我々は搾取されないために難しい言葉を学ぶ必要がある
我々日本人はほとんど全員がもれなく日本語を公用言語として使用している。識字率も97.9%という極めて高い水準を叩き出しており、これは諸外国と比しても極めて高い数値であると言え、誇っていいことであろう。だが、私はそのような日本においても言語に対して不自由を感じることがある。
その不自由とは何か。端的に言えば「言葉が通じないこと」である。それをとりわけ感じるのはバイト先だ。私は飲食店で働いているのだが、その時間中に雑談をする機会がある。そして時たま厄介な言いがかりを付けられることがあるわけだ。
「そんな難しい言葉使って。カッコつけて」
と。私は確かに記事を書く上では堅苦しい言葉を使用していることは否定しない。しかし、日常生活においてそれほどまでに堅苦しい表現を多用している訳でもないし、ましてやそれを用いて“カッコつけて”いる意識はカケラもないのである。しかし、それでもほんの少し持って回ったような言い回しをするとこのような反応が返ってくるのだ。それ以外にも大学で言って通じる言葉遊び的な洒落はそもそも意味が通じないなんてこともあった。
私がその時に感じたことは「同じ日本語であれど、使用している言語の領域が、場所や個人によって異なるのだ」という気付きである。それに則らずに会話をしたことで「カッコつけて」という反応が返ってきたのはきっと、「もっと簡単な言葉で言えるではないか」という苛立ちと、自分が知らない言葉を使われることによる被マウンティング的状態からくる不快感からだったのだろう。
それを理解した時に、そのコミュニティに適した言葉選びや言葉遣いを常に繊細に選択し続けることは、コミュニケーションにおける大事な要素なひとつなのだと私は理解したのだ。大切なのは言葉の“棲み分け”である。「TPOを弁える」という言葉がある訳だが、それは言葉選びにおいても有効だという話である。
しかし、それは本当に正しいことなのだろうか。難しい言葉を理解できないからといって切り捨てることによるリスクがあるのではないかと私は考える。
私は中学生の頃から文学をはじめとした表現の世界に傾注し始め、恥ずかしいことに厨二病を患っていた時期もあったので、その頃は確かにカッコつける目的で難解な表現を多用していた時期もあった。しかし、思想や社会などに興味を持ち、その中で難解な言い回しを好むのは、それとは別の理由があるのだ。
難しい言葉の持つ利便さの中で最たるものは、「ラベリングによる現象の端的化」ではないかと私は考えている。「また、難解な表現を」と感じた方も少なからずいらっしゃりそうなので、これを簡単な言い回しにしてみたい。これはつまり、「目の前にある出来事を言い表す時に、簡単な言葉で説明しようとすると、文字数としても長くなってしまうし、それによって本来伝えたかったことがぼやかされてしまう。なので、それを難しくも短い1語に置き換えることで、理解しやすい形に変化させることができる」ということである。
この「ラベリングによる現象の端的化」の説明にしたって簡単な言葉にすればここまで長くなってしまうということからも、情報を端的に表す利点を察していただければ幸いだが(笑)。ネット上や文献は、分量が多ければ多いほど最後まで読んでもらえない確率が上がってしまう傾向がある。そうなれば、それをいちいち長ったらしい言葉で表記するよりも、少しばかり小難しい表現でも端的に表した言葉でラベリングし、「今後この言葉はこのような意味で使う」という認識を共有した方が、結果的には情報の伝達がうまくいくのである。
そして、もうひとつ利点として上げられるのは、「難しい言葉の方が耳障りがいいから」という点である。「いやいやなんだその主観的な情報は」とお叱りを受けてしまいそうではあるが、それは決して私がそのような表現を好んでいるからというだけではないことを理解いただきたい。
例をあげればキリがないが、このコロナ禍においてよく口にされる「ソーシャルディスタンス」や「ロックダウン」なんてその好例だと思う。これらの表現がもし「人と人との距離離れましょう大作戦」や「都市閉めちゃうぞ計画」とかだったらどうだろう。確かに言葉の意味としては後者の方がわかりやすいが、ここまで社会に認知されることはなかったように思える。いや、流石にここまでふわっとした名前ならむしろ認知されてしまいそうだな……。「距離確保政策」や「都市封鎖」あたりが妥当か……?話を戻そう。ソーシャルディスタンスなどはネタにされていた側面もあったが、それでも使いたくなる・耳にしていて心地いい響きというのは相手に言葉を理解させる足掛かりになることは確かだろうということが言いたいのだ。
このように、こと発信においては難しい言葉を使うことでかえって意見などを周知しやすくなるという現実がある。それは、難しい言葉がその界隈では公用語になっているからに他ならない。だからそういった意味で、記事などにおいて難しい言葉を多用することはTPOを弁えていることになる訳だ。
しかし、このように難しい言葉が多用される社会や思想の問題は国民全員が全く無関係では通れない問題である。それなのに、それが一部の専門家の公用語で語られることは、果たして正しいことなのかという疑問もある。言葉を知らないことで政治や思想を知ることができないという状況は、公平であると言えるのだろうか。それどころか、むしろ政治の場面においてはマスメディアが華々しいところをピックアップするばかりだということもあり、内実というよりパフォーマンス重視の様相を呈している節すらあるではないか。
私ひとりが難しい言葉を放棄することで、全てのそういった言葉が消え去り、そのような状況が消え去るのならば私は進んで言葉を捨てよう。しかしきっと、そのような国内での言葉の壁はこれからも消えることはないのだろうと感じる。だが、それによって「知らないことで搾取される」ような状況が創出されることは想像できる。それも、搾取されていることすら知ることなく。
そういった意味で、難しい言葉を知ることは大切なのだと感じる。そうでなくても、そのような言葉を自分で噛み砕き、自分の意思を持とうという危機意識は必要なのだ。
これはきっと、「なぜ勉強をしなければならないのか」という子どもの疑問に対しても同様なことが言えるだろう。我々が知識を得るのは、真の意味で自分の価値観でさまざまな判断をするためなのだ。
さぁ、言葉を知ろう。本当の意味で自らの考えで、意思決定を行う一歩を踏み出すために。
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