていきたい。

 ことの発端はアメリカで黒人男性のジョージ・フロイドが警官により不当に殺害された事件。これをきっかけとし、SNSでは「#BlackOutTuesday」や「#BlackLivesMatter」といった抗議運動が広がりつつある。

 それに伴い、日本の著名人も「差別をしてはいけませんよ」的な発信をしている場を時折目撃するようになった。不当なる殺害は深刻な問題であるし、痛ましい事件であったと感じる。

 ただ正直、黒人への差別はもちろんのこと、世の中にはびこっているあらゆる差別はなくなるべくもないと私は考えている。

 「差別はなくならない」という結論に関しては別段真新しいものでもないし、「そりゃあこれまでの差別史を見るに一朝一夕でどうにかなる問題でもないだろう」と言われてしまいそうだが、これにはちゃんとした原因があると私は考えているのである。

 その原因というのは「暴力が快楽であることから社会が目をそらし続けていること」。そもそも差別感情そのものには善も悪もないのではないか、という話である。

 生物は子孫を反映する際にそのつがいを能力(この場合の能力は種によっても個体によっても大きく異なるわけだが)によって定めるわけだが、その際に自分は他の個体より優れていると証明しようとする性質がある。

 動物同士のバトル動画なんかがテレビで流れる際に「理由は雌の取り合い」だなんて流れるのを見たことが一度はあるのではないだろうか。そういった意味で他の個体より優越していることを証明する手段として暴力が使用されることは人間以外の種においては当然なことである。

 いや、人間においても当然なことではあるのだ。その形式が分かりにくいだけであって。まぁ根拠は挙げればキリがないような気もするけれど、例えば身近なところで言うと「マウンティング」なんていう概念があるけれど、それなんて優越することに対する快楽がなければ起こりようがないと思うんだよね。

 人間のそういった行動原理が全て繁栄に直結するとは考えていないけれど、とかくここで肝要となるのは「原因が何にせよ優越に対して強い快楽が生じること。

 そしてその快楽のためらならばある程度の暴力(この場合の暴力は言葉なども含む多義的な意味での暴力)を振るってしまう性質が人間にはあること」である。

 しかし、世間で言われるのは「差別するのはその人の心が卑しいからだ」とか「なぜ同じ人間なのに手を取り合うことができないのか」みたいな現象そのものにしか目を向けていない性善説的なものばかりである。

 まぁそもそも原因をそういった生来の悪性に求めようという姿勢自体が差別と言えるんだけれど……。

 閑話休題して。別段私は性悪説を唱える訳ではないけれど、他者に利益を与えることが善、害することが悪とするならば、本能の結果が悪になってしまう場合は必ずあると考えている。

 だから、ここで議論するべきは「どうやって差別をなくすか」ではなく、「どうやって元々ある差別が悪的なアウトプットをされないような社会構造を形成するか」だと思うんだよねって話。

 故に、社会は差別の根底である暴力性と向き合わなくてはならない。

私たちは暴力性を認知すべきではない

 認知しろっていったりするなって言ったり忙しいやつだと思われてしまいそうだ……。

 差別問題を根本的に解決するためには、前項で触れたような解決の方法を取らなくてはならないと思う反面、「社会は私たちが正しく暴力性を認知しないようにしている」現実があると感じる、という話。

 それはなぜかと言うと、簡単な話ではあるが差別があることによって得をする層がいるからだろう。黒人が奴隷として扱われていた時代のことを考えると分かりやすいかもしれない。

 白人は黒人を安く買い叩くことによって労働力を得ることができるし、自分が白人であることで社会的地位も得ているのだから、明らかに得をしていると言える。

 流石に現在はそういった扱いをすることは憚られているものの、白人が最も尊ばれ、黒人や黄色人種は下だという構造自体は世界に深い根を張っている。

 社会的な評価はもちろん大きな価値ではあるし、それによって収入などにも差が出てくることは確かだろう。とはいえ大っぴらな差別は国際的な問題に発展しかねないし(今回の件然り)、差別を声高に認めることは感情的に憚られることである。(「差別をするものは悪だ」という考えが一般的だということは言うまでもないだろう)

 だからこそ、現在暗に差別的な社会が形成されているのである。「黄色人種が差別されている」と文字では知っていても、感覚として私たちが体感していないのはそういう訳だろう。

 そして、その差別的な社会の形成のためには「一応差別は悪いことだと認識していて、それを主張している」という外観が必要なのだと思う。だからこそ、差別する側でも国際的な差別に対する声明を出すことはあるし、トランプは当選しているのではないだろうか。

 トランプは社会的に批判されるようなことを言っているために表立っては応援しにくいが、白人にとっては利を生むため、隠れて投票する心理は十分に理解できる。

 やや脱線してしまったので話を戻そう。ここで言いたいのは、「差別に対して声が上がる状況」は差別的な社会の中の想定し得る一要素に過ぎないという話だ。

声を上げる重要性

 ではまるっきり差別に対する反逆などしようもないのかと言えばそうでもない。必要となるのは、「正しい目的のある主張」である。

 「どうやって元々ある差別が悪的なアウトプットをされないような社会構造を形成するか」という話を第2項でさせていただいた。ではそれはどうすれば行えるのか。

 私が考えるに、「差別をすることが損になる」構造を真の意味で創出することが解決になるのではないかと考えている。現在そういった差別的なことを取締る法律はあれど、それだけでは全くもって十分ではない。

 たとえばそう言ったことを言うことが今以上に社会的な批判を浴びるであるとか、取り締まられるだとか。差別性は先天的なものであるが、それは後天的なスキルによって舵取りできると考えている。

 今現在差別をしていない人々には、本当にその対象との差を感じないか、感じつつも「差別をしなかったことがプラスだから」という成功体験を重ねてきた人間の二種類がいると考えられ、後者を増やすことが、差別が封じられた世界をつくる一助になるのではないか、ということだ。

それでも差別はなくならない

 前項のような社会が仮に完全に実現できたとて、差別のない社会が生まれるだなんてお思いだろうか。答えは否だろう。

 抑制はさらなる差別を生むのだ。SNSなんかを見ているとよくわかるだろうが、大義名分を得た人間ほど手が付けられないものはいない。

 何かやらかした人物の住所を突きとめて悪戯が為されるように、被侵害性や弱者性が侵害性や強者性へと転じ、新たなる構造が生まれるのは想像に難くない。

 だから最初の結論に立ち戻る訳だが、差別はなくならないし、差別のない世界は訪れない。もっとも、かつてに比べれば差別は以前よりあからさま出なくなったことは確かだし、こうやって差別を原因とした理不尽が起これば批判の起こる社会ではある。

 そういった意味では現在行われている「#BlackOutTuesday」や「#BlackLivesMatter」のような活動はあながち効果がないとも言い難いのではないかと思う。

 差別は生来のもの。それを社会が理解し、「差別を表に出すことはよくない」的な教育が行われ、「暴力性のコントロール」スキルが備わった社会へと成長していくのを、願うばかりである。

 

 

 

 

 

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